莉翠 / 第4話

4(終):一切は過ぎていく

 数日後、浩一《こういち》は丘にいた。  工事は終わっていた。切り落とされた枝も丸太も片付けられて、丘の上には切り株だけが残っている。地面すれすれで平らに切られた、それ。周囲の草は踏み荒らされて、ところどころ土が剥き出しになっている。人の足と機械の重さが通り過ぎた跡が、まだ生々しくその存在を主張していた。  木陰はもうない。九月になっても容赦のない陽が丘の全面を叩いていて、逃げ場がなかった。  浩一は切り株のそばに膝をついた。  手を置く。表面には真っ黒な遮光シートが被されていて、太陽の光を吸収して熱を持っていた。薬剤の匂いがかすかにする。そのまま放っておくとシロアリが出たり、脆く倒れやすい側幹が出てしまうらしい。だからひこばえが出ないように除草剤を注入して、光合成ができないようにシートを被せて、これから数年かけてゆっくり根を腐らせるのだと聞いた。  根はまだ生きているはずだ。地面の下で、今はまだ。  けれどこの木に未来はない。浩一は人間だから、それを知っている。手のひらに伝わるのは、ただのシートの温度だった。じりじりと陽に焼かれた、乾いた表面。  山田は──ここにはいない。  あの後、図鑑で調べた。どこかの森の、大きな欅《けやき》の写真。  条件が揃えば、欅は千年も生きるらしい。大人が何人も手を繋がないと回れないくらい太い幹で、枝葉も広く広く伸びて、その下に小さな森をつくる。  あいつは、本当に子供だった。こんな住宅街の近くの丘だ。人の手で植えられたのだとしたら、せいぜい数十歳。人間で言えば、自分より年下でもおかしくないくらいだ。  なぜあいつは、あんな姿で自分の前に現れたのだろう。少し考えてやめる。どうせあいつのことだ、遊びたかったとか、ちょっと気になったとか、その程度なのだろう。クラスメイトだとか、山田だとか、そんな嘘を言える知恵が回っただけでも上出来だ。 「本当に馬鹿だったもんなあ、お前」  どこに向かって言えばいいのかも分からず、仕方なく遮光シートに向かって声を落とす。  風が吹いた。  丘を渡る風を、浩一は全身で受けた。頬を撫でて、髪を揺らして、通り過ぎていく。いつもと同じ風。それ以上のものは、ない。  切り株から手を離して、立ち上がろうとしたときだった。  視界の端で、何かが揺れた。  切り株のすぐ脇。地面から十数センチ、小さな苗木が出ていた。風に押されてかすかに傾いで、戻る。また傾いで、戻る。まるで息をするように。  浩一は息を止めた。  見覚えのある形だった。あの枝の先で揺れていた葉だ。鋸歯のある、左右非対称の小さな葉。こんな小さいくせに、ちゃんと「欅《けやき》」の形をしている。 「……山田?」  声に出したのは、ほとんど無意識だった。  応えるように葉が揺れた。いや、風のせいだ。たぶん。けれどその風には、どこか覚えのある温度があった。  理科的には、去年の実が芽を出して成長しただけのことだ。この木の子供であって、この木そのものではない。ましてや山田ではない。  そんなことは分かっている。分かっているのに、胸のほうが勝手に波打つ。  もう一度、風が吹いた。今度は浩一の髪も揺れた。  ──なんだ。お前、ちゃんと約束守ったんだ。  浩一はしゃがみ込んだ。適当な石で地面を掘ってから、指先でそっと苗木のまわりの土を払う。根を傷つけないように、息を止めて、土ごとすくい上げた。  折れそうなくらい細い茎。こんなもの、踏まれたら終わりだ。このまま放っておいたら、切り株に塗られた薬剤で一緒に枯れるかもしれない。 「……連れてってやるよ、遠いとこ」  声に息が混じった。自分の声なのに、遠くで鳴っているみたいだった。 「砂漠とか海外とかは流石に無理だけどさ。今度はちゃんと、千年生きられるところがいい。そうだろ?」  声に出してから、浩一は自分で驚いた。  今の自分には、どこが「千年生きられる場所」なのかも分からない。だいいち学校にさえ行けていない自分が、そんな遠くに行けるものか。  けれど、と、浩一は首を振る。探すことならできる。この芽が丈夫に育つころ、うまく根を張れる場所を見つけること。それくらいなら。  浩一は、苗を手のひらに包んだ。両手のあいだで、土がかすかにあたたかい。小さな熱が、まだ消えずに残っていた。  家に帰った。  倉庫から使っていない植木鉢を引っぱり出し、庭の隅の土を入れて、苗をそっと移す。指先で軽く押さえて、水をやった。水差しの先から落ちる水が、土に染み込んでいく。小さな双葉が水の重みでほんのわずかだけ頭を下げて、また静かに持ち上がった。 「……それ、なあに?」  背後で声がした。  振り返ると、母親が戸口に立っていた。エプロン姿で、手にはタオル。その目は相変わらず透明な色をしている。けれど完全な無関心ではない。何をしているのか分からない、という顔だけれど、少なくとも浩一を、見ている。  浩一は数秒だけ母を見た。怪訝そうな彼女に、何をどう説明したら良いのか分からなくて、思わず僅かに苦笑する。けれど自分が笑ったことに気づいて、すぐ表情を取り繕った。  それからわざとぶっきらぼうに言う。 「……木」 「木?」 「丘の」  それだけ言って、浩一はまた水差しを傾けた。  母親は口を開きかけて、何か言いかけて、結局何も言わなかった。ためらうように「そう」とだけ告げて台所へ戻っていく。足音だけが、廊下を遠ざかっていった。けれどその声は、その足音は、これまでよりいくぶんか柔らかく聞こえた。  しばらくして、浩一は窓辺に鉢を置いた。  窓を少しだけ開ける。指一本ぶん。湿った匂いの残る空気が、部屋の中にすべり込んでくる。  遠くで学校のチャイムが鳴った。子供たちの声が、風にちぎれて届く。  一瞬、クローゼットに目を向ける。そこにはもう半年近く袖を通していない、新品に近い制服がかかっているはずだ。けれど浩一は、すぐに視線を鉢植えに戻す。  鉢植えの中で、双葉がかすかに揺れている。  窓から入ってきた風が葉に触れて、浩一の頬に触れて、部屋を通って抜けていく。今日は、窓を閉めなくてもいい。  ふと、太宰の一節が頭をよぎった。  ──〝いまの自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます〟  あの暗い手記の、終わりのほうにあった一文。廃人と化した主人公が、最後の最後に幸福も不幸も脱ぎ去ってたどり着いた境地。何度も読んだけれど、浩一にはよく分からなかった。  けれどその言葉が今、胸の中にゆっくり沈んでいく。たぶん、太宰が書いたのとは少し違う意味で。  幸福でも不幸でもない。まだ学校に行く気はしないし、親との距離もそんなに変わっていない。何かが解決したわけではない。  けれど苗木はここにあって、風は通り過ぎていって、すべてはゆっくり移り変わっていく。それだけのことが、何だか悪くない。  だから今は、こいつに水をやって、太陽の光と、風の届くところに置いてやる。  それが今の浩一にできるぜんぶで、それで十分だった。 <終>

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