志乃創 / 第35話

第34話 五時十六分

 午前四時五十分。  夜明け前の道路を、柏城は公用車で走っていた。  助手席では、猫屋敷が窓の外を眺めている。  後部座席では、田中が送られてきた連絡事項を確認していた。 「九十九課からは、四人だけですか」 「はい。死人が出ているので、一応二組でって判断みたいですね」  後部座席で、シートがわずかに軋んだ。 「それで俺ら全員、こんな時間に起こされたわけ?」 「先に所轄が動いてます。俺らは特殊事象側の確認ですね」 「しかも待ってるの一課かよ」  柏城はバックミラーを見る。  後部座席で、紫谷と目が合った。 「何か問題あるんですか?」 「いや?楽しい同僚たちだよ」  隣の田中が苦笑した。  猫屋敷は、窓の外を見たまま何も言わなかった。  山の向こうはまだ暗かった。  後部座席のドアが開く。  冷えた朝の空気が流れ込む。  田畑の向こうに家が点々と並び、道路脇の草には夜露が残っていた。  その静けさの中で、一軒の家だけが規制線に囲まれている。  紫谷が車を降りると、玄関前で動いていた捜査員の何人かが手を止めた。  視線だけが集まる。 「お、来た来た」 「あー、噂の」 「公安気取り様」  笑い声は小さかった。  けれど、現場の静けさの中では十分に届いた。  紫谷が足を止めた。  左胸へ手を伸ばす。  外していた階級章を留め直した。  とん、と指先で位置を整える。 「……警部かよ」  その動きを見ていた刑事の顔から、笑みが消えた。 「はいはい。九十九課の紫谷警部でーす。自己紹介しなくても、ご存じみたいっすね」 「失礼しました、紫谷警部」 「ん。言い直せて偉いねえ」  後ろで、田中が深く息を吐いた。  紫谷が先へ進む。  猫屋敷も何も言わず、その隣を歩いた。  刑事たちの間を抜け、ファイルを抱えた男が近づいてくる。 「紫谷警部。お待ちしていました」 「どうも、引継ぎお願いします」  相手の視線が、紫谷の胸元で止まった。 「……九十九課は、優秀な人材を評価するのがお早いですね」 「ありがとうございます」  紫谷は軽く頭を下げた。 「先輩方が長く現場を支えてくださって、こちらも助かります」  所轄の警部補の頬が動く。  猫屋敷のペン先が、一度だけ止まった。  柏城は静かに視線を逸らす。  ファイルが開かれた。 「規制開始は午前二時四十分から。第一発見者は通報者本人、現在も署で聴取中です」  臨場時の状況。  現場見取図。  採取物一覧。 「鑑識と検視官から、通常の死体所見では説明できない点があると報告を受けています」  写真をめくる乾いた音だけが、家々の間に残った。 「携帯端末は証拠品として保全済みです。解析は担当部署へ依頼中です」  一度、後方の刑事へ視線を向ける。 「人為的関与については、こちらで継続」  それから紫谷を見る。 「現時刻をもって、特殊事象に関する調査を九十九課へ引き継ぎます」 「了解でーす」  紫谷は軽く手を上げた。 「第一発見者と隣人の聴取記録、仮のもので構いませんので共有をお願いします」  続けて田中が明るく言った。 「それと、付近の防犯カメラの照会番号もいただけますか。証言との時刻照合に必要なので」  男の視線が紫谷から猫屋敷へ移る。  最後に、巡査部長の階級章で止まった。 「九十九課は連携が取りやすそうで、羨ましい限りです」 「良ければ来ます?歓迎しますよ」  田中は笑った。 「……冗談ですよ」 「はい、分かってます」  田中はもう資料へ目を落としていた。 「聴取担当者もお願いします。確認事項が出たら、僕から連絡しますので」 「資料に記載済みです」 「ありがとうございます」  紫谷は引継書をめくった。  視線が、一箇所で止まる。 「こちらの係長からは、人為的な殺害の可能性を安易に排除しないように、と」 「ご心配なく。俺らも普通の事件まで欲しがるほど暇じゃないんで」 「秘匿指定を行う場合は事前に一課へ了承を得て――」 「一報、ね」 「……秘匿されれば、こちらの捜査にも支障が出ますので」 「分かりますよ」  紫谷は引継書を指先で叩いた。 「ここだけ、少し合わせても?」 「一課としては、了承という形でお願いしたいところですが」 「だって。ハル君」  猫屋敷が引継書へ目を落とす。 「はいはい」  該当箇所へ線を引く。  横へ一文を書き加えた。  《指定前の情報共有を要請》  猫屋敷は紙を相手へ向ける。 「訂正箇所の確認お願いします」  相手は、差し出されたペンを取らなかった。 「九十九課は実務教育も行き届いているようで」 「いえいえ、花形の一課にご指導いただけて光栄です」  猫屋敷はペンを持ったまま待っている。  一拍置いてから、訂正箇所へ名を書いた。 「ありがとうございまーす」  猫屋敷が引継書を回収する。 「今回も、綺麗な報告書を期待していますね」 「ご期待には添えるよう努力します」  紫谷は引継書を受け取り、署名欄へ名前を書く。  原本は警部補へ戻る。  猫屋敷は写しだけを装備袋へ収めた。 「現場はこの奥です。鑑識と検視官による確認後、遺体の位置は変えていません」 「じゃ、ここからは俺らで。引継ぎご苦労様ね」  扉の脇には、現場出入記録簿と消毒剤、口を開いた廃棄袋だけが置かれていた。  田中が記録簿を開く。 「五時十六分。紫谷さんからお願いします」  所属、氏名、入室時刻を記入する。田中が記録簿を閉じた。  それぞれ必要な装備だけを取り出す。  マスクを着け、シューズカバーを履く。  手指消毒を済ませ、最後にニトリル手袋をはめた。 「九十九課四名、入室します」  田中が入口の警察官へ告げる。 「指定経路でお願いします。黄色テープの内側をお通りください」 「はーい」  柏城は最後に敷居を越えた。  扉が閉まりかけたところで、一度だけ振り返る。  刑事たちは、進入経路の外からこちらを見ていた。  扉が閉じる。  外の気配が扉一枚の向こうへ切り離された。 「……めちゃくちゃ仲悪いじゃないですか」 「礼儀正しいよね~、一課の連中」 「階級章ってこういうとき使うんですね」 「普段も敬ってくれていいんだけど」 「それはちょっと」 「なんで?」  紫谷は不満そうに言いながら、白布の前へしゃがみ込んだ。

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