鯣烏賊 / 第149話
断崖絶壁の層:シティバレー その12
この雨はひどい。
ここが川の近い地区だったら、氾濫注意が発せられるかもしれない。
そのくらいの、とてつもない豪雨だ。
鼓膜には雨音がうるさく響く。
無数の大きな雨粒が当てられる傘からは、雨粒によって、それ相応の重量が感じられるほどだ。
風はそこまで強いわけではないので、この雨が横向きや斜め向きにならないことが唯一の救いと言えるかもしれない。
向きが変われば、俺のズボンまでもがびしょびしょに濡れてしまうだろう。
想像するだけで嫌な気分になる。
このように激しい豪雨なら、水も溜まってしまう。
排水設備をしっかりとしなければ、水だけで被害が出てしまいそうだ。
しかしこのシティバレー。
その辺の対策は万全にできているようだ。
道のくぼみは水溜まりとなり、用水路では土砂流みたいな音をたてながら、溜まった水が運ばれている。
きっとこれらは下の方の層に運ばれて行って、ウッドバレーの方へと、排出されるのだろう。
あそこの土地なら、水はけもよさそうだ。
大量の水が上から垂れ落ちた程度のことでは、
しかし。
たとえそんな豪雨のなかでも、シティバレーの雰囲気は、ほとんど変わらなかった。
ここにはもともと、まるで大都会の下町のような活気があるのだ。
俺は決して、ここがアンダーグラウンドであると主張したいわけではない。
この場所特有のパッションは、俺の持っているボキャブラリーの中では、上のような言葉でしか言い表せないのだ。
俺たちの住む場所であれば、みんなこのような大雨に萎えてしまい、自宅へ引きこもってしまうことだろう。
店舗の光だけが寂しく照らされるけれど、そこにやってくる人は極端に少ない。
あるいは、窓から空中道路を眺めれば、数分に一度は車が通るかもしれない。
そんな感じの光景が、ありありと想像できる。
ここもきっと、そんなものだろうと思っていたのだが、そんなことは全くなかった。
みんな、傘を片手に、晴れだった昨日と同じように生活を営んでいる。
まだ朝だと言うのに、食物などを売る商店は市場のように賑わっている。
飲食店からは朝食の仕込みのいい香りとともに、常連さんたちの談笑の声までもが聞こえてくる。
なんというか、すごく元気だ。
朝のさんぽをするひと。
お店のシャッターをあけるひと。
多種多様である。
しかし、とても明るい空気感なのだが、どことなく参加しにくい感じがする。
話しかければにこやかに応じてくれるひとが大半なのは、俺もわかっているのだが。
でももう、あそこにはとえも強固なコミュニティが形成されている気がしてならない。
外部のひとが参加するのには、かなりの勇気が必要だろう。
引っ越すのとかも、大変だろうなあ。
でも俺は、この雰囲気がすごく好きだ。
眺めながら歩いているだけでも、すごく俺の中ではしっくりくる。
楽しいとか、住んでみたいとか、そういうことじゃないのだが。
俺は一体これを、どのように形容すべきなんだろうか。
ちなみに、4人でてくてく歩いていると、お店からたまに声をかけられる。
その相手は主に、アプルちゃんだ。
彼女へ向けて、缶ジュースとかお菓子、ときには果物などが商店から投げられてくる。
仕方がないので、それを俺がキャッチすると、「そこの娘さんにだよ!」と大きな言ってくる。
アプルちゃんが俺の渡したものを受け取って手を振ると、すごく嬉しそうに手を振り返してくるのだ。
なんだか、ひとの温もりを感じる。
「なんか、もうちょっと怖いところだと思っていたよ。
昨日は駆け足だったから、あんまり実感できなかったな。」
「みんないい人たちだって言ったでしょ?」
「ああ、全くその通りだよ。」
傘を持ちながら、ウロウロするアプルちゃんが濡れないように注意し、自販機で買った缶ジュースを片手に街中を歩く。
いいね、いいね。
この光景は、とてもいい。
それに、たまに、「あんちゃん、ゴミ捨ててくかい?」と声をかけてもらえることがある。
もちろん、ありがたく捨てさせてもらのだが、対価を求められる。
そのお店でなにかを買わされてしまうのだ。
まあ、そのくらいは仕方ないだろう。
ダストボックスを探す手間が省けるし、なによりさっきは、とてもうまい自家製のジュースを飲むことができた。
なんのジュースだったんだろう....................まあ、美味しいからいいか。
疑うのも良くないだろう。
それと、もうひとつ面白いことがある。
空中に、フワフワ浮いているのだ。
それは触るとモチモチしていて、まるで大福のような感触をさしている。
大きさは、ちょうど俺の握りこぶしくらいだ。
参考にも、俺の背丈は160センチくらいはあったはずだ。
それは真っ白で、俺たちの周りを漂っている。
俺の知っている生物の中で最も見た目が近いのは、クリオネだろうか。
いや、そのままクリオネってわけじゃないけどさ。
「きゅっ、きゅっ」と小刻みに聞こえるのは、きっと、これの鳴き声だろう。
小鳥の鳴き声のような感じの声だ。
最初は警戒していたが、それが次第に無害なものであるとわかってくると、無性に不思議で興味深いもののように思えてきた。
なぜ、人間を恐れていないのか。
それに、こいつは生物なのか?
「ミカエルよ。」
その疑問には、ラフラさんが答えてくれた。
「ミカエルってのは、この辺に住んでる固有の生物。
分類としては一応、怪獣だけど、アタシたちには全くの無害だわ。」
そこから続いたこの生物の生態は、とても興味深いものだった。
ミカエルは、他生物のことを助けようとする生態を持っている。
助ける、というのは、手を貸すということだ。
たとえば、お腹の減った子犬がいるとしよう。
その犬は栄養が欲しいので、心の底から食物を求めている。
ミカエルがその場面に出くわすと、その犬をエサの元へと誘導するのだ。
このあまりに不思議な行動。
生物の本能とは、おおよそかけ離れたものであると言えるのではないだろうか?
栄養を取り、個体数を増やすことを誉とする生物でありながら、他者のことを助けようとする性格を持つ生物。
すごく不思議な、魔法の国から飛び出してきたような怪獣だ。
この奇妙で不思議な生態に魅了され、それの研究に勤しむ者も多くいるらしい。
しかしあまりに特異的で、不気味なほどに利他的なその行動のメカニズムの全容の解析には、未だに成功していないそうだ。
しかし、全てが不明なわけではない。
当たり前だが、判明していることもある。
ミカエルは、こちらが何に困っているかを、何らかの方法で理解して行動しているのだ。
つまり、俺の言いたいことを理解している、ということになる。
それが本当なのか、俺も試してみた。
そいつのうちの一体を指さして「右に3回回れ」と命令してみたのだ。
そうするとやつは、くるんくるんくるんと3度回転し、俺にドヤする顔みたいに近づいてきた。
すごいな。
彼らが理解しているのは言語ではなく、思考だと予想されている。
言語および、声を介して行われるコミュニケーションをミカエルの持つサイズの脳で全て理解するのは、物理的に不可能である。
実験により実証されたのは、人間語を20種類程度、犬、猫、猿など、のべ200種類。
それら全てにおいて、件の行動が確認されたそうだ。
他にも様々な特徴をもつ生物だ。
群れで行動しており、明確なリーダー個体がいること。
唾液などの体液に、特異的な性質を持っていること。
食欲が薄いこと。
交尾の仕方。
などだ。
しかし、上記の"思考を読み取る能力"が、最も不明点の多いものであるらしい。
なんとも、他の生物には一切見られない、超常的な力なんだとか。
思考を読み取る。
まるでエスパーのような能力だ。
この世には不思議な生物がいるものだ。
-----
回り道を、していた。
たったそれだけのことだった。
行こうとした道が冠水していたのだ。
俺たちは長靴なんて持ち合わせていなかったから、あんな貯水池みたいな道路、どう考えても歩けやしない。
俺は忍者じゃない。
どうしようかと右往左往していると、散歩をしているおばちゃんが、冠水しない場所を教えてくれた。
なんとも、少し位置が高いおかげで、全てがこちら側に流れてくるんだとか。
口頭ではあるが、おばちゃんは丁寧に俺たちへその道のことを教えてくれた。
やや遠回りだ。
大エレベーターへの到着は30分ほど遅くなるかもしれないが、致し方ない。
背に腹はかえられぬ、というやつだ。
ラフラさんがその指示通りの道を地図で調べると、確かにあった。
ここよりも10メートルほど高く、そしてその道の中での起伏が少ない。
ここから絶壁の方向へ真っ直ぐ行ったところだ。
なんとも、壁の付近は吸着力を高めるために、この床がすこし分厚く設計されているそうだ。
それのおかげで、俺たちは雨水の地獄から逃げることができる。
最短距離を移動するためにいちばん外側を歩いていたが、内側まで行ってしまえば、上の層の床が、雨水を防いでくれる。
遠回りの発送がなかったので、惰性で外側を移動していたが。
急がば回れの精神で、最初から壁側の道をゆくのも、よかったかもしれない。
まあ、もう遅い。
過ぎたことだし。
「こっちよ。」
地図を見ながらそういうラフラさんに、RPGのキャラクターみたいに着いて行っていた。
そこはそれなりに広い道だったのだが、人っ気の少ない、というより人の全くいない、いわゆる裏道。
一瞬、ここに来たことに若干の後悔を感じたかのような顔をしたラフラさんだったが、引き下がらずにそのまま進んだ。
俺たちもそれに追随した。
なぜかわからないけど、ここには俺も、恐怖を感じた。
住宅街の裏道などであれば、まだ人の気配もあるだろう。
しかしここは、工場や倉庫のような殺風景な建物の裏道。
そして、反対側は地層剥き出しの崖だ。
数百メートルも続くこの工場は、今日は休日なのか、人の気配がまったく感じられない。
機械音のひとつすら聞こえないのだ。
ここの道にいて聞こえるのはせいぜい、向こう側にバケツをひっくり返したみたいに落ちている雨水の音だけだ。
つい、妄想してしまう。
ここなら、人を襲ってもバレないな、と。
いけない、いけない。
俺はそういうことからもう、足を洗ったんだ。
俺は、殺し屋ではない。
だいいちに、襲う人間などいない。
俺が襲われるいわれなどもない。
きっとそうだと言い聞かせて、俺は無心で歩みを進める。
このような妄想をしてしまうクセも、早く治したいものだ。
こんなクセ、なんの役にも立たない。
せいぜい、不気味がられてしまうくらいだ。
いいことなんてない。
ふと崖の方を見てみると、上の方には崖に張りくようにひとつひとつの建物がつくられている。
それらは無数にあるが、あそこに家族で住んでいる人は、あまりいないそうだ。
だいたいは個人住まいや、画家や彫刻家のアトリエなど、アクセスを重視せずに使用したい人向けのものらしい。
ここから、そのひとつひとつへ向かってのエレベーターが作られている。
これを浸かって、上へ行くのだ。
話には聞いていたけど、こうやって実際に近づくと、印象も変わるものだ。
とはいえ、俺としては、不便な住まいだと思ってしまうだけだけど。
そんなこと考えてみていれば、さっきのような物騒な発想は、自然と頭から抜けてゆく。
俺たち4人は自然と無言になってしまっているが、4人のなかでもこんな考えをしていたのは、俺だけだろう。
いちばんのん気なのは、ペラルさんだ。
小声で鼻歌なんて歌っちゃって。
そんなときに、上に漂っている1匹のミカエルが、ひょろひょろと俺の背後に回った。
それだけではなかった。
追随するように、俺たちの進む方向へ1匹、右へ1匹、左へ1匹。
なんだ、なにかを助けようとしたのだろうか。
しかし、あまりに規則的な配置に向けて、動くものだ。
そう思って、純粋な好奇心から、俺は後ろへ振り向いた。
影が動くのが見えた。
ミカエルのおかげで、俺はそれに気づくことができた。
数刻でも反応が遅れていれば、俺を含めた4人、この場で死んでいたことだろう。
「はっ!!」
全身黒ずくめの覆面の男が、俺に向かって飛びかかってきたのだ。