莉翠 / 第3話

3:山田

 八月三十一日。  朝から晴れていた。雲はなく、空は夏の終わりを引きずるように高かった。高いくせに、どこか薄い。抜ける青の底に、ほんのわずか、秋の匂いが混じっている気がした。  欅《けやき》の周りに規制線が張られていた。黄色いテープの向こうに高所作業車が一台、小型のクレーンが一台。その周りに作業着とヘルメットの男たちが集まっている。車体の白が朝の光を跳ね返して、妙に眩しい。  それはいつもの丘ではなかった。ワイヤーの軋む音、無線のノイズ、地面を踏む安全靴の重い足音。機械油と排気。木の匂いの中に、よそ者が入り込んでいる。  山田は来ないと思っていた。何だか嫌そうにしていたから、今日ばかりは来ないと思っていた。  なのに丘に上がったら、もうそこにいた。規制線の手前で、両手をポケットに突っ込んで、ただ立っている。 「やっぱ来たんだなあ」  山田は浩一《こういち》を振り返ると、けらりと笑った。浩一は眉をひそめて、その隣に立つ。 「こっちの台詞だ。お前こそ来ねえと思ってたよ」  浩一が言うと、山田は短く曖昧に「そうだなー」と答えた。視線はもう欅のほうを向いていて、いつものぼんやりした横顔だけが見える。  今日も蝉は鳴いていた。けれど真夏のあの厚い層はもうなくて、何となく鳴き声が空へ抜けていく。丘を渡る風が、かすかに乾いている。草の匂いの中に、遠いアスファルトの熱が混じる。  やがて作業員たちが動き出した。  高所作業車のバケットに乗った男が手を伸ばす。長い柄がついたチェーンソーのエンジンがかかり、甲高い音が木陰の空気を切った。  ばさ、ばさ、と枝が落ちる。葉がばらけて散り、そのたびに光がざわつく。切り口から滲む青臭い匂いが、風に押されて浩一のところまで届いた。生木の匂いだ。夏の湿り気と共にあって、それは甘くて苦い。  切り落とされた枝は、地面の作業員が手際よく束にして片付けていく。さっきまで空に広がっていた枝葉が、ただの木くずになって、ただの「モノ」になって、地面に積まれていった。  木陰が、目に見える速さで薄くなっていく。  頭の上に広がっていたあの大きな影が、端から削り取られるように縮んでいく。影の境目がじり、と動くたび、空気の温度まで一緒に押し上げられていく。  山田の顔色が変わったのは、そのあたりだった。 「……っ」  小さく息を詰める音がして、浩一は横を見た。山田が額を押さえている。  八月終わりと言えど、まだまだ汗をかいて当たり前の暑さだ。けれど山田の額に浮いているのは、暑さの汗ではなかった。皮膚の内側からじわりと滲む、何か冷たいものが表面に浮いている。肌の色がすうっと抜けて、唇が薄くなっている。 「おい、大丈夫か」 「……おう。平気」 「木陰ねえんだから、辛いなら帰れよ。熱中症になんぞ」 「だいじょーぶ、だいじょーぶ」  いつもの軽い言い方だった。  けれど平気には見えなかった。山田の呼吸が、少し早い。笑おうとした口の端だけがうまく持ち上がって、目の奥は笑っていない。  工事は太い枝に移った。さっきより、もっとずっと大きなチェーンソーのエンジンがかかる。甲高い金属音が丘の空気を裂いた。蝉の声がかき消され、鳥が一斉に飛び立つ。  やがて幹は丸裸になり、クレーンがその先端を掴む。張ったワイヤーが、きん、と細く鳴った。そこから数十センチ下を狙って、いよいよ刃が幹に入る。  木屑が舞い散る。耳をつんざくような機械音の底で、木の繊維が裂ける音が鳴る。それは想像していたより低く、湿っていた。ぎ、と鳴って、みしりと軋んで、それからぶちりと外れる音がする。肉が裂ける音に似ている、と浩一は思った。けれど血の匂いはしない。ただ樹液の匂いだけがする。  そこでとうとう、山田が倒れ込むように膝をついた。 「山田」  浩一はぎょっとしてその肩に手を置こうとした。けれどそれを、山田は片手で制す。もう片方の手で胸を押さえている。呼吸が浅い。速い。口を開いて懸命に空気を吸おうとしているのに、うまく入っていかないみたいに、ひゅ、ひゅ、と喉の奥が鳴っている。 「おい、息──」 「──大丈夫」  大丈夫じゃない。声がかすれている。目の焦点が定まっていない。額から顎にかけて汗が一筋流れて、草の上に落ちた。  浩一は山田の制止に構わず、彼の腕をつかんだ。つかんで、その冷たさにどきりとする。熱い陽の下にいるはずなのに、体温がない。氷のような気配が指から背骨へ、一本ずつなぞって這い上がってくるようだった。  チェーンソーがまた鳴る。  次のブロックがワイヤーで吊られたまま、ゆっくりと切り離されていく。ぎ、みし、ぶちり。幹が更に短くなったその瞬間、山田の身体がびくん、と震えた。口から短い声が漏れる。声にならない声だった。  浩一は急いで立ち上がった。 「すみません!」  規制線のそばにいた作業員に駆け寄る。靴が草を踏み、土が鳴る。自分の声が、機械音に吸われていくのが分かった。 「あの、連れが──友達が、倒れて、息が──」  作業員が振り返った。汗と油の匂いのする目。けれど彼は、浩一が指さす方向へ目をやって、胡散臭そうに首をかしげる。 「……お兄ちゃん、誰もいないけど」  浩一の手が、止まった。 「は……?」 「危ないから離れてね。ひとりで来たんでしょ」  言い方は事務的だった。木に貼られていた紙と同じ、無機質で固い、感情のない声。そのまま彼は忙しそうに背を向けて、もうこちらを見ようともしなかった。  浩一は振り返った。  山田はそこにいる。地面に手をついて、肩で息をしている。髪が額に貼りついて、顔は蒼白で、それでも確かにそこにいる。  ──いるのに。  浩一は呆然と山田のそばに戻った。しゃがみ込む。膝が草に触れ、湿った土がズボンに移る。工事の音が聞こえない。音は届くのに、かたちが入ってこない。  頭の中で、何かが回りはじめていた。歯車のように、噛み合ってしまったら止まらないものが。  山田とは──この丘以外では、一度も会わなかった。  雨の日は来なかった。気持ちよすぎてじっとしていたくなると笑っていた。  遠い場所の話を、何度も聞きたがった。  浩一が伐採を見に来ることを、嫌そうにしていた。  ひとつずつ。ひとつずつ。  ばらばらだった小さな小さな違和感が、一本の線になっていく。分かりたくないのに、分かってしまう。 「……お前」  声がうまく出なかった。口の中が乾いて、息だけが先に漏れる。  山田は地面にうずくまったまま、浩一の顔を見上げた。苦しそうに、けれどどこか諦めたような目で笑う。  笑い方は見慣れたもののはずなのに、その表情を浩一は見たことがなかった。人をからかって笑っている顔なのに、笑っている場所が、ひどく遠い。  幹の上部がまたひとつ、大きく切られた。現れた断面の奥に、黒い空洞が口を開けている。木の中に、木がいない。去年の台風でやられて、内部に腐朽が──これか。  山田はもう声も出さずに、両腕で自分の体を抱きしめていた。息をしようとする肩だけが荒く上下に震えている。ワイヤーが張り、クレーンがうなる。切り離された丸太が宙を横切り、慎重に地面へ下ろされていく。 「……息、できないのか」  ああそうだ、葉っぱ。なくなったもんな。植物は葉の裏の気孔から呼吸するって、理科で──いや、欅《けやき》は落葉樹だ。冬は葉がないじゃないか。じゃあ冬はどうしてるんだっけ。そんなこと受験のテキストに書いてなかった。違う。そんなことはどうでもいい。今はそんなことを考えている場合じゃない。  ぐるぐると無駄な言葉ばかりが頭の中を回る。回って、回って、どこにも行き着かない。挙げ句に口から出たのは、 「……植物って、痛覚あるんだな」  あまりにも間抜けなその言葉に、山田は笑った。息が途切れ途切れで、肩が震えていて、それでも笑った。笑うたび、空気が足りないように喉が鳴るのに、笑いだけはやめない。 「お前さあ……頭いいのに、馬鹿だな」  浩一は何も言い返せなかった。言い返す言葉がなかった。いつもなら「うるせえ」とか「お前に言われたくない」とか、棘のある言葉が先に出るのに、喉の奥が詰まって、声が出てこない。  いつの間にか、幹は浩一の肩の高さほどに短くなっていた。  積み木でも崩すみたいに上から切り詰められて、あれほど大きかった欅が、もうただの柱になっている。枝も葉も消え、空の広さだけがただ広い。  最後のブロックがワイヤーで吊られる。作業員が合図を交わす。チェーンソーの音が一瞬止んで、丘がいっときだけ静かになった。機械が黙ると、世界の底に敷かれていた音の膜がはがれるように、空白が露わになる。蝉の声だけがうるさかった。  山田の輪郭が、揺れていた。  ぎらぎらとした光の粒が皮膚の上を滑っていく。そのたびに、そこにあるはずの身体の境目が頼りなく、透けていった。気のせいだと思いたかった。思えなかった。 「……俺さあ」  山田が言った。声はもうほとんどかすれていたが、その中に、不思議に澄んだものがあった。地中の水を静かに吸い上げている時のような、穏やかな響き。 「次は、風になるんだ。そしたら……お前がどこにいたって、遊びに行ける。……だろ」  浩一の視界がにじんだ。自分が泣いていることに気づいて、それが悔しくて、乱暴に手の甲で拭った。拭っても、またにじむ。熱くて、みっともない。  だからもうそれを誤魔化すのは諦めて、代わりに浩一は、山田の耳元に口を寄せた。しっかりと、彼に聞こえるように声を落とす。 「……いいや、また木だ。木になれ」  山田はふいに顔を上げた。苦痛で焦点が歪んでいる。けれどその目の中には、空と、短くなった幹と、浩一の輪郭がいっぺんに映っていた。ガラス玉みたいに透き通って、どこか遠い。 「……なんで?」 「そしたら俺が育ててやる」  浩一の声は震えていた。そこにはもう見栄などなかった。ただ言葉だけが、胸の奥から押し上げられてくる。自分でもこんな声が出ることを知らなかった。  山田は一瞬きょとんとした。苦しささえ忘れたみたいに、真顔になる。  それから──表情が、ぱっとひらいた。まるで花がほどけるように、大きく、晴れやかに。本当に嬉しそうに。  彼の眩しすぎる笑顔に対して、きっと自分はぐちゃぐちゃの、信じられないくらいカッコ悪い泣きっ面をしているに違いない。けれどそんなのどうでも良くなるくらい、山田はまっすぐに笑った。 「おう。わかった」  最後の幹に刃が入る。悲鳴のような金属音がひときわ高く響いて、欅《けやき》は地面とのつながりを断たれた。張っていたワイヤーがぐっと受け止め、クレーンがそれを釣り上げる。倒れないように、ゆっくり、ゆっくりと地面へ下ろされていった。  轟音はなかった。柔らかい、低い振動だけが、土を伝って足の裏に届く。骨の中まで、静かに揺らすように。  影が、消えた。  丘の上に、日差しだけが残った。さっきまで木陰だった場所を、光が容赦なく塗り潰していく。足元の草が、白く光った。  その光が眩しすぎて、浩一は思わず目を閉じる。音はなかった。いや、音はある。人の声もあるし、機械も動いている。けれど、そのどれもが遠い。  次にゆっくり目を開けたとき、山田はもういなかった。  浩一の手が、さっきまで山田の腕をつかんでいた手が、もう何も持っていなかった。指のあいだを、夏の終わりの、まだ湿り気を帯びた熱い風が通り過ぎていく。  地面には切り株があった。平らに切られた断面。まだ湿った木の色。切り口から樹液がにじんで、透明なしずくになって、ゆっくりと垂れている。  木屑が風に舞っていた。おがくずの香りがする。青さと甘さが混じった、木の中身の匂い。  浩一はその場に座り込んだまま、呆然としていた。  蝉がもう一度どこかで鳴き始める。変わらず、何事もなく。空は青い。風が吹く。さっきまでと同じ世界なのに、いちばん近くにあったはずの何もかもが、ごっそりと抜け落ちていた。

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