志乃創 / 第3話

第3話 入口

「まじ?」  窓際で椅子が軋んだ。 「まだ結構降ってるじゃん」  紫谷は失踪者の写真ではなく、窓を流れる雨筋を見ていた。 「仕事ですからね?」 「休みたいなー」 「駄目ですよ。柏城さんのペアは君ですから」 「横暴だよお」  欠伸のあとに滲んだ涙を、紫谷は指の背で拭った。  香月は四人分の資料を鞄へ収めていく。  どちらの手も、急いではいなかった。  その声を聞きながら、柏城は資料を抱え直す。  捜査一課から移ってきた事件の前で、この部屋の空気は少しも変わらない。  自分は、ずいぶん遠い場所に来てしまったらしい。    香月が室内灯を消す。  暗くなった窓に、三人の姿と、机に残された四人分の顔写真が重なった。  九十九課の捜査車両は署の隅に停まっていた。  年季の入ったシルバーのセダンは、洗い残した泥の筋を車体の下へ伸ばしている。  外の道を秋風が、さあっと木の葉をはいていった。  紫谷が運転席へ入り、香月は助手席へ回った。  柏城は少し迷った末、後部座席へ乗り込む。  ドアが閉まる。  エンジンがかかった。  雨はフロントガラスを叩き続けていた。  ワイパーが一定のリズムを刻む。  しばらく無言だった。  紫谷は片手でハンドルを握り、包装を半分剥いた菓子パンを齧っていた。  信号が赤に変わる。  車が止まるより先にスマートフォンへ手を伸ばす。 「運転中ですよね」 「今は止まってる」 「危ないと思いませんか」 「危ないね」 「やめてください」 「大丈夫だよ」  青信号に変わる。  スマートフォンを膝へ置いたまま、紫谷はアクセルを踏んだ。 「まだ死んだことないし」 「その理屈で許されるなら交通課はいりません」 「でも明忠……あー、友達から連絡来てんの」  コンビニ寄って電話していい?と勝手に話を進めている。  ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。  助手席の香月だった。 「柏城さん」  助手席で香月が笑った。 「言って聞くうちは、俺も注意していたんですが」 「今は?」 「今も注意はしています」 「効果がないだけだよ」 「君が言いますか」  香月が苦笑交じりに言う。  課長の言う事さえまともに聞かないのか、この人は。  柏城は頭を抱えたくなった。  紫谷は気にした様子もなく言う。 「香月さんだって人のこと言えないじゃん」 「俺ですか?」 「昨日の昼プリン食べたでしょ」 「プリン?」  柏城が聞き返す。  ああ、と香月は納得したように頷く。 「冷蔵庫に入っていたんですが、食べてしまったんですよ」 「俺のなのに」 「香月課長がですか?」 「そ、課長が」  数秒の沈黙。  柏城は思わず言った。 「仲良いですね」 「ただの仕事仲間だよ」 「寂しいこと言いますね。あ、職務中の私的な電話は駄目ですからね」 「えーっ、けち」 「……あの、質問してもいいですか」  香月が振り返る。 「はい。なんでしょう」  柔らかな声に柏城は少しだけ言葉を選ぶ。 「怪異って、人を襲うんですか」  運転席から声が返ってくる。 「そりゃ襲うやつもいるよ」  紫谷は片手でハンドルを回した。 「……そういう事件は聞いたことがなくて」 「あー、なるほど?」  紫谷は納得したように頷く。 「人間は人を襲う?」 「……襲う人間もいます」 「一緒なんだよ」  赤信号がフロントガラスを薄く染める。 「大半は普通。たまに殺す。人間もやるでしょ?」  紫谷は欠伸を噛み殺した。 「また勝手に……まあ、確かにそれが一番分かりやすいかもしれませんね」 「でしょ」  紫谷は得意げでも何でもなく言う。 「警察でも知らない人の方が多いよ」 「そうですね、一般には公表しません。怪異による事件は伏せられることが殆どです」  柏城は眉をひそめた。 「協定違反なら、もっと知られていてもいいはずですよね?」  香月が前を向いたまま答える。 「存在が知られていることと、被害の詳細を公表することは別ですから」 「なぜ伏せるんですか」 「肝試しで幽霊が出る、なら遊びになる」  紫谷が言った。 「でも、そこで実際に人が死んだって話になると、誰も近づかなくなる」  香月は否定しなかった。 「恐慌だけではありません。報復や排斥も起きます」 「だから、揉み消すんですか」  ワイパーが一度、二人の顔を横切った。 「記録を整える、と業務上では言います」 「幽霊がいるのと、幽霊に殺されるのじゃ話が違うからね」  香月も静かに頷く。  柏城は窓の外へ視線を向けた。  暗闇。  無線機の雑音。  誰かの悲鳴。  何かが浮かぶ。  だが、輪郭を掴む前に消えた。  柏城は無意識に眉間を押さえる。 「柏城さん?」 「あ、いえ」  柏城は首を振る。 「俺は、見たこと無いですね……」  そう答えるしかなかった。  バックミラーの向こうで紫谷が一瞬だけ目を細めた。  何かを確かめるような目で。  すぐに前へ戻る。  紫谷は欠伸をした。 「ま、見ない方が幸せなこともあるよ」  冗談みたいな口調だった。  けれど、柏城はなぜか返事ができなかった。 「そういえば柏城さん」 「あ、はい」 「半妖の方はご存知ですか」  その単語には聞き覚えがあった。  人外と人間との共存協定。怪異対策法。ニュースでも何度か聞いたことがある。 「人と妖魔の混血ですね」 「大方そうですね。一応、お伝えしておこうかと。九十九課は半妖が多いんです」 「半妖が、ですか?」  ええ、と香月は微笑む。  運転席から声が飛んだ。 「多いってか全員じゃん」 「はぁ、紫谷くん」 「ん?」 「説明を省かないでください」  あーうん、と紫谷は適当に頷く。 「この署は全員」  柏城は目を瞬いた。 「全員ですか?」 「この署は、ですがね」 「……課長もですか」  まあ、と香月が頷いた。  柏城は少し驚く。  少なくとも香月は違うと思っていた。 「他県には人間の捜査員もいますよ」  香月は少しだけ言葉を選ぶ。 「ですので、今後いろいろな方と会うと思いますが」 「はい」 「悪気がなくても失礼になることがあるのを、先に知っておいていただこうかと」  柔らかい口調だった。注意というより助言に近い。 「気を付けます」  柏城は背筋を伸ばした。  ありがとうございます、と香月は微笑む。 「怪異や半妖に関する価値観は、人によってかなり違いますから」  柏城は黙って耳を傾ける。 「まあ半妖差別なんて皆慣れてるから。大丈夫だよ」 「君は……、そういう言い方をするから駄目なんです」 「事実じゃん」 「事実でも、です」  柏城は二人を見比べる。  思っていたよりずっと複雑な話らしい。  香月がふと微笑んだ。 「俺は、良い隣人だと思っていますよ」 「怪異をですか」 「ええ」  穏やかな声だった。実感のこもった言葉に聞こえる。 「共存できる相手は多いですよ」  運転席から小さな笑い声が漏れた。  紫谷は鼻で笑う。 「ふ、犬猫じゃあるまいし」  香月が苦笑した。 「またそういう言い方を」 「だってそうでしょ」  紫谷は前を向いたまま続ける。 「好きとか嫌いとか、考えたことないもん」 「そうですか?」 「うん」  紫谷は少しだけ考えるような間を置いた。  ぼんやりとその先を見ている。 「好きなやつは長生きしないよ」  冗談みたいな口調だった。  後ろから見た紫谷の横顔は、妙に疲れて見えた。  柏城は返事を飲み込む。  二か月前の記憶。  思い出そうとしても輪郭の曖昧な夜。  失ったものの数だけは、嫌でも覚えている。  柏城は小さく息を吐いた。  人の傷を覗く趣味はない。少なくとも、今は探る必要も無いと思った。  窓の外へ目を向ける。  霞む街並みは、どこまでも平凡だった。  その平凡さが妙に遠く感じられる。 「顔に出ていますよ」  不意に香月が言った。  柏城は顔を上げる。 「え?」 「皆さん、最初はそうですけどね」  柏城は苦笑した。  つまり自分も例外ではないらしい。 「香月さんもですか?」  何気なく尋ねる。  香月はすぐには答えなかった。  流れていく街灯の光が横顔を照らし、また消える。 「ええ」  やがて、小さく頷いた。 「こんなものだったのか、と思いました」  それだけだった。短い言葉には妙な重みがあった。  柏城は小さく息を吐く。  少なくとも、自分だけがおかしいわけではない。 「……少し、安心しました」 「それなら良かったです」  今度の微笑みはさっきよりもいくらか本物に見えた。  やがて車は高速道路を降りる。  山道へ入ると、車内は一段薄暗くなった。  カーナビの青白い光だけが、三人の横顔をぼんやり照らしている。  民家の灯りはいつの間にか途絶えていた。  対向車すら見かけない。  地元で有名な美術館だというのに、本当に人が来るのだろうか。  そんな疑問が頭をよぎった頃、道がひらけた。  森の奥に、洋館があった。  白く煙る雨の向こう。  木々に囲まれた建物だけが、濡れていないように見えた。  古い石壁。  赤い屋根。  蔦の絡んだ窓。  綺麗だった。  その感想が浮かんだ直後、喉の奥が狭くなる。  見てはいけないものを、綺麗だと思った気がした。  妙に息苦しい。  車がゆっくりと減速する。  エンジンが切れた。 「着いた」  静かだった。  街中なら聞こえるはずの音が、ここにはない。  人の話し声も、歩く音も、鳥の声さえ聞こえない。 「雨、止まないねえ」  紫谷が呟く。  外したシートベルトのバックルが、からんとやけに響いた。  靴底が水を踏む。  冷たい飛沫が裾へ跳ねた。  湿度が皮膚にまとわりつく。  無意識に首元へと手が伸びた。 「あ、分かる?」 「何がです」 「やな感じ~」  軽い口調だった。 「俺は館長と話をしてきますので。お二人は先に現場を見ていてください」  香月が腕時計へ目を落とす。  柏城は顔を上げた。 「一緒に行かないんですか?」 「こういう事件の対応は、紫谷くんの方が慣れていますから」  嫌な予感しかしない。  香月は紫谷へ向き直った。 「柏城さんをお願いしますね」 「俺、教育向いてないよ」 「知っています」 「知ってて任せるんだ」 「お願いしますね」 「はあい」  その返事で安心できる人間がいるのだろうか。  香月はそれで話が済んだように傘を開いた。 「では、後ほど」  静々とした歩き方は水の上を滑っているようにさえ見えた。  やがて香月が玄関の向こうへ消える。  広い駐車場には柏城と紫谷だけが残されていた。

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