橋本直 / 第104話

第99話 白手袋の怪物

 二十年前。  地球圏と反『祖国同盟』加盟国の連合艦隊、そして甲武艦隊が激突した古戦場。  そこには、古戦場に取り残された兵器の残骸を望む貴賓室があり、窓際には深く沈むアームチェアが置かれていた。  そこには老人が一人くつろいでいた。  巡洋艦の貴賓室にきっちりとした身なりの老人が座っている。そのこと自体が本来なら軍規に厳しい甲武海軍ではあり得ないことだった。  しかも、その老人は甲武国では珍しい存在だった。  甲武国民の大半を占める東アジア系ではない。  鋭い鼻梁と彫りの深い顔立ちを持つ、明らかなヨーロッパ系。  それだけで、この男が『異物』であることは誰の目にも明らかだった。    老人はブランデーグラスを指の腹でゆっくりと回し、琥珀の液面に灯る微かな環を眺めていた。その古戦場を舞う多くの戦艦や飛行戦車やシュツルム・パンツァーの残骸の群れに老人は敬意と感嘆の念を明らかにするように満足げに一口ブランデーを口にした。  彼はただ静かに時を過ごしていた。  だが、その目だけは違う。  そこには、この戦場で死んだ者たちへの敬意と、戦争そのものへの執着が、なお消えずに燃えていた。  そして、その死が無駄でなかったことはその目が夢見ている『あるべき宇宙秩序の形』が実現した時には表れることになると老人は考えているように見えた。    そんな老人を歓迎するために設けられた貴賓室には甲武国らしくアナログレコードの蓄音機から格調高い交響曲が流れていた。スピーカーから流れる金管の合奏にむけて遠い地平を描き始める。低いティンパニーが床板を撫でるたび、グラスの中の世界がわずかに震え、香りが立つ。  老人の耳はいかにも『大正ロマンの国』と呼ばれる甲武国の戦艦の貴賓室に置かれるにふさわしいアナログレコードから流れる雑音交じりの交響曲を聞きながらその旋律に神経を集中しつつ、目の前に広がる空間に散らばっている戦闘艦の残骸やシュツルム・パンツァーの破片を一々目にしては満足げにブランデーグラスを揺らしていた。  その青い瞳は、硬い意志の色を宿す。幾たびも崩壊の瞬間に立ち会い、なおもそこから秩序を捻り出してきた者の目と言えた。頬の皺は多いが、口元は奇妙に満足げだ。残骸と廃墟のなかにこそ未来を見出す生き方を、とうに自分の血に染み込ませている。 「……閣下。近藤です」  勇ましいファンファーレへ一段ギアが上がる、その丁度の手前の時間だった。    ドア上部のインターホンが、音楽を割る。    老人はほんのわずか眉をひそめ、吐息ほどの声で吐き捨てるように言った。その声色には歓迎の色は一切なかった。完全なる無味乾燥と無関心が老人の声には宿っていた。 「……入りたまえ」  彼にとって、いまは死者との語らいの時間だった。それを邪魔されたことは老人にとっては決して愉快なことでは無かった。窓の外、甲武海軍の駆逐艦廃材に眠る若者たちに杯を掲げる……そんな儀式を中断された苛立ちは、確かにあった。だが、それを相手にぶつけるほど彼は狭量でも幼稚でもない。苛立ちの処理の仕方を身につけて生き延びてきた人間の、温度の低い礼節がそこにある。感情とはぶつけるに値する人間にぶつけて初めて意味があるというのが老人の思想の根幹にあった。  近藤と名乗る男はそれに値する存在ではない。老人の口元にはそんな感情がにじみ出ていた。  貴賓室の自動ドアが左右に滑り、甲武国海軍中佐の制服に身を包んだ男が入ってきた。丸刈り。頬はこけ、仕立てのよい詰襟がやや大きく見える。神経質な視線が、部屋の気圧と光量を一度測る。    ……その男こそ嵯峨がランに『消してくれ』と頼んだ写真の男、近藤忠久中佐だった。  彼は老いた近藤が尊敬すべき存在と考えている賓客の機嫌の陰りを、見てはいる。だが、軽口でごまかすような真似はしない。沈黙がやわらぐ地点を測る。実務の前に、場があることを弁えている。そうでなければ、この場に立てる男ではない。 「近藤君。君は貴族制国家の甲武にあってそれほど高い身分の出身ではないと聞いているが……確かに甲武の下級貴族の生活が貧しいものだとは知ってはいる。しかし、その超えられないと思われた甲武の高い身分制の壁を越えて、その頭脳で出世の階段を駆け上り、甲武の『蓄音機』が買える中佐と言う身分にまで上り詰めたんだ……当然、この曲が何か分かると思うが……どうだろうか?この曲を知っているかどうかと言うことは武家貴族出身の佐官になって当然の生まれの人間なら一度は聞いて記憶しているものだということは何度か、そういう身分出身の軍人達と語らった経験から私も分かっている。だから、君のような身分制国家において軍人としては最底辺から這い上がった人間の知識の範囲を私は知りたいんだ……どうだね?」  金管が遠景から手前へと迫り、旋律が天井を押し上げる。    老人は指先をわずかに揺らし、グラスの脚を回す。苦味を含んだ香りが、革張りの室内に漂う。 「クラシックですね……確かに私は士族を名乗るのもおこがましい卑しい生まれなものですから、クラシックは『ワーグナー』ぐらいしか。所詮は下級士族の出の自分の聞く音楽と言えば芸者の|都都逸《どどいつ》が関の山で……閣下に比べると不勉強で……申し訳ございません。確かに、私の上官の多くはそのくらいの教養はあっても不思議の無い立派な身分にして人格の持主ばかりでした。それに比べて私が劣っているのは認めざるを得ない事実なのでしょう」  老人は一度、瞼を下ろし、音だけを聴いた。    正直であること……それは彼が七十年の間に学び、なおも手放さなかった稀少な徳目だ。近藤と言う男が口だけではない信用できる男だと老人はその答えでそれだけは評価した。  嵯峨惟基という男は、泥を被って勝つ。  ルドルフ・カーンは、それを白手袋のままやる。  理論を語る者、軍参謀を気取る者ほど、希望的観測で上官の機嫌をとる。彼はそれで、どれほどの敗北を舐めさせられてきたか。列挙しようとすれば、ブランデー一杯では足りない。その中には老人の国ゲルパルト第四帝国を指導する政党であるアーリア人民党の代々幹部を務める家柄の人間も少なからずいた。老人は生まれでその人柄が決まると考えるほど狭量では無かった。ただ、老人にはそれを決めるのは人種と民族だという確たる信念があるのは事実だった。  近藤は老人の口から次にどのような言葉が吐かれることになるか怯えているように喉を鳴らした。    老人は何も言わない。ただ、グラスの縁を光が走るのを眺める。老人には近藤が有能な割には嘘の付けない男であるということさえわかれば今の時点では満足できる知るべきことのすべてと言えた。  それだけで、胸の奥を細い冷指でつままれたような感覚が生まれる。  生まれだけで人の価値が決まるとは、カーンも思っていない。  だが、血統と民族が人間の限界を定めるという信仰だけは、一度も疑ったことがなかった。   『……見透かされている……我々の実力の限界を……俺の生まれゆえか?いや違う……俺の今の立場をこの老人は計っている……その計った果てに……俺はどのような男だとこの老人には見られているのだろうか……』    そうは思いながらもこの老人には自分のすべてが自分とかわしたこれまでの少ない会話ですべて見抜かれているのだと近藤は思う。沈黙こそ、彼の『尋問』だ。『第二次遼州大戦』では甲武の同盟国だったゲルパルト第四帝国が誇った秘密警察の『最良の手段』……相手の言葉を待つこと。 「……あの、閣下?」  老人の尋問に負けた近藤は、短く、正確な返答を心掛けてそうつぶやいた。 「先ほどの問いに答えておく方が君に対する敬意の表れとしては当然のことかもしれないね。この曲はリヒャルト・シュトラウスの曲だよ。『ツァラトゥストラはかく語りき』と呼ばれる曲だ。君も私のような人間に会って話題を提供する立場にあるのだから、これを機会に覚えておきたまえ。教養は人の大小を左右する。君も、少しは勉強が必要のようだね……甲武の庶民文化に下級士族の出の君がどれほど毒されようが私の関知するところではないが、そこで終わる人間ならば君はそこまでの人間……というところかな?」  叱責ではない。仕分けだ。    老人……ルドルフ・カーンは、グラスに口をつけ、音の輪郭が変わる点を待つ。    近藤は、軽く頭を垂れ、しばし旋律に耳を澄ませた。ドイツの哲学者、そしてその思想を音に仕立てた作曲家に、遅ればせながらの敬意を示して見せた。    やがて、カーンが紫檀の組子細工を施した執務机に、グラスを音もなく置いた。  カーンにとって近藤は、駒としては優秀だった。  だが、人間として敬意を払う対象ではないと言うのがカーンの出した結論だった。  そして、敵として名を記憶する価値があるのは、この艦にいない別の男……嵯峨惟基だけだった。    これはカーンなりの近藤に対する言葉を発することを許可するという合図だ。近藤は息を整え、切り出した。 「閣下、それよりも例の報告書は……読んでいただけましたでしょうか?」  近藤の言葉はどこまでも丁寧だがその表情は硬い。    カーンの瞳に、かすかな光が立った。獲物を観察する時の光だ。  遼州第四惑星系の大国、ゲルパルト連邦共和国。かつては『ゲルパルト第四帝国』と名乗り、地球圏と東和を除く主要遼州圏の国家群に反旗を翻した甲武国・ゲルパルト・遼帝国で構成された『祖国同盟』という同盟国である甲武国と並ぶ軍事大国であった。その秘密警察の頂点に在った男。地球圏各国と外惑星共和国連邦、遼北人民共和国の特務機関が今なお血眼で追う第一級戦犯である。    敗戦から20年を経てもなお、散り散りの同志をまとめ、資金と思想と暴力を回し続ける推進軸。それが、目の前の老人だった。 「ああ。読ませてもらったよ……一応目は通した……一応ね」  短い肯定のあとに、長い沈黙。    彼は知っている……沈黙は相手を喋らせる。    近藤の額に汗が浮く。室温は一定だが、背筋に冷たさが降りる。 「近藤君。君の報告書には、余計な熱が多い。だが、一つだけ有益な名があった。嵯峨惟基だ」  カーンはそこで初めて、わずかに笑った。 「あれは所詮神の祝福を受けていない異星人だ。血統としては論外だ。だが、敵としては申し分ない……その部分だけは面白かったよ……私にはね……」    カーンはグラスを指で押して回し、琥珀の輪に視線を落とす。
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