志乃創 / 第29話

第28話  紫谷の趣味(微背後注意)

 二十一時を回った九十九課には、少ないながら仕事が残っていた。  昨日の夕方に入った通報の報告書だった。  古い集合住宅の共用階段に、上り下りを繰り返す影が出た。  住民から話を聞き、踊り場に残った怪異を外へ出して、一時間もかからず対応は終わっている。  けが人もいない。  現場確認を担当した柏城が通報内容と経過を入力し、紫谷が住民から聞いた内容と所見を追記する。  今日中に提出しろとは言われていない。  香月が確認するのは明日の昼で、急ぎの照会もなかった。  それでも柏城はパソコンを開いていた。  翌日に残せば、明日の仕事が増える。  二人で分担すれば三十分で終わるものを、わざわざ持ち越す理由もない。  終わらせてから帰った方が考えることが減る。  遅番だった田中は、七分前に唐傘と帰った。 「定時なので。お先に失礼しますね」 『お疲れさん』  紫谷が片手を振り、猫屋敷は椅子に座ったまま頭を下げた。  柏城も「お疲れさまでした」と返す。  田中と唐傘が出ていったあと、九十九課には当直の三人だけが残った。  柏城は自分の欄を上から読み直した。  向かいの机では、紫谷が菓子の袋を畳んでいる。  指先で細長く折り、結び目を作ろうとして失敗している。  報告書の画面は開かれているが、入力した形跡はなかった。  猫屋敷は椅子の背へ身体を預け、端末を眺めていた。  画面には報告書ではなく、ネット掲示板が表示されている。  読み終わっているらしく、スクロールバーは最下部にあった。  紫谷は菓子の袋をもう一度結ぼうとしている。  柏城が二人へ作業を促す必要はなかった。  担当は伝えてある。締切も共有されている。  そのうち始めるだろう。 「ねえ柏城、それあとどれくらい?」  紫谷が袋を机へ置いた。 「三十分くらいです」 「そっか」  紫谷は猫屋敷へ向き直る。 「はるくん、ちょっと資料探すの付き合ってよ」  猫屋敷の手がマウスから離れた。  柏城の方を一度見てから、紫谷に顔を向ける。 「え、今ですか」 「今がいい」  紫谷は猫屋敷の机へ寄り、開いたままの画面へ片手を置いた。  猫屋敷が椅子に座ったまま見上げる。  言葉は続かなかった。  紫谷の指が、猫屋敷のシャツの襟へ触れる。  折れていた先を直す。  猫屋敷は机に書類を残したまま立ち上がった。  紫谷が先に廊下へ出る。  猫屋敷は椅子を戻したあと、机の端に置いていたスマートフォンを伏せた。  通知を切ったようにも見えた。  扉の外から紫谷が顔を戻す。 「柏城、なんか困ったことあれば隣にいるから声かけてね」 「分かりました」  紫谷は満足したように引っ込んだ。  二人は九十九課を出て、隣の資料室へ入る。  資料室には、過去の対応記録と民俗学関係の書籍が収められている。  昨日の通報に近い記録を探すつもりなのだろう。  該当する年代も地域も、柏城には見当がつかなかった。  紫谷なら知っているのかもしれない。  柏城は報告書へ戻った。  到着から収束までの時間を照合する。  無線記録と腕時計で一分の差が出ていた。  公用車の到着時刻を基準に修正し、次の項目へ進む。  二十一時十二分。  壁の向こうで、硬いものが落ちた。  厚いファイルを床へ落としたような響きだった。  続けて、棚板が軋む。  誰かが拾う気配は届かなかった。  柏城は通報者の証言を入力した。  その場にいた人数。影が現れた踊り場。最初に通報者へ声をかけた者の氏名。  途中で、紫谷の机に置かれた菓子の袋が開いた。  折り目が戻っただけだった。  柏城は両手をキーボードへ戻す。  二十一時十七分。  資料室から話し声が届いた。  内容までは拾えない。  声量を抑えているらしく、単語の端だけが壁を抜けてくる。  猫屋敷が言い終える前に、紫谷の声が重なった。  壁の一点に、二人分の囁きが集まっている。  同じ記録を覗き込んでいるのだろう。  柏城は次の項目を開いた。  二十一時二十二分。  壁の向こうで、何かが二度ぶつかった。  間隔が短い。  本を棚から引き出し、隣の本まで倒したのかもしれない。  話し声はまだ続いている。  紫谷が笑った。猫屋敷が何かを言う。  今度は一音も聞き取れなかった。  声を抑えすぎて、言葉ではなく振動だけが壁へ残った。  その末尾へ、唇を開く時の濡れた響きが重なった。  古い記録簿には、湿気で保護フィルムが貼りついているものもある。  剥がせば似た鳴り方をするかもしれない。  そう考えた途端、同じ響きがもう一度届いた。  今度は、紫谷の笑いに繋がっていた。  柏城は入力欄へ目を戻した。  通報者氏名の欄に、受理時刻を打ち込んでいた。  数字を消し、正しい名前を入れる。  廊下を誰かが通り過ぎる。  壁の向こうは、靴音が遠ざかるまで黙っていた。  二人とも、廊下へ聞かせる気はないらしい。  また棚が鳴った。  さっきより、位置が低い。  乾いた板が軋む間へ、水を含んだ響きだけが挟まる。  嫌な予感がした。  右手で入力しながら、左手で現場写真の番号を揃える。  一枚目が外観、二枚目が影の出た踊り場、三枚目以降が階段と壁面。  番号の欠けはない。  写真の向きを直し、添付用のフォルダへ移した。  報告書の右端には、紫谷が担当する聞き取り欄と所見欄が並んでいる。  どちらも空欄のままだった。  二十一時二十七分。  話し声が途切れた。  ようやく資料が見つかったらしい。  柏城は対応後の経過へ移った。  住民への説明。階段を開放した時刻。署へ戻った時刻。  三行目を入力している途中で、資料室から衣服の金具が当たるような響きがした。  そのあとに、舌が上顎から離れる時に似た、水分を含んだ響きが続いた。  一度では終わらない。  壁のこちら側にあるのは、冷めた茶と書類と乾いたキーボードだけなのに。  隣から届くものだけがやけに濡れていた。  入力欄に、同じ助詞が二つ並んだ。  資料室側の壁を見る。  何も変わっていない。  灰色がかった板材の継ぎ目が縦に走り、掲示用の磁石が一つ残っている。  本が倒れるのは一度で終わる。  保護フィルムを、五分おきに剥がす理由もない。  壁の向こうで、また濡れた音がした。  今度は長い。  続いて、紫谷の声が途中で折れた。  柏城は画面へ向き直った。  二十一時三十二分。  扉を叩けば済む。  静かにしろと伝え、二人を仕事へ戻せばいい。  画面右下の時刻が、二十一時三十三分に変わった。  隣では、濡れた響きが間隔を変えながら続いている。  止んだと思えば、今度は近い場所から戻ってくる。  資料室のどこにいるのかまで、棚の鳴る高さで想像できた。  めんどくさい。  柏城は紫谷の所見欄を選択した。  紫谷が現場で話していた内容は覚えている。  一行入力する。  隣の聞き取り欄を開いた。  住民への質問も、返答も覚えている。  何も入れず、所見欄へ戻った。  資料室から、猫屋敷の声が届く。 「聞こえますよ」  言葉は明瞭だった。  紫谷が返す。  猫屋敷より低く抑えているのに、その返事を聞き取れた。 「知ってる」  柏城は時計を見た。  二十一時三十八分。  五分前から、何も進んでいない。  聞かせるつもりでいる。  以前の田中の声が頭に浮かんだ。 『俺ら、結構気ぃ使ってるんだよ?』  猫屋敷へ向けられた言葉だった。  聞かないふりをするのが、気を使うということなのか。  田中や香月はどうか知らないが、俺には気を使う義理もない。  うるさい。  資料室で、机の脚が床を擦った。  柏城は一行目へ戻った。  誤字を一つ見つけた。  直そうとして、やめる。  朝、前の当直者が残した車両記録を修正した。  昼、回覧に足りない書類を揃えた。  夕方、紫谷の記入しなかった時刻を無線記録から拾った。  隣から、また壁を叩くような響きが続く。  ……まじでうるさい。  帰ってやろうかな、もう。  壁の勤務表には、明日の朝まで三人の名前が並んでいる。  紫谷の欄に残っていた一行を消す。  自分の担当欄だけを保存し、添付資料を所定の場所へ移した。  パソコンをスリープにする。  机の引き出しから鍵と財布を取り出す。  椅子を机の下へ入れ、上着へ腕を通した。  そこでようやく、扉が開いた。  紫谷が先に出てくる。  前髪は崩れ、いつも留めているピンクのヘアピンがない。  黒いシャツは裾の片側だけがベルトの外へ出ていた。  猫屋敷はその後ろに立っている。  紫谷が猫屋敷の手からヘアピンを取り、前髪へ差した。  普段とは逆の向きで留める。 「柏城、どこ行くの」 「帰ります」 「まだ勤務時間だよ?」 「課長には早退を伝えます」  柏城は二人を見た。 「なんかもう、だるいんで。お疲れ様でーす」  片手を上げ、横を通り過ぎる。  紫谷が身体を避けた時には、柏城はもう廊下へ出ていた。  九十九課の扉が閉まる。 「体調不良かなぁ、だるいって」  猫屋敷は紫谷のシャツから出ていた裾を指した。 「馬鹿でしょう、あんた」  紫谷は自分の格好を見て、笑った。 「んは、やっぱ俺たちのせい?」  二人が暗くなったパソコンへ近づく。 「お仕事がんばろね、ハル君」  猫屋敷は自分の椅子へ戻った。 「……さっきので、充分頑張ったことになりません?」

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳