志乃創 / 第7話

第7話 鑑賞者

『すみません、紫谷くん』  香月の声だった。 『急用が入りました』 「あらら」 『こちらの件はお二人にお任せします』 「珍しいっすね」 『ええ』  少しだけ疲れたような笑い声。 『柏城君を頼みましたよ』 「ん、了解」 『それと』  香月の声が少し低くなる。 『気を付けてくださいね』  紫谷の表情が変わる。  ほんの少しだけ。 「なんか見つかったってことすか?」 『いえ、そうではなく……柏城君は少し心配ですが。  ああ、紫谷くんを心配していないんじゃないですよ』 「ふーん……?」 『とりあえず急ぎなので。では、失礼します』  通話が切れる。  紫谷は画面を見つめていた。  そしてスマートフォンをしまう。 「課長ですか」  柏城が聞く。 「うん」 「何かあったんです?」 「さあ」  紫谷が立ち上がる。 「館長さん、この美術館って夜も展示室入れたりする?」  館長が首を振る。 「閉館後は施錠しています」 「警備員は?」 「一名だけです」 「なるほど」  紫谷は頷いた。  そしてまた。  監視映像を巻き戻した。    失踪者の大学生。  展示室へ入る。  自画像を見る。  立ち止まる。  ここまでは同じ。    紫谷は、拍手を始める前で映像を停止した。 「ん、柏城」 「はい」 「ここ」  画面を差す。柏城は目を凝らした。  何もない。  そう思った。  だが、よく見ると。  大学生の背後。  巨大な自画像の中。  画家の後ろ。  暗い背景部分。  そこに、何かいる。    人影。  いや。  人の顔。    ぼんやりと。  いくつも浮かんでいる。 「これは……、」 「失踪者、かなあ」  紫谷が言った。 「まだ生きてると思うけどね」  紫谷は平然と言った。 「生きてる、ですか」 「うん」 「なんで分かるんです」  紫谷は画面を見つめたまま答えた。 「見てるから」 「どういう……?」 「死んでるなら見ないし、目は合わない」  説明になっていない。  それでも紫谷は真面目だった。 「怪異は役割で動く。こいつは何か…うーん、人とか?  まあなんかを保存する怪異なんだろ。喰うじゃなくてね」  そして。  停止画面の久留須玄一を見つめる。 「描くこと、残すこと、飾っておくこと」  ぽつぽつと呟く。  まるで独り言だった。 「だから殺さない、殺したら残せない」  監視室の空気が重くなる。  館長が震える声で言った。 「では、失踪者たちは」 「……絵の中、かな」  監視室の照明が、明滅した。  ぱちり。  暗闇。  そして再点灯。  ほんの一秒にも満たない時間。  けれど。  柏城は見てしまった。  監視モニターの画面。  停止していたはずの自画像。  その中の久留須玄一が。  こちらを見て、笑っていたことを。 「……っ、!」  柏城が息を呑んだ。瞬きをする。  自画像はただの絵に戻っていた。  動かない。  笑ってもいない。  だが見た。  確かに見た。 「紫谷さん」  声が上ずる。 「今、」 「うん。見た見た」  紫谷は驚かない。 「向こうも気付いたっぽい」  そう言って伸びをする。  眠そうな仕草。相変わらず緊張感はない。 「館長さん」 「は、はい」 「第三展示室閉鎖して」 「え」 「今すぐ」  館長は戸惑った。 「ですが来館者が――」 「人が死んだら、経営も来館者もないんじゃない?」  その一言で館長は黙る。 「……職員へ、連絡してきます」  館長は足早に監視室を出ていった。  扉が閉まる。  モニターの白い光だけが残った。  紫谷はしばらく停止した映像を見ていた。 「俺らも行こっか」 「第三展示室へですか」 「うん。まだいるかもだし」  紫谷はモニターの電源を落とした。  画面が黒くなる。  一瞬だけ。柏城自身の顔が映った。  監視室を出る。  廊下は、先ほどより明るく見えた。  展示室から流れてきた照明が、磨かれた床へ淡く伸びている。  客の話し声。  遠くで鳴る館内音楽。  監視室の静けさを出た途端、普通の美術館へ戻ったようだった。 「……こうして歩くと、ぱっと見普通ですね」  柏城が言う。 「何が?」 「美術館です」 「さっきまで帰りたそうだったのに」  柏城は紫谷を見る。 「俺がですか?」 「うん」 「だから、あれは警戒していただけです」 「そっか」  柏城は壁に並ぶ絵へ目を向ける。  年老いた女性が椅子に腰掛けた肖像画。  柔らかく伏せた目元。  僅かに上がった口角。  先ほどより、穏やかな絵に見えた。  口元が少しだけ動いた気がする。  笑ったのだろうか。  それほど嫌ではなかった。 「一課の人たちも、もう少し見ていけばよかったのに」  紫谷の歩みが遅くなる。 「何を?」 「絵です」 「捜査に来てんだけど」 「ああ」  柏城は小さく笑った。 「そうでした」  また歩き出す。  絵はどれも綺麗だった。  見ていると、先ほどモニターに映っていた人たちのことまで、それほど不幸には思えなくなる。  満たされた顔で。  笑って。  拍手をしていた。 「三人とも、同じものを見たんでしょうか」  今度こそ、紫谷の足音が止まった。 「四人ね」 「ああ。そうでした」  柏城は軽く頷いた。  たった一人、数え間違えただけだ。  何か言いたそうにこちらを見ていた紫谷も、やがて笑った。 「柏城」 「はい」 「俺から離れないでね」 「子供扱いしないでください」 「子供より、面倒そうだから言ってんの」 「失礼ですね」  柏城も笑った。  冗談だと思った。  その時、館内放送が流れ始めた。  第三展示室を一時閉鎖するという案内。  前方から客たちが歩いてくる。  不満そうな声。  残念がる声。  柏城は道を譲りながら、彼らの顔を眺める。  皆、帰っていく。  そのことが少しだけ、惜しいように思えた。  職員が来館者を誘導している。  ざわめき。  人が減っていく。  展示室の前へ着く頃には、誰もいなくなった。  長い廊下。  雨音だけが遠く聞こえる。 「柏城、何か見えたら言って」 「何をです」 「何でも」  曖昧だった。 「怪異捜査は理屈より違和感優先。ちゃんと覚えてね~」  第三展示室へ入る。  久留須玄一の自画像は、先ほどよりも綺麗に見えた。  厚く盛られた絵の具。  刻まれた皺。  長い指の先に残る色。  見ていて飽きない。  もう少し、近くで見たかった。 「柏城」  紫谷に呼ばれる。 「はい」 「俺ら、何しに来たんだっけ」  変な質問だった。 「仕事です」 「何の?」 「美術館の」 「美術館で、何する仕事?」  答えようとして、言葉が止まった。  警察官だ。  事件があった。  誰かが消えた。  誰が。  何人。  どうして。  自画像を見る。  窪んだ瞳は、不思議なほど優しかった。  急がなくていい。  思い出さなくていい。  そう、優しい言葉をかけられた気がした。 「絵を、見に」  柏城は答えた。 「そっか」  紫谷の声から、僅かに温度が消えた。 「被害者、何人?」 「三人」 「四人」 「……そうでした」 「最初の人の鞄」 「黒です」 「赤」 「細かいですね」  柏城は笑った。  そんなことを、どうして今気にするのだろう。  自画像へ向き直る。  綺麗だった。  この絵を見て、何も感じない方がおかしい。  胸の前で、両手が上がった。  自分の手だった。  ぱち。  乾いた音が、展示室へ響く。  横から手首を掴まれた。  二度目の拍手はできなかった。 「拍手は禁止」 「なぜです」 「お前、もう入口に立ってるから」  紫谷は笑っていなかった。 「何のですか」 「忘却と永遠の」  掴む指に力が入る。  爪が食い込んでじくじくと痛む。 「怖くなくなったんじゃないよ」  その声が、近い。 「怖がる理由から忘れてんの」  途端に、喉へ薄い膜が張りついた。 「……っ、は」  空気が入らない。  暖かかった湿気が、急に重くなる。  肺の中へ水を注がれているようだった。  柏城は自画像を見上げる。  変わっていない。  そのはずなのに。  先ほどまで美しく見えていた油彩が、濡れた皮膚のように光っている。  痩せた身体。  油の膜を浮かべた長い指。  窪んだ眼窩だけが、まだ乾かずこちらを見ていた。  目が合う。  違う。  今、合ったのではない。  入ってきた時から。  もっと近くで見たいと思った時から。  思い出さなくていいと、安心した時から。  ずっと見られていた。  視線を逸らす。  壁に並ぶ肖像画が目に入る。  伏せた目。  横を向いた顔。  正面を見据える瞳。  向きはばらばらなのに。  視線の先だけが、一つの場所へ集まっていた。  久留須玄一の自画像。  そして、その前に立つ自分。  濡れたものを、皮膚のすぐ近くへ押し当てられているようだった。  触れられてはいない。  それでも首筋を拭いたくなる。  静けさが、耳の奥に濡れて溜まる。  誰も声を出さないのではない。  息を潜めて。  こちらを見ている。 「紫谷さん」 「何」 「さっきから」  声が掠れた。  身体の芯が冷えていく。  呼吸が浅い。 「……目、合ってませんか」 「っふは、今更?」  紫谷は笑った。  壁の肖像画も。  中央の自画像も。  誰一人として。  最初から、笑ってなどいなかった。

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