鯣烏賊 / 第147話
断崖絶壁の層:シティバレー その10
ぽっかりと穴が開けられたように、時が止まったように。
ただ、あそこの時計の針だけがチックタックと経過を刻む。
お古なその機械式アナログ時計の音が、恐怖感と緊迫感を増強させているように思える。
あのふたりの間だけではない。
このボロ納屋にいる全員の中で、だ。
無論、そのなかには俺も含めている、全員。
一体、あのふたりへなんと言うべきなのか、なにをすべきなのか。
はたまた、部外者の俺たちはなにをすべきでもないのか。
それを測りかねていた。
俺もまた、どうすることもできなかった。
いや、この闇の中から出るわけにはいかないのだが、そういうことじゃない。
ふたりが淡々と、内容をかいつまんで朗読してゆくその日記たちの内容に対して、なにをどう感じる気分にもなれなかった。
共感できるものではない。
俺なんかが共感していいものではない。
あんなものを。
あんなものを。
....................一体、どうしろというのだ。
なにせ、もう少し単純な話かと思っていたのだ。
こんな想像をするのも良くないのだが、たとえば、ふたりが大喧嘩になって、アプルちゃんまで余波が広がり、傷ついてしまったとか。
大事なものを盗まれたとか。
暴力を振るわれたとか。
そういうものかと思っていた。
けど、けど。
これは。
ぼかされているところも多いけど、一体何が起こったのかは、だいたいわかる。
あまりにも生々しくて、俺だって言いたくない。
こうなると、話が違ってきた。
今までの話がすべて本当なら。
....................本当なんだろうけど。
だとすると、|黒い琥珀《ブラックジェム》は、俺たちの思っているより何倍もヤバいモノということになる。
ブルーさんにもこのことを....................。
いやいや、待て。
最後まで聞くんだ。
まさか、この話が、あんな中途半端なところで終わるわけがないだろう。
まず、エティとシャーク団の関係が全くわかっていない。
けどそのことは、双方の日記の内容が把握できた今では、予測できることもある。
ひょっとしてエティというのは、この不良集団のメンバーではないのではないか?
琥珀《ジェム》で暴走してしまったことを除けば、彼は聖人君子であると言っていい。
そんな彼が、しょうもない犯罪を繰り返す集団のメンバー....................?
まったく、想像できない。
しかし、ラフラさんの持つエティの最後の記憶が、その"怖いエティ"だとしたら。
そんな記憶のなかのエティが、シャーク団と一緒にいる場面を彼女が見てしまえば。
それで勘違いをして、その彼女の勘違いが俺にそのまま伝わったとしても、なんらおかしくはないことになる。
では、エティはなぜこいつらと。
あの女....................ダリアは、日記によれば、ラフラさんのルームメイトだったらしい。
そしてダリアは、エティを尋ねており、彼の理解者だった。
ひょっとしたら....................。
「ダリア。」
「....................なにさ、いまさら。」
最初に口を開いたのは、ラフラさんだった。
その一言に反応して、エティの奥の方の壁にもたれかかっていたダリアが返事を返す。
ちなみにダリアは、最初にシャーク団と接触したときにあいまみえた、リーダー格の女。
栗色の髪にサファイアのような目を持つ不良だ。
「なんか、アタシにはうまく言えないんだけど、ごめんなさい。
途方もない迷惑をかけたわ。」
「べつに、いいよ。
ラフラが口下手なのはいつものことでしょ。
それに、わたしに謝らないで。
だれかに謝りたいなら、目の前の元カレに謝りなさい。」
「..........うん。
でもダリア、ひょっとして、一回ウチに来たでしょ。
お父さんとお母さんが、栗色の髪の女がやってきて、意味のわからないことを喚いて帰っていったって。」
そうなのか....................。
でもあのふたりは、エティの話を途中までしか聞かずに、追い返したらしい。
娘が傷つけられて、気が気ではなかったのだろう。
そんなふたりにダリアさんが弁明に行っても、聞いて貰えないか、あるいは。
エティだけでなくダリアも、俺やラフラさんが思っていたような人間ではないのかもしれない。
いや、ラフラさんは知っていたか。
彼女はルームメイトだったのだから。
「まあ、行ったこともあったね。」
「でもそのときにアタシはいなくて。
お父さんとお母さんは聞く耳も持たなかったみたいで。
まるであんたを黒幕みたいに扱ってて。」
ダリアはそれに、返事をしなかった。
ぷいとそっぽを向いて、そのままずっと。
「それにアタシ、一度ここであんたに捕まってるじゃない?
そのときにやってきたエティを見たときに、すぐ逃げ出してしまって。
あのときもひょっとして、言いたいことは、今と同じだったってこと?」
それにも、彼女は返事をしなかった。
「あ....................。」
ラフラさんはなにかを言いたそうだった。
ルームメイトだったこともあり、色々と思うこともあるのだろう。
さっき言ったことを謝りたいのかもしれない。
ひょっとしたら、思い出話でも、したいのかもしれない。
考えていることは、全部かもしれない。
それらがぐちゃぐちゃになってしまって、言いたいことがまとまらないんだと思う。
「ラフラ。
彼女は私の事情をわかってくれて、ずーっと力を貸してくれたんだ。
あのときから、今まで。」
「....................エティ。
ひとつ聞きたいのだけど、なんであんたがコイツらと一緒にいるわけ?
最初は"あぁ、落ちる所まで落ちたな"って思ってたけど。
こうして話してみると、あのときのあのまま。
どうにも、腑に落ちないのよね。」
「ああ、そのことか。
たしかに私はここのメンバーだけど、ずっといる訳ではないんだ。
これは、私の自分勝手なわがままでもあり、ダリアの計らいでもあるのさ。」
エティをそう言うと、後ろを少し振り返る。
視線の先には、ダリアがいる。
エティと目のあった彼女は、少々気まずそうに、再びそっぽを向いた。
「褒められることではないかもしれないけど、ダリアはここの団員なんだ。
彼女が、"ラフラを見かけたときだけ声をかける"と言ってくれたのさ。
彼女には頭が上がらないよ。」
合点がいった。
あのときのダリアは、俺に向かってなんのためらいもなく、「部外者」と口にした。
その部外者は、シティバレーの外からやってくる部外者ではない。
エティとラフラというカップルにとっての部外者ということなのだ。
ああ、やらかした。
俺はダリアとの口論に買った気でいたが、あれは口論ではなかったのだ。
切実な願望からくる、俺への要求だったのだ。
そもそも、口論なんかではないわけで。
ああ、俺はなんでバカだ。
インテリジェンス=ベロキなんて、存在していなかったのだ。
アッチへ行ってしまえ、俺のプライド。
「そこまでして、あんたは何がしたかったのよ。」
「謝りたかったんだ。
私はずっと、こうして顔を合わせて、頭を下げる機会を待ち望んでいたんだ。」
「....................仮に、アタシが受け入れなくても?」
「蹴ってもらっても、ひっぱたいてもらっても構わない。
私はただ、私のなかにこびりつく異物を排したかっただけなんだ。」
そういい、ダリアは椅子から立ち上がった。
そこで見せたのは、腰を90度以上に折り曲げる、陳謝の姿勢。
後悔と懺悔がぞんぶんに含まれた、最大限の謝罪。
「ラフラ、本当に、すまなかった....................!」
それからしばらく、誰も、なにも言わなかった。
この場で次の言葉を発すことができるのは、ラフラさんだけだ。
エティはきっとこの姿勢を解かない。
叩かれても罵られても、やめない。
ラフラさんが許しの言葉を言うのか、それとも拒絶してこの場から立ち去るのか。
彼女がそのどちらかをしなければ、彼は次には進めない。
返答は難しい。
それ如何によって、エティの人生を左右できてしまう。
これは、罪人を許すのか許さないのかの問題ではない。
目の前の人物を縛っている呪いを解くか解かないか。
許しの言葉が断罪の言葉か。
そんな二者択一問題。
だって彼は、悪くないのだから。
|黒い琥珀《ブラックジェム》という呪物のなにかに当てられて、それで気をおかしくした被害者。
琥珀《ジェム》のせいにすることは容易だ。
しかし彼は、それを琥珀《ジェム》の異常性に気づかなかった自らのせいだと懺悔している。
しかしこの行動、ある意味では、お前のエゴだと切り捨てられてしまう。
だって実際、エゴだから。
本当に正しい選択は、この地から姿を消し、二度と彼女に関わらないことなのだから。
厳しいことを言うようだけど、彼は彼女に許しを乞いたい一心で、ここに残っていると捉えることもできてしまう。
彼の人生は地に落ちた。
自らの抱える罪、責任を教師へ独白し、愛するものを守った変わりに。
だから、彼はここにいる。
よく見ると彼の手には、小さなマメやこぶが数え切れないくらいにあるのがわかる。
その努力の量や時間が、ありありと読みとれるくらいに。
彼はこんなふうになってしまったから。
だから彼の両親は、彼を叱ったのだ。
"これからどうるつもりだ"と。
全員が、ラフラさんの口を見ていた。
彼女の口が開くその瞬間を。
待ち望んでいた。
彼女は口を開いた。
しかし、うまく声に出なかったようで、何回か口をパクパクさせてから、唇をなめた。
唇が湿ったことを確認した彼女は、今度こそ口を開いた。
「ばっかじゃないの、あんた。」
「え..........?」
彼女は椅子から立ち上がり、エティに片手をかざした。
誰もが、彼女がエティを許すと思っていた。
しかし、目の前に広がった光景は、そんなものではなかった。
「ふん!」
パチーン!
ビンタ。
ドラマでよく見る、その光景。
修羅場の象徴とも言える、最も単純な殴打。
きっと次に、彼女は彼を罵る。
全員がそうだろうと身構えた。
エティが自らの罪を書いた日記を淡々と読み上げる姿を見たゆえ、彼が罵られるのがつらかったのだ。
ひどく、感情移入してしまうから。
しかし、次に続いた言葉も、また予想外だった。
「なんでこんなくだらないことに、自分の人生浪費してんのよ。」
「でも..........。」
「でもじゃない。
あんた、なにもしなければ良いハイスクールに行って、いいとこに就職して、きっといいお嫁さんも貰えたのよ?
どうせアタシはあんたのことなんて忘れて、一生森で生きていくのに。
アタシが一方的にあんたを振って、ひとつのカップルが破局した。
本当は、それが一番幸せなのよ。」
それは、激励の言葉だった。
許しも拒絶もしない。
しかし、やや突き放すような応援。
それは、聞くものたちの心を、なにか突き動かすようなエネルギーを帯びていた。
ラフラに謝罪することで、自らの呪いを断ち切ろうとしていたエティへの。
言い換えれば、不健全なものに依存して、不健全な人生を送ってしまっていたエティへの。
ラフラさんは、彼の手をとった。
「思えばアタシたち、お似合いじゃなかったかもね。
だってアタシの日記、あんたがいじめを止めたことなんて書いてなかったのよ。」
「ははっ、そうかな。」
「そうよ。
あんたはどこまでも利他的で、ヒーローみたいな性格をしてるけど。
アタシは利己的だわ。
自分の夢のために、あんたのことなんて考えずに距離を取ろうなんて言って。
....................もうすこし言い方を工夫すれば、こんなことにならなかったのかもしれないのに。」
「私の方こそ、勝手に嫉妬深くなって、君に怖い思いをさせてしまったじゃないか。」
「あんたの欲望を受け止めるって言いながら怖がって、勝手に逃げたのはアタシよ。」
「そう言ってくれると、なんだか救われるね。」
ふたりは固く握手した。
数秒、たった数秒。
その一瞬で、両者の表情が晴れやかになったように見えた。
握手を終え、意外と素っ気ない態度で、ラフラさんはここから出ていった。
その様は、もう彼女に、エティへの恋心がこれっぽっちもないことを示しているようだった。
その迷いのない背中を止めるような人間は、ここにはいなかった。
いいや、少しだけ嘘をついた。
彼女は出てゆく前に、俯いていたダリアに声をかけていた。
ありがとう、そしてごめんなさいと。
きっとこれは、"エティに協力してくれてありがとう、そして、復縁できなくてごめんなさい"ということなのだろう。
ダリアはきっと、ふたりの復縁を祈っていたのだから。
また、ダリアは返事をしなかった。
けど、その頬が淡く赤い色に染まるところを、俺は見逃さなかった。
ラフラさんもそれを見たのか、どこか満足そうな表情を見せていた。
そうして俺は、ボイスレコーダーを止めた。
申し訳ないが、少し録音させていただいた。
この音声から、エティの独白の一部分を切り取ろう。
|黒い琥珀《ブラックジェム》の被害者は、まだいるかもしれないのだから。
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俺はラフラさんの行先を先回りし、ペラルさんと合流した。
アプルちゃんはラフラさんの言いつけを守っていたようで、ぐっすりと寝ていた。
ペラルさんいわく、姿は見られていないとのこと。
全てを説明する時間はなかったので、俺はとりあえず、シャーク団が敵ではなくなったことを伝達。
死体を外へ運び出し、ホテルの裏口あたりで叩き起した。
そして彼らに、アプルちゃんに手を出したら許さないとか、ラフラをどこへやったとか、どうたらこうたら怖い感じに言って、アジトに返した。
これで俺は、ふたりの護衛のためにすっ飛んできた衛兵のようなものであり、彼らの敵と見られるだろう。
その方が楽だ。
いろいろと。
ラフラさんを付け狙う理由もなくなったので、奴らは二度と来ないだろう。
相関図は変わらない。
そして、ピストルをさりげなくラフラさんのリュックサックへと入れ、証拠隠滅完了。
ラフラさんが戻ってきたことを確認すると、ふたりで民宿へと舞い戻った。
深夜2時くらいの出来事だ。
そして、ことの顛末をペラルさんに話した。
最初は半信半疑だった彼女も、だんだんと顔から余裕があるなくなり、最後には引きつった顔で絶句していた。
うん、みんなそうなる。
あんまり外部へペラペラ喋ったらいけない内容だった。
録音した|黒い琥珀《ブラックジェム》に関する音声も彼女へ共有し、確認した。
|黒い琥珀《ブラックジェム》にはおそらく、メシア教が公開していない性質がいくつもあるはずだ。
それも、危険なものが。
この2次試験期間中に解決はできなくていいと思う。
だけど、俺の手に入れた情報が、長期的な対策の1ピースになれば、それでよい。
そのくらいの意気込みだ。
ブルーさんがこの任務で目指していることにも、すこし繋がるかもしれないしね。
明日の早朝に、ブルーさんへと連絡しようという結論になった。
深夜の2時という、あまりにも非常識な時間に電話をする気には、どうにもならない。
仮に起きていても、申し訳ないし。
ことが終わったら、どっと疲れた。
体ではなく、心が。
あの日記の記述のようにふたりであれこれ話しているうちに瞬きの頻度が増えて。
それで、とある瞬きを終えると、いつの間にやら朝になっていた。