莉翠 / 第2話

2:風になりたい

 梅雨の間、山田は来なかった。  当たり前だ。雨の日に丘の上で座っていたって仕方がない。浩一《こういち》だってほとんど家にいた。本を読んで、寝て、また本を読む。窓の外は灰色で、雨粒が途切れなくガラスを叩いていた。  それでも何回か、傘を差して丘まで上がったことがある。  欅《けやき》は変わらなかった。葉は雨をたっぷり含んで重たく垂れ、雫をひとつずつ落として、根元の土をじっとり濡らしている。  山田はいない。まあ、そうだろう。こんな日にわざわざ来るわけがない。上がってきた自分が馬鹿みたいで、浩一はすぐに坂を下りた。  そうして七月の半ば、ようやく梅雨が明けた。  朝から空が抜けるように青かった。肌に刺さる日差し、アスファルトの照り返し。丘に続く坂道を上がるだけで、首筋に汗が伝う。  けれど欅の木陰に入った瞬間、いきなり涼しくなった。頭の上で蝉が鳴いている。風が葉を揺らすたび、砕けた光がちらちらと落ちた。 「おっ。久しぶりじゃん」  山田がいた。  寝転がって、片手をひらりと上げる。ずいぶん会っていなかったはずなのに、その格好はまったくいつも通りで、昨日の続きみたいな顔をしていた。  浩一は思わず頬が緩みそうになって、慌ててぱちんと片手でそこを打った。そのまま何でもない顔をつくって、彼の隣に座る。鞄から本を出しながら、できるだけどうでもいい声で言った。 「……お前、梅雨の間ぜんぜん来なかったよな」 「何、お前雨の日来たの? わざわざ?」 「……えっ。いや」 「またまたあ。俺に会いたくて来ちゃったんだろ」  頬が勝手に熱くなる。くそ、と思った。夏の日差しのせいだと自分に言い聞かせる。  山田がにやにや笑っているのが、見なくても分かった。浩一は鞄の中を引っ掻き回すふりをして、顔を伏せた。  山田はひとしきり笑ってから言った。 「ごめんごめん。俺、雨も好きだよ。気持ちいいだろ、雨って」 「はあ?」 「むしろ気持ちよすぎてじっとしてたくなる感じ? 動くのもめんどい。だから来ない」  浩一は思わず、家の布団の上で、あるいは学校の机に突っ伏して、イモムシみたいにだらしなく転がっている山田を想像した。妙に似合う、と思ってしまって、呆れた声で「お前らしいや」とだけ返す。  蝉が声の層を厚くしていく。風がひとつ大きく吹き抜け、木陰の底に草の青い匂いを運んでくる。山田は両手を頭の後ろで組んで、満足そうに目を細めていた。ふと片手を下ろして胸のあたりに触れたが、すぐにまた頭の後ろへ戻す。大きなアゲハ蝶がその頭をかすめて、ひらひらと梢の向こうに消えていった。  夏が深まった。暑すぎて家を出る気になれない日もあったが、浩一は丘に来つづけた。夏休みに入ったからだろうか、来れば、だいたい山田もいた。  浩一は少しずつ、色々な本の話をするようになっていた。  山田は自分で本を読まない。読むのは苦手なんだ、と本人は言う。けれど浩一が話すのは聞きたがった。最初は太宰治や宮沢賢治の話をしていたが、山田が目を輝かせるのは、むしろ異国の話だった。砂漠の話、海の話、名前も知らない町の話。少年たちの冒険の話。  その場所が遠ければ遠いほど、山田は「へえ」とか「すげえ」とか、いちいち素直な声を漏らした。彼はそういうときだけ身を起こして、膝を抱えて、少し前のめりになる。ふだん寝転がってばかりいるくせに、そのときだけ子供みたいに姿勢を変えるのが、浩一には少しおかしかった。 「いいなあ。俺もそういうとこ行ってみたいなあ」 「何、旅行とか行かせてもらえねえの?」 「そうだなー、行ったことねえな」  山田は笑った。力の抜けた、山田らしい笑い方だった。その声の尻尾がどこか遠いところへ落ちていくように聞こえて、浩一はそれ以上聞かなかった。  山田は本の代わりに、別のものを読んでいた。風の向き、雲の形や、匂いの変化。「今日の風は山の匂い」とか「雨が遠くにいる」とか、そんなことを平気で言う。鼻をひくつかせて空気を嗅ぎ、目を閉じて風の通る方角を当てる。その勘は妙によく当たって、天気予報より正確な日さえあった。  ある午後。  浩一はまた『人間失格』を読んでいた。同じ本ばかり読んでいると自分でも思う。けれど手が伸びる。文庫本の表紙はもうすっかりくたびれて、背の折り目が白く浮いていた。何度も開いたところだけ、紙がやわらかくなっている。 「またそれ読んでる。何がそんなに面白いんだ?」 「お前に面白いって思ってもらわなくて結構だよ」 「いいじゃん、教えてくれよ」  浩一は本を膝の上に伏せた。正直に言えば、自分でも後半のほうはよく分かっていない。女と心中しようとするあたりは何度も読んだが、ちゃんと理解できているかと問われれば自信がない。ただ、第一の手記の冒頭だけは——あの数行だけは、読むたびに胸の奥の同じ場所へ刺さってくる。 「……この——主人公の葉蔵《ようぞう》ってさ、いつもみんなの前でふざけてんだ。でもこれ全部、怖いからなんだって。皆の期待に沿ってないと嫌われるって」  少し間が空いた。蝉の声だけが、やけに大きく聞こえる。  山田は仰向けのまま、空を向いて聞いている。その横顔に向かって話すのは、不思議と楽だった。目が合わないほうが、言葉はするすると出てくる。顔を見られていない、というだけで、胸のあたりが少し楽になる。 「人間ってのはさ、みんな仮面かぶって生きてるんだよ」 「ふーん」 「これは、俺もすごく分かる気がする。どうせ本当の自分なんて、誰にも見せられない」  山田はすぐには返さなかった。草の上で指先を遊ばせては、何もないところをつまんでは離し、つまんでは離す。風が吹くたび、草の先が指に触れて、また離れた。  やがて、ぽつりと言う。 「お前が言うとさあ、人間って大変そうに思えるよ」 「大変だろ。ずっとずっと、誰かの期待に応え続けなきゃいけない。諦められたらおしまい」  母親の顔がよぎった。目が合ったときの、あの透明な視線。浩一を通り過ぎていく焦点。だしと味噌と、冷めかけた焼き魚の匂いが、二人のあいだをゆっくり昇っていく。  あのとき、自分はもう、がっかりされた後だったのだと思う。 「……人間なんかクソ喰らえだ。葉蔵はすごいよ、それで自殺未遂までできちゃうんだから」  言ってから、浩一は自分の言葉に少し驚いた。こういうことを、声に出して誰かに言ったのは初めてだった。喉の奥に、言葉の残骸が引っかかる。  どう繕おうか戸惑っているうちに、山田の声の方が先に落ちた。 「ふーん。お前、死にたいの?」  唐突だった。  蝉の声がふっと一段遠のいた。じとっとした空気の温度が、ほんの少しだけ変わる。風が止まったわけでもないのに、木陰の中の世界だけが急に動かなくなる。  浩一は口を開きかけて、閉じた。  死にたいのか。そう聞かれると、違う気もする。でも、このまま生きていたいかと聞かれても、それも違う。膝の上の本の角を握ったまま、浩一は言葉を探した。指先に力が入りすぎて、表紙の厚紙が少しだけへこむ。何か言わなければと思うのに、喉の奥で言葉がぐるぐる回るだけで、形にならない。  その沈黙を見ていたのかどうか、山田はふっと空気を変えた。 「あっ、じゃあさ。死んだら何になりたい?」 「は?」 「俺は海の水かなあ、風かなあ、あ、星もいいなあ」  急にこれだ。さっきまでの重たい空気が、拍子抜けするほどあっさり融ける。浩一は呆気にとられて、握りしめていた本の角から力を抜いた。 「軽すぎかよ。……ってか、生き物じゃねえんだ」 「どうせ人間やめんだろ。もっとダイナミックに行こうぜ」 「なんだそれ」  山田はあっけらかんと笑いながら、身を起こした。膝を立てて、指を折りながら語りはじめる。その顔には、さっきまでの問いの重さなんて欠片も残っていなかった。 「海の水はさあ、どこまでも広がってるじゃん。繋がってるとこ、ぜんぶ。風はどこにでもいける。山でも町でも砂漠でも。星は——あれだな、遠くからずっと見てられる。お前が本読んでるとことか」 「メルヘンすぎんだろ」 「そうかあ?」  やっぱり、笑った。  浩一は呆れながら、それでも口元が少し緩んでいるのに気づいた。さっきまで胸の底に沈んでいた重いものが、いつの間にか軽くなっている。山田のせいだ。いつだってこいつは、人の感情の水位を、知らないうちに変えてしまう。  丘を渡る風が、汗の引いた首筋に心地よかった。遠くで犬の鳴く声がして、それもすぐ、夏の音の中にまぎれて消えた。    八月も中旬が過ぎた頃だった。浩一が丘を上がると、欅《けやき》の幹に紙が貼ってあった。 「えっ」  浩一は立ち止まった。  幹のざらついた樹皮の上で、その白さは妙に人工的に浮いていた。透明のテープで四隅を留められていて、風が吹くたび、ぱた、ぱた、と乾いた音を立てている。  市の印。黒い文字。この丘に似合わない、事務的な書式。妙に現実的で、だからこそ現実感がない。 「何、どしたん」  山田が根元に背を預けて、横になったまま聞いてきた。腕枕をして、目は半分閉じている。  まるで昼寝の途中のような声だった。何ひとつ変わらないその声に、浩一はなぜか軽く苛立つ。 「お前、これ見てねえのかよ」 「見てねえ。何て?」 「この木、切り倒されるって。幹ん中が傷んでて、倒れると危ないからって」  浩一はもう一度、貼り紙に顔を寄せながら読み上げた。去年の台風で、幹に亀裂が入ったこと。外からは分からないが、そのせいで内部の腐朽が進んでいること。倒木の危険があるため、八月終わりに伐採工事を行うこと。  活字を追う目が、同じ行を二度なぞる。読むたびに意味だけが先に冷たく入ってきて、言葉の形は頭に残らない。  こんな一枚の紙で、ここが変わってしまうのか、と思った。この木陰も、蝉の声の落ち方も、風の通り道も。山田がいつも横になっている、あの根元のくぼみまで。  一瞬、間があった。ほんの一瞬。  蝉の声の隙間に、沈黙がすとんと落ちた。 「そっかー、仕方ねえな」  山田は言った。表情はいつも通りで、やっぱり興味なさげに空を見ている。片手で陽を遮りながら、まぶしそうに目を細める。もう片方の手が、何気なく胸のあたりに触れていた。その目がどこを見ているのか、浩一には分からなかった。空なのか、葉の隙間なのか。 「……木陰がなくなると本が読みにくいんだけど」 「馬鹿だなー、お前が木の下敷きになる方が嫌だよ」  何を言っていいのか分からなくて、でも何かを言いたくて、無理やり文句のように絞り出した浩一の声に、山田はすぐに被せてきた。笑いながらでも言えそうな口ぶりだった。  空が高い。風が葉を揺らしている。影が二人の上に落ちている。もう何度も見た景色のはずなのに、今日はどこか、輪郭だけが少しずれて見えた。 「あのさあ」  沈黙に耐えられず、浩一は言う。二人の間の沈黙なんて珍しくもないはずなのに、なぜか今日は耐えられなかった。  浩一はあぐらをかいて座り、そこに腕を乗せた。視線は山田ではなく、足元の草に落としたまま。 「お前、普段どこで遊んでんの?」 「ん?」 「ほら、ゲーセンとか。公園とか。マック? 図書館……は、ねえか。お前馬鹿だし」  山田はけらけらと笑った。確かに図書館は行かねえなあ、と言いながら、まだ声が弾んでいる。それから草の上から、首だけこちらに回した。丘の草が髪に絡まって、夏の光に透けている。草の種がひとつ、こめかみのあたりについていた。 「なんで?」 「……いや、だって、ここもう使えねえじゃん。木陰なくなったら暑ぃだけだし」 「え、なに。寂しいの」 「ちげえよ」 「俺いないと本読めないの?」 「むしろうるさくて読みにくい」 「ひっでえ」  山田は可笑しそうに肩を揺らした。そのまま手を伸ばして、頭越しに欅《けやき》の幹を軽く叩く。ごつ、と低い音が返ってきた。 「ま、どこでもいいよ。遊ぶ場所なんて」 「どこでもって」 「日陰があってさ、風が吹くとこ」 「ジジイかよ」 「あと、お前が文句言える距離のとこ」 「何だそれ」 「そのくらいがちょうどいいってこと」  山田は、あたりまえの顔をして言い切った。それからまた仰向けに戻って、片腕を目の上に乗せる。眩しいのか、眠いのか、もうそれ以上は話さないという合図にも見えた。  浩一はしばらく、その横顔を見ていた。日陰と風。それだけでいいのか、こいつは。  いや、違うのかもしれない、とも思う。その二つがある場所ならどこでもいいなんて言いながら、その実、ひどく限られたことを言っているようにも聞こえた。  丘の下で、どこかの家の風鈴が鳴った。そんなもの遠すぎて聞こえないはずなのに、かすかに、確かに、りん、と届く。その小さな音に、夏の午後の広さが急に見えた気がした。  しばらくの沈黙のあと、唐突に、山田が言った。 「あーやっぱ俺、風になりたいな」 「なんで」 「だってどこにでも行けんじゃん」 「星までは行けねーよ」 「あっ確かにそうだ」  少し笑って、山田は空に手をかざした。指のあいだから、白い光がこぼれる。葉の隙間を渡ってきた光が、指の骨の細い形をうっすら透かして、また揺れた。 「まあでも、遠くには行けそうじゃん。前に話してくれた砂漠とか、海とかさ」  光の中で、山田はいつもの、へらへらした笑い方で笑っていた。木漏れ日が頬に落ちるたび、光と影のほうが先に動いて、輪郭だけが少し遅れてついてくる。  伐採予定日が近づいた。丘の入口に、「八月三十一日 伐採工事」の看板が立つ。白地に黒い文字。注意書きの赤。風景の中に、時間の終わりだけが先に置かれている。 「俺、工事を見に来ようと思う。お前どうする?」  浩一が投げた声に、山田はすぐには答えなかった。相変わらず寝転がったまま、草の穂を一本、指先でくるくると回している。風が踊るのに合わせて、ゆっくり、ゆっくり。  やがて、彼はこちらを見もせずに言う。 「えー、やめとこうぜ。危ねえしつまんねーよ」  軽い口調。けれど、声の奥に何かが張っていた。  そんな音を浩一は初めて聞いた気がして、だからこそなぜか、意地のようなものがむくっと起きた。そういう言い方をされたくない、と思ったのかもしれない。 「じゃあ俺一人で来るよ」    出た声は、少しだけむっとしていた。苛立ちが表に出てしまったのに気づいたが、山田は気にしていないようだった。 「……仕方ねえなあ」  山田は笑った。笑ったはずだった。けれどその笑顔が、どこか違う。  何がどう違うのか、浩一にはうまく掴めなくて、それが何だかとても嫌な感じがして、ふいと目を背けた。  風が止んだ。欅《けやき》の葉が凪いで、影が地面に貼りついたように動かなくなる。  山田の指のあいだで、草の穂が止まっていた。さっきまで回っていたのに、いつの間にか、ぴたりと。  蝉だけが、何事もない顔で鳴きつづけていた。

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