志乃創 / 第33話

第32話 通行料

 瞼の裏が明るかった。  目を開けた途端、乾いた眼球へ白い光が刺さる。  鏡が並んでいた。  壁も、床も、天井も。  吸った息が喉に絡み、開いた口の中がひどく苦い。  回廊は視界の奥で何重にも折れ、どこを見ても同じ身体が床へ転がっている。  紫谷は仰向けのまま、手のひらを目元へ押しつけた。 「はいはい、今日もね」  声が、鏡の奥で何度も重なった。  床へ手をつき、身体を起こす。  掌に冷たさが貼りついた。  寝起きの血が遅れて巡り、こめかみの奥が鈍く脈打つ。  鏡の中でも、茶髪の男たちが一斉に身を起こした。  潰れた前髪。  ずれたピンクのヘアピン。  皺の寄った黒いワイシャツ。  どの顔も、同じように機嫌が悪い。  その中で、一人だけが立っている。  廊下の先。  黒髪の紫谷が、鏡の内側から壁へ背を預けていた。  自分と目が合う。  男の唇の片端が、ゆっくりと持ち上がった。 『客がきた』 「客って誰だよ」 『相応のもてなしが要るだろう?』 「会話できねえのな、能無しが」  紫谷は、冷えた床から身体を剥がすように立ち上がった。  黒髪の紫谷が、廊下の奥へ顔を向ける。  その先で、赤茶色のものが視界を掠めた。 「……何、今の」  毛を逆立てた尾が、角の向こうへ消えた。  遅れて、足音が鏡の奥を歩いていく。  黒髪の自分を見た。 「お前、何連れ込んだ?」 『招いた覚えはないな』 「答えになってねえんだよ」  もう一度、足音が響く。  さっきより遠い。 「勝手に人ん中うろついてんじゃねえよ」  返事はない。  角を曲がる。  廊下の先に、人影があった。  こちらを振り返る前に、交差する通路の奥へ消える。 「何なんだよ、マジで」  紫谷も追う。  靴底が鏡を蹴る。  折れた回廊へほとんど減速せず飛び込んでも、足音との距離は縮まらなかった。  赤茶色の尾の先だけが、遠くの鏡を横切っていく。  こちらが足を緩めたわけでもないのに、また一つ遠ざかった。 「いや、速すぎだろ」  背後の鏡で、黒髪の紫谷が薄く笑った。 『右だ』 「随分親切じゃん」 『客を迷わせるのは忍びない』 「思ってもねえこと言うなよ」  左へ折れる。  このまま走っても、追いつかない。  舌打ちして、壁に並ぶ鏡へ目を走らせた。    一枚目は、夜の寝室。  やだ。  二枚目は、古い家の座敷。  こっちも無理。  三枚目。  学校の階段。  指が、鏡の手前で一度止まった。  そのまま鏡面に押し当てる。 「これならまだマシだろ」  冷たい面が腕を呑み込む。  身体ごと踏み込めば、空気が変わった。  階段の踊り場だった。  細長い窓から午後の光が差し、下の階から笑い声が届く。  手すりには触れず、途中の窓を抜けた。  学校の、男子トイレへ出た。  湿った空気が肌に貼りついた。  古い洗剤の甘い匂いに、尿の臭いが混じっていた。  その下に、湿った皮膚を長く重ねたあとのような、汗と生ぬるさが残っている。  手前の個室は開いていた。  制服姿の自分が、便器の脇に座り込んでいる。  右腕は背中へ引かれたままだった。  手首の紐が、剥き出しの配管へ回っている。  濡れたシャツが肌へ貼りつき、指の痣と吊られた赤い痕だけが残っていた。  紫谷は足を止めない。  廊下の向こうから、声が飛ぶ。 「掃除してから帰れよー」  座り込んだ自分が、返事をする。 「ん、また明日ね~」  床についた左手の指先だけが、ゆっくり縄を探した。  床には、破れた包装と、裏返った使い捨ての手袋。  排水口には濁った水が残り、濡れた制服の裾が通路へはみ出していた。  踏まないくらいは、してやってもいい。  洗面台の鏡へ手を入れた。  回廊へ戻る。  近道にはなった。  それでも、遠くに赤茶色の尾が揺れている。 「今ので追いつけねえの?……だる」  紫谷は再び走り出した。  尾が止まり、肩越しにこちらを振り返る。  すぐに角へ消えた。 「っは、逃げてんじゃねえよ」  隣の鏡には、また黒髪の紫谷がいた。 『左』 「黙ってろ」  左の鏡を過ぎる。  先に並ぶのは、公園、学校の教室、実家。  その奥には、暗い天井。  実家から目を逸らした。  天井は最初から見ない。 「……教室でいいや」  紫谷はそこへ肩から入った。  放課後の教室だった。  机が後ろへ寄せられている。  男子生徒が二人、高校生の紫谷を机へ押しつけていた。  床には教科書と筆箱。  潰れた菓子パン。  開いた鞄から、細かなものが散っている。 「これ、母親?」  机の上から写真が持ち上がる。  高校生の紫谷が顔を上げた。 「返して」 「来月から親引っ越すんだろ」 「待って。頼むから」  写真は、追いかけた指先を避けて隣へ渡された。 「……戻ってくるかも、だし」  一瞬だけ、教室が静かになる。 「出た。未来の話」 「戻ってくるかどうかも見ればいいじゃん」  制服を着た自分は何も答えない。 「それ、未来じゃなくて妄想って言うんだよ」  紫谷は迷わず教室の後ろへ向かった。 「おい、あんま触んなよ」  一番端のロッカーを開ける。  教科書と潰れた紙袋しか入っていない。 「なんで?」 「だって気味悪いじゃん」 「平気だって」  閉めて、隣を開ける。  内側に、小さな鏡が貼りつけてある。 「できるなら、とっくにやってるだろ」  鏡の前へ屈んだ。  顔ひとつ映る程度しかない。 「……ちっさ」 「だから潰れたんじゃねえの?」  紫谷は一度立ち上がり、ロッカーとの距離を取った。 「まあ、いけるか」  助走をつけ、片足から鏡へ突っ込む。  肩が縁につかえた。 「早く開け、馬鹿」  ロッカーを掴み、身体を無理やりねじ込む。  小さな鏡が軋み、紫谷を回廊へ吐き出した。  その先に侵入者の背中が見えた。  もう十歩もない。 「やっと追いついた」  手を伸ばす。  尾の先へ指が触れる寸前、侵入者が右へ折れた。  角を曲がる。  その先で、道が三つに割れていた。  右。  左。  正面。  足音だけが、三方から返ってくる。 「……は?」  初めて入った奴が、ここまで迷わず来られるはずがない。  正面の鏡を睨んだ。 「絶対、おかしいだろ」  黒髪の紫谷が映る。 『右だ』 「あ、そう」  左へ踏み出した瞬間、右の通路から靴音が鳴った。  舌打ちして身体を返す。  鏡の中で、黒髪の紫谷が笑った。 『随分と信用がない』 「あると思ってんの?」  通路の奥で、尾が横切る。  その先へ飛び込んだ時には、もう背中も見えなかった。 「くそっ」  並ぶ鏡を見渡す。  浴室は見なかったことにする。  公衆トイレも、ついでに却下。 「そう何度も便所なんか見てたまるかよ」  窓ガラスの鏡へ飛び込んだ。  夕方の住宅街へ出る。  制服姿の紫谷が、コンビニの袋を下げて歩いていた。  向こうから来た男が、その顔を見て立ち止まる。 「あれ、君、千円の子でしょ」  男が声を落とした。 「今、持ってないけど。後でもいい?」 「今日は友達んち行くから」 「また公園来てよ」 「気が向いたらねー」  近くの窓を抜ける。  音楽室へ出た。  部活はもう終わっている時間。  譜面台が壁際へ集められ、椅子だけがまばらに残されていた。  音楽準備室の扉を、紫谷より頭ひとつ高い男子生徒が押さえている。  長い黒髪は低い位置でひとつに結ばれていた。  窓から差す西日に透けたところだけが赤く見える。  高校生の紫谷が、細長いケースを抱えて出てきた。 「それ、持ち出して大丈夫なの」 「バレなきゃいいでしょ」 「悪いお坊ちゃんだなぁ」 「明忠に言われたくないから」  ケースを机へ置く。  留め金を外し、ヴィオラを取り出した。  紫谷は少しだけ歩調を緩めた。  制服姿の自分が楽器を肩へ乗せる。  明忠が一番前の椅子へ座った。 「何か弾いてよ」 「何かって…まあ、いいけど」  弓が弦へ触れる。  低い音が、二人きりの音楽室へ伸びた。 「それさ、上着邪魔じゃね?」 「もっと早く言ってよ」  明忠は苦笑して、紫谷の肩へ手を伸ばした。 「ほら」  ネクタイを少し緩め、制服の上着を肩から抜く。  高校生の紫谷はされるがままに笑っていた。 「次、何する?」 「明忠が決めて」 「お前がやりたいこと。あ、何でもいい禁止な」 「めんどくさ」  軽く笑う。  明忠は、それ以上聞かなかった。  代わりに机の菓子パンを半分に割る。 「これ食う?」 「うん」  紫谷は二人の横を通る。 「……足止めかよ。小賢しい」  この記憶を選べば足が鈍る。  知っているのは、自分と――もう一人だけだ。 「選んだ俺も馬鹿じゃん」  明忠の背後で、西日を返していた鏡へ身体を滑り込ませる。  冷えた回廊が戻ってきた。  侵入者はすぐ近くにいた。  振り返った顔は、鏡を抜けきる前の像と重なって輪郭がぼやけている。  侵入者は追いつく寸前で角を曲がった。 「……やっぱ、お前が逃がしてんじゃん」  左右の鏡に、黒髪の紫谷が現れる。  揃って愉快そうに目を細めた。 『右だ、追いつきたいのだろう?』 「誰のせいで走ってると思ってんだよ」 『ようやく言うことを聞く気になったか』 「親切ぶんな。気持ち悪い」  今度は右へ走った。  夜の寝室。  薄暗い座敷。  どちらも、侵入者のすぐ前へ出られる。 「そこまで払う気ねえよ」  学校の鏡へ入る。  廊下から階段へ。  そこから、また別の場所へ。  一つ抜けるたび、侵入者の背中が数歩ずつ近づいた。  鏡の向こうで、尾が跳ねる。 「そこ!」  鏡面から上半身を出し、両腕で尾へしがみついた。 「うわっ!?」 「捕まえた!」  そのまま全体重を後ろへかける。  侵入者が尻から床へ落ちた。  紫谷も鏡から転がり出て、片膝を強く打つ。  腕の中で、膨らんだ尾が獣みたいに暴れた。 「痛い!離してください!」  聞き覚えのある声だった。  顔を上げる。  床へ手をついた男の頭には、赤茶色の耳が二つ生えている。 「……柏城?」  柏城が振り返った。 「はい、そうですけど」 「は?」  手元を見る。  毛がある。  温かい。  掴んでいる尾は、柏城の腰から生えていた。  耳を見る。  柏城の顔を見る。  もう一度、尾を見る。 「え、何これ」 「離してくださいって!」  紫谷は尾を離した。  柏城がすぐに抱え込み、乱れた毛並みを押さえながら紫谷を睨む。  耳も後ろへ伏せていた。 「いや、ていうか」  紫谷は柏城の耳へ手を伸ばしかける。  柏城が顔を背けた。 「触らないでください」 「本物?」 「知りませんよ」 「知らないのに生やしてんの?」 「俺の意思じゃありません」  柏城は尾を抱えたまま、紫谷を見上げた。 「……鏡から出れるんじゃないですか」 「何の話?」 「追いかけてきた足音も先輩ですか?」 「待って待って。そもそも何でいんの」 「出れるなら、もっと早く助けてくださいよ」 「話聞けよ」 「先輩に逃げろって言われてたんですけど」 「それって黒い方?」 「そうです、まだあそこに」  柏城は、紫谷の背後にある鏡を指した。  鏡の中には黒髪の紫谷が立っていた。  首を傾ける角度も、目を細める癖も、同じだった。 『追いつかれちゃったね、柏城』  声だけが妙に耳へ残る。  呼びかけたあとも、返事を待つように笑っていた。 「さっきの先輩」 「俺じゃねえから」  鏡の中の男は、ゆっくり肩を竦めた。 『えー。柏城君は、俺のこと先輩って呼んでたけど』  細めた目が、紫谷へ向く。 『どこが違った?』  柏城の目が、二人の髪を往復した。 「あの、髪、黒くならないんですか」 「はあ?」 「別のものと混ざって姿が変わる、ここが夢だからって」  鏡の中で、黒髪の男だけが笑っていた。  舌打ちする。 「嘘つかねえまま騙すなよ」  黒髪の男が口の端を上げる。 『ちゃんと我慢できたじゃん』 『行きたかったとこにも行けたし』 「消えろ」 『続きまで見せてやったのに』  黒髪の姿が、奥へ溶けるように消える。  紫谷は目元を押さえた。 「今の、俺じゃないから」 「……似てましたよ」 「似せてんだよ、腐れ野郎が」 「話し方も結構」 「それ以上言ったら置いてくからね」  柏城が口を閉じる。  耳だけが、まだ警戒するように動いていた。  指の隙間から、尾を抱えた柏城を窺う。 「何見た?」 「何って」 「ここ来てから。あいつに何見せられた」  柏城は答えなかった。  尾を抱えた腕に、少し力が入る。 「別に怒んないから」 「先輩の子供の頃を」 「それだけ?」 「ご家族といるところも」  紫谷の手が額から落ちる。 「あと」  柏城は一度、言葉を切った。 「名前を見ました」  紫谷は柏城を見た。  周囲の鏡に、二人の姿がいくつも映っている。 「あーね。何て読んだ?」 「はちがつ、ついたち?」 「んは、」  紫谷は笑った。 「八月一日に穂を摘むから、八月朔日で、ほづみ」  柏城が、口の中で一度なぞる。 「八月朔日緋毬《 ほづみ  ひまり》」 「そう」  紫谷は立ち上がった。 「昔の名字」 「今は使ってないんですか」 「普段はね」 「いつ使うんです」  柏城を見下ろす。 「あのさ、デリカシーって知ってる?」 「職場で交尾してる人に言われたくないです」 「嫌な言い方するじゃん……」  柏城は尾を抱えたまま立ち上がった。 「それで、どうやって帰るんですか」 「俺が送んの?」 「ほかに誰がいるんです」  紫谷は回廊の先を見る。  どの鏡も、同じ二人を返していた。 「離れずついてくるなら、案内してやってもいいよ」 「偉そうですね」 「迷子ちゃんが文句言うなよ」  一人で戻るだけなら、使える鏡はいくつもある。  けれど、柏城を家へ連れ帰った過去はない。 「……あ、帰んのも有料か」 「何がですか」 「んーん、こっちの話」  二人は並んで歩き出した。  進むうち、左右の鏡に淡い光が灯り始める。  紫谷の足が止まった。 「こっから先は下向いて歩くこと」  柏城の視線が鏡へ流れる。  紫谷は胸倉を掴み、そのまま頭を引き下ろした。 「素直に言うこと聞けって」  引かれた襟が喉へ食い込む。  それでも手は緩まなかった。 「見るな。これ、命令だからね」

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