莉翠 / 第1話

1:丘の上の一本欅

「何読んでんの」  声が降ってきて、|浩一《こういち》は本から目を上げた。    見上げた先に、同い年くらいの少年が立っていた。逆光で顔はよく見えない。ひょろりとした体つき、日に焼けた腕、くたびれたTシャツの袖口。輪郭だけが先にそこにあって、へらへらした笑い声だけが、するりと木陰に入りこんでくる。  少年は返事も待たず、浩一の隣へどさりと腰を下ろした。  初夏の土曜日の午後だった。そろそろ肌が汗を覚えはじめる陽気で、ここまで上がってくるだけで首の後ろがじっとりする。  住宅街から少し離れたこの丘には、一本の|欅《けやき》が立っていた。枝は四方へ大きくひらいて、葉を幾重にも重ね、その下だけ光の質が違う。陽の白さがやわらいで、風がひと息ぶん冷える。  浩一はその根元に背を預け、文庫本を開いていた。太《だ》宰《ざい》治《おさむ》の短編集。半分はほんとうに好きで、半分は見栄だ。中学一年で太宰を読んでいる、という事実は、それだけで少し格好がつく。そう思っている。  浩一はわざと胡散臭そうな顔をつくった。いきなり隣にやってきた遠慮のない少年を、半眼で睨む。 「誰、お前」 「えー、同じクラスのやつの顔覚えてない?」  少年はまるで悪びれない。むしろ、何をそんなことを、という調子で笑っている。  浩一は小さく溜息をついて、本を膝の上に伏せた。 「知らねえ。佐藤? 田中?」 「適当なこと言ってんじゃねーぞ。山田だ」 「知るか。結局テキトーな名前しやがって」  佐藤も田中も、もちろん適当だ。クラスメイトの顔はほとんど覚えていない。四月のたった二週間しか通わなかった教室の中で、浩一の記憶に残っているのは、席が隣だった女子と、担任の名前くらいだった。 「ひでえ」  山田は笑った。けれど、傷ついた様子はまるでない。地面に手をついて、ぐい、と上体を反らす。強い日差しを心地よく遮る枝葉を見上げて、「でけえ木だなあ」と呑気に感嘆の声など上げている。けれどその視線は、木そのものを眺めるというより、葉のあいだを流れていく風でも見ているようだった。  浩一は黙って本に目を戻した。うるさいやつだ。無視しておけば、そのうち飽きてどこかへ行くだろう。  ──〝恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです〟  本の中の主人公は、淡々とした顔で、世の中を斜めの色眼鏡越しに曇らせて語っている。浩一はこの冒頭が好きだった。何がどう、と説明できるほど深く読めているわけではない。ただ、何か、カッコイイ。  せっかくもう一度本の世界に入ろうとしたところだったのに、けれど、山田は去らなかった。 「なあなあ。お前さあ、学校来ねえの? もう五月終わるぜ」 「……行かない」 「なんで?」  本当にうるさいなあ。浩一は本を持つ手に力をこめた。紙の上の文字はさっきまでと同じ並びのはずなのに、隣に他人の気配があるだけで少し読みづらい。丘の下から子供の声がかすかに聞こえて、それよりもっと近くに、山田の呼吸がある。 「……だって、みんな馬鹿だろ。行っても意味ねーよ」  仕方なく言ったあとで、浩一は自分でも少しだけ戸惑った。何を言ってるんだ俺は。けれど、ただ口から出てしまった。吐き捨てるように。  山田は「へー、そう?」と言っただけだった。それきり黙る。否定もしない。肯定もしない。慰めるでも、説教するでもない。何も聞き返してこない。  足元の草を蟻が一列になって横切っていく。浩一はページの端に親指をかけたまま、それをぼんやり眺める。その沈黙が妙に居心地よくて、聞かれてもいないのに、いつの間にかぽつりと続けていた。 「こんな馬鹿ばっかの公立じゃなくてさ。俺は、ほんとは、もっといい学校に行くはずだったんだ」  山田はこちらを見もせずに、ただ空を仰いでいる。横顔に向かって話すのは楽だった。そんな気がした。 「あんな、一月の練習校ごときで落ちたりなんかしなきゃ……それで立ち直れなくなってなきゃ、今ごろ俺は、麻《アザ》中《チュー》の制服着てた」 「それで仕方なくこんな学校にさ。……そしたらひでえだろ。授業中なのにガキみてーにギャーギャー騒いでばっかでさ。猿かよ」  ──あ。カッコ悪い。  何で初対面のこいつにいきなりこんなことを喋っているのか、分からなかった。分からないのに、せきを切ったような言葉の濁流が止まらない。止めようとすると、かえって次の言葉が押し上げてくる。 「親もさ、受験まではあんなにああしろこうしろってうるさかったのに。朝四時に水ぶっかけられて起こされてたんだぜ。なのに落ちたら、……ひとしきり泣かれて、それからもう何も言わなくなった。俺が学校行かずに何してようと、叱りもしねーよ」  食卓で母親と目が合ったときの、あの感じが、ゆらりと背筋を這い回る。箸の先、湯気、味噌汁の匂い。母親はたしかに浩一のほうを見ているのに、焦点だけが浩一を通り過ぎて、もっと奥の、どこか別のところに向いている。そこに息子がいることは分かっているのに、もう見ていない。  そこでようやく口が閉じてくれた。いや、遅すぎだ。話しすぎた。  胸の奥が急に冷えて、さっきまでより風が強くなった気がした。同情されるか、説教されるか、あるいは面倒くさいやつだと引かれるか。浩一は知らず知らずのうちに身構える。  だが、しばらく黙っていた山田の返答はそのどれでもなかった。 「……ふーん。じゃあ、俺もちょくちょくここに来よっかな」  浩一は顔を上げた。  山田はこちらを見ていなかった。いつの間にか仰向けに寝転がって、片手を胸のあたりに置いたまま、目を細めている。 「……お前、俺の話聞いてた?」 「んー? だって風が気持ちいいじゃん」  ずれている。会話が噛み合っていない。浩一は呆れて、それ以上何も言えなかった。  丘の斜面を遠くまで覆う草が、ひと吹きの風でいっせいに傾いで、また戻る。その向こうに住宅街の屋根がつらなって、午後の光にぼんやりと白かった。  次の日も、山田は来た。  浩一が丘に上がったときには、もう欅《けやき》の根元で仰向けになっていた。「よっ」と片手を上げる。草に半分埋もれた格好で、顔だけがこちらを向いている。浩一は何も言わずに、少し離れたところに座って本を開いた。  その次の日は来なかった。月曜だから彼も学校に行ったのだろう。空は朝から曇っていて、枝葉がざわざわと落ち着かない音を立てていた。  火曜日はいよいよ雨が降った。丘の土はすぐぬかるむ。浩一もその日は家から出なかった。窓の外の雨音を聞きながら本を開いて、けれどあまりページは進まなかった。  水曜日、晴れた。雨上がりの空は妙に高く、丘の草はところどころ濃い緑に光っていた。  浩一が欅の下まで行くと、山田がいた。前の日までの雨なんて知らないみたいな顔で、幹に背を預けて座っている。 「え。お前、学校は」 「俺もサボっちゃった」  浩一が思わず目を瞬かせると、山田は軽く笑って、それ以上は説明しなかった。  こういう日が続いた。山田は来たり来なかったりしたが、来る日はたいてい浩一より早いか、本を開いているうちにいつの間にか隣にいる。  浩一が読んでいるあいだ、山田はそのへんでぼんやりしていた。地面に寝転んで空を見ているかと思えば、急に立ち上がって虫を追いかける。丘の斜面を下りかけて、途中で飽きて戻ってくる。雲の形を見つけては、「あれは鳥」「あっちは葉っぱ」「あ、崩れた」と、誰に聞かせるでもなく声に出す。  彼の独り言はいちいちうるさい。なのに、浩一はいつの間にか、それを邪魔だと思わなくなっていた。  この丘以外では、山田に会わなかった。コンビニでもスーパーでも、他の公園や散歩道でもすれ違わない。  ただそれは別に変なことでもなかった。もともと他人の生活などに興味はないし、言えるほど浩一の活動範囲だって広くない。たまにサボって平日に来ることがあっても、ふつうは学校に行っているのだろう。  ある日、浩一が本を読み終えてページを閉じると、横から山田が聞いてきた。 「それ、何の話? 何度も何度も同じの読んでるよな」  浩一は本を脇に置いた。今日は雲ひとつない。枝を鳴らして舞い上がった初夏の風が、鳥を一羽、ずっと高いところへ運んでいく。 「人間失格」 「……え。俺何かまずいこと言った?」 「そういうタイトルの本なんだよ。太宰治くらい知っとけ、馬鹿」 「あ、あー。なるほど。知ってるぜダザイオサム。めろす? ……が、えっと、めっちゃ怒るんだろ」 「…………」  この文章は、読んでいると水の底に沈んでいくような感覚がある。息が少しずつ苦しくなっていくのに、ページをめくる手が止まらない。そういう類の本だ。  その重さを、何でこいつはこんなに軽い形に丸めてしまうのだろう。  言いようもない呆れと、少しの苛立ちを覚えながら、浩一は横目で山田を見やった。  山田は草に肘をついてうつ伏せになった格好で、遠くを眺めている。住宅街の向こうを電車が一本、音を置き去りにして横切っていった。 「貸してやろうか」 「えー。いいや。俺、本読めねえんだ。すぐ飽きる」  山田はあっけらかんと言った。 「……ほんっとに馬鹿なんだな」 「まあな」  彼は笑って受け流す。浩一の棘を、山田はいつもそうやって、するりと笑い飛ばす。  けれど今日、山田は、顔だけを少しこちらへ向けた。 「でもさ、話してくれんなら聞くよ。どんな話なの、それ」  浩一は少し迷った。この話を口で説明するのは難しいし、そもそも山田に分かるとも思えない。あの息苦しさは、筋だけ話したってきっと半分も伝わらない。  けれど山田がこちらを見ていた。草の上に頬杖をついて、目だけが妙にまっすぐだった。  浩一は溜息をつくふりをして、かいつまんで話し始めた。人に馴染むために道化を演じ続ける主人公の少年。少しずつ壊れていく人生。人間失格。  説明しているうちに、自分でもうまく言えていない気がして、何度か言い直した。  山田は黙って聞いていた。途中で「へえ」とか「うわ」とか、小さく声を漏らすことはあったけれど、茶化しはしなかった。いつものへらへらした相槌じゃなくて、ちゃんと聞いているときの声だった。  話し終えると、山田はしばらく空を見ていた。葉の向こうで、光が揺れている。風の音だけが、少し長く続いた。 「いいなあ」 「何がだよ。お前、結局何も分かってねーだろ」  えー、と山田はけらけらと笑う。 「いやまあ、そのヨウなんとかって言うやつの話じゃなくて──お前のこと。そんな難しい本読んでさ、面白いって思えるんだろ。すげえなあって。他にも読んでんだろ? 例えばえーと、遠いとこの話とか」  遠いところ。浩一は本棚の中身を思い浮かべた。受験のあいだに隠れて読んでいた物語たち。ヘッセ、スティーヴンソン。名前も知らない国の町、海、雪の道。息の詰まるような学校と塾と家の往復の中で、自分はどこにも行けないのに、ページの中ではいくらでも遠くへ行けた。 「……まあ、そうだけど」 「じゃ、今度はそれ聞かせてよ」  山田の声が、一瞬、少しだけ変わったように聞こえた。この丘からは見えない、たどり着けないほどどこか遠くに、それでも手を伸ばそうとしているような。  それが何なのか分からなくて、浩一はふとまじまじと山田を見やる。けれど山田は、いつも通りひょうひょうとしていた。あくびをひとつして、だらしなく寝転がって、木の葉の隙間を見上げている。丘を越えていく鳥の影を目で追って、少し眩しそうに手をかざす。  引っかかったその何かが少し気にはなったが、浩一はそれ以上聞くのはやめた。聞けばほどけてしまう気がしたし、言葉にしなくても、別に悪い気はしなかった。  やがて山田は、眩しいのに耐えきれなくなったように目を閉じた。浩一もまた、鞄から次の文庫本を取り出す。  風が吹いて、枝葉が一斉に鳴った。光が揺れて、二人の上に影が散る。それだけがただ、何度も繰り返されていた。

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