志乃創 / 第34話

第33話 応援要請

 胸倉から手が離れた。  柏城は視線を落としたまま、小さく息を吐く。  命令。  その言葉に、踵がわずかに開いた。  足が肩幅へ収まり、背中で両手を組みかける。  途中で気づいて、片手だけを下ろした。  考えるより先に、身体が号令を受ける形を作っていた。 「……狡いですね」 「何が?」  命令と口にされた時点で、答えは決まる。 「いえ。聞きますけどね」  柏城は床へ視線を戻す。  紫谷が歩き出す。  柏城も、その靴を追った。 「……何が映るんですか」 「先のこと」 「未来なら、見た方が得じゃないですか」  紫谷は口を開きかけて、閉じた。  柏城との距離を詰める。 「動かないで」 「先輩?」  冷えた指先が目元へ伸びた。  柏城はわずかに顎を引く。  睫毛に触れないところで、掌が光だけを塞いでいる。 「そのまま」  隣の鏡が、指の背で軽く叩かれた。  固い音がまだ残るうちに、 「……ごめん」 「え、」  返事を待たず、もう一度。こつ。 「ちょっと我慢して」  真横で無線が鳴った。  雑音混じりの呼び出し音。 『――応援要請、繰り返す』  身体が、先に構えた。  あの日から三か月半が過ぎていた。 『隊員一名、応答なし』  靴音。  金属がぶつかる音。  記憶の向こうで、恋人が喋る。  短い破裂音。  怒鳴り声。 『下がれ!』  誰かが息を吸う。  それきりだった。  静寂だけが残る。  柏城の目元を覆う指は、まだ動かない。 「……これで分かる?」  耳のすぐ近くで声がした。  柏城はすぐには答えなかった。 「お前、機動隊にいた時さ」  紫谷の呼吸が、指の隙間を掠めている。  普段より浅い。 「もし知ってたら、どう動いた?」 「……みんなに知らせます」 「信じてもらえなかったら?」 「隊長に配置転換や人員を増やすよう具申します」  返事は淀まなかった。 「少なくとも、同じ結果には」  紫谷の指が、柏城の眉間へ触れた。  止めるような手つきだった。 「あのね」  遠くで無線が鳴り始めた。 「大事なこと言うから」  今度は別の声だった。  誰かが泣いている。  言葉は聞き取れない。  ただ、同じ名前を何度も呼んでいる。 「ここに映るのは、そういうのじゃない」  横で、何かが燃える音がした。 「先回りするための予定表でも、間違い探しでもない」  低く膨らみ、硝子の割れる音が混じる。 「何したって」  目元を覆う指先が震えた。  ほんの一度だった。 「どうやったって、変わんない」  また、柏城の名が呼ばれた。  今度の声は紫谷に似ていた。  柏城が顔を動かすより早く、目元の手が強く押し返す。 「見るな」  紫谷の声が低くなる。 「それ、俺じゃないんだって」  鏡の中で誰かが笑った気配がした。  声だけが、すぐ横から落ちてくる。 『知っていれば、助けられたかもしれないのにな』  紫谷が鏡を殴った。  硬い音が廊下を走る。  罅は入らない。 『次は、間に合うかもしれない』 「柏城で遊ぶなよ」 『見せてやろうか』  目元を覆う手が、わずかに位置を変える。  隙間ができるたび、塞ぐように指先が動いた。 『お前が可愛がっているものが、どうなるか』 「柏城」  声を遮るように、紫谷が呼んだ。 「……はい」 「自分で目、隠して」  柏城は言われるまま右手を目元へ当てる。  紫谷は一瞬だけ確かめるようにその手首へ触れ、手を離した。 「もう片方」  柏城は空いた左手を少し浮かせた。  紫谷がその手を取り、自分のシャツの裾へ押し当てる。 「掴んで。まっすぐ歩くだけ」  布を握る。 「できるでしょ」 「先輩は」 「出口探すから」  返事を待たず、紫谷は歩き出した。  足取りがわずかに乱れる。  そのたび、歩幅は少しずつ狭くなっていた。  鏡の奥では、誰かが泣いた。  笑った。  何かを落とした。  紫谷の名を呼んだ。  柏城の名も聞こえた。 「あ、三か月後」  不意に足音が止む。  柏城の腕が、紫谷の背中へ触れる。 「何がですか」 「香月さんに頼まれてたやつね」  館内放送が聞こえる。 『本日の開館は終了いたしました』  数秒、紫谷は黙っていた。  足音が一つ、後ろへ下がる。 「詳しく見なくていいんですか」 「良くない。でも、迷子返す方が先ね」  また歩き出す。 「そこまで器用じゃないから」  掴んだシャツは、熱を含み湿っていた。  歩くたびに背中の動きが伝わる。  足音は同じ間隔で響き続けた。  どれだけ歩いたのか、もう数えることもできない。  引かれる力が、ふっと消えた。  次の一歩は来なかった。  鏡の向こうで、鍵が回った。  扉が開く。  誰かが言った。 『あ、おかえりなさい』  紫谷が、長く息を吐く。 「見つけた」  声は掠れていた。  足音が近づく。  伸ばされた手が、柏城の腕を掴んだ。 「帰るよ」  柏城は、その手に導かれるまま踏み出した。  足元の感触が変わった。  湿った空気が消える。  次の瞬間。  耳元で、着信音が鳴った。  場違いなくらい、乾いた音だった。  目を開けば見慣れた天井。  窓の向こうはまだ暗い。  枕元で、スマホが震えている。  画面には香月からの不在着信が三件。 「……やっべ、」  身体が先に起き上がった。  布団を蹴る。  スマホを掴んだ瞬間、着信が繋がった。 「おはようございます、柏城君」  電話の向こうで、息を吐く気配がした。 「捜一から応援要請です」 「すみません」  柏城は通話を繋いだまま、ハンガーから制服を引き抜いた。 「今、向かいます」

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