志乃創 / 第28話

第27話 歩幅の反響

 朝倉詩織が資料を閉じた頃。  九十九課では、対応記録が一行ずつ並べ直されていた。  柏城は、ディスプレイに表示された事象報告書を上から追う。  境界院への支援要請。  現場区画の立入制限。  救助活動の開始。  被害者本人の救助意思確認。  四行目で、キーを打つ音が止まった。  ひとつ前の行へ視線を戻す。  入力カーソルだけが、行の末尾で明滅している。  向かいの机では、田中が唐傘を広げていた。  内側から当てた和紙へ、細い刷毛で糊を引いている。  黒く染みた箇所は乾いても消えず、裂け目の周りだけが照明を鈍く返していた。 「田中さん」 「はい?」  顔は上がらなかった。 「あの時、最後まで助けてって言わなかったら、どうするつもりだったんですか」  刷毛が裂け目の端まで進む。 「その時は、選べるところまで戻して、もう一回――」 「ねえ、田中君」  窓際で書類をまとめていた紫谷が顔を上げた。 「これ、一課に持ってってくんない?」  茶封筒が机の上を滑る。  田中が刷毛を皿へ置いた。 「今ですか?」 「うん、今日中だって。田中君も当事者じゃん」 「この書類なら紫谷さんの方が当事者じゃないですか」 「俺、席立ったら香月さんに怒られるんだもん」  紫谷は自分の机に積まれた書類を指した。  田中は一度そちらを見てから、封筒を取る。 「……はあ、分かりました。提出してきますよ」 「ありがと。帰りにお茶も買ってきて~」 「それは自分で行ってください」  田中は笑いながら立ち上がった。  扉が閉まる。  廊下を離れていく靴音の向こうで、唐傘が小さく紙を鳴らした。  柏城はしばらく、閉じた扉を眺めていた。 「柏城って真面目ちゃんだよねえ」  紫谷が言った。 「急に何ですか」 「いや。いつも何考えてんだろと思って」  褒められているのか分からない口調だった。  紫谷は書類の角を揃え、クリップで留める。 「悪いことですかね」 「んや、悪くはないよ」  紫谷が缶を揺らすと、中でわずかに液体が鳴る。 「でもさ、疲れない?それ」  柏城は田中の机を見る。  途中まで糊を引かれた和紙。  小皿の上に置かれた刷毛。  透明な糊が、毛先から落ちそうな形で留まっている。 「紫谷先輩は、考えないんですか」 「考えるよ?え、俺のこと何だと思ってんの……」  紫谷は軽く身を引いた。 「考えて、嫌んなったらやめるだけね」  柏城は返事をしなかった。  指先から、少しだけ力が抜ける。  画面の端へ、影が落ちた。  紫谷がいつの間にか隣へ来ていた。  椅子の背へ手を掛け、柏城の肩越しに画面を覗き込む。 「あ、ここ」  紫谷が画面を指す。 「事象観測と立ち入り制限時刻、逆になってる」  柏城は報告書へ目を戻した。  確かに転記を間違えている。 「すみません、修正します」 「考え事なんてしてるからだよ」 「誰のせいですかね」 「んー、田中?」 「紫谷先輩ですよ」  救助活動の開始。十六時四十二分。  被害者本人の救助意思確認。十六時四十七分。  柏城は次へと目を移した。  隣では紫谷が書類をめくっている。  紙の擦れる音に、別の音が混じる。  誰のものかは、扉が開く前に分かった。  二つの行に視線を戻す。  その下で、細い縦線だけが点滅している。  廊下の向こうから、靴音が近づいてきた。  急ぐでもなく、緩むでもない。  一定の歩幅で、刑事部の奥まで届く。  九十九課の、扉が開いた。

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