橋本直 / 第117話
第112話 提灯の切れた夜
月島屋は、いつもの提灯が一本切れていて、紐だけが風に揺れる。暖簾を掻き分けると、鶏脂が焼ける匂いと、七輪のパチパチという音が一気に押し寄せた。冷房は弱め、扇風機が二台。座敷は満席、誠たちはいつものカウンターだった。
「思うんだけど……私の席、神前君から遠くない?」
パーラはカウンターの端から、恨めしそうにアメリアを見た。
「アメリア、わざとやってるわね?アメリアとかなめちゃん……そんなに私を虐めて楽しいの?ああ、二人のことだから『楽しい』って即答しそうね。アメリアは『面白ければそれで良い』人間だし、かなめちゃんは男女ともに苛め抜いてこそ快楽を得ることができる天性の『女王様』だものね。私はいつもこんな扱い……アメリア、あなたも私と同じ『ラスト・バタリオン』よね?『私はゲルパルト国籍です!』なんていう言い訳は通用しないわよ!元々同じような生まれのはずなのになんでアメリアは他の運航部の女子には甘いのに私に対してだけそんな召使扱いをするの?そんなのどう考えてもおかしいとは思わないのかしら?ええ、アメリアなら思わないって即答するのは分かってるから、言ってみただけ」
パーラの抗議は、アメリアのあざけるような視線、そして両隣からの無言の殺気で、すぐ沈んだ。アメリア、かなめ、カウラの三人の視線が常にパーラと誠の間を往復していることに誠はすぐに気付いた。
『この女達……意地でも僕がパーラさんと仲良くするのを阻止することで意見が一致しているらしい……そんなに僕が普通の幸せを手に入れるのがこの女達には気に入らないのか?それにパーラさんはこの状況に順応しているみたいだけど……ここまで可哀そうなパーラさんを見ていると僕が動いてこの女達に一泡吹かせてやりたくなるな』
その三人の女達から明らかに自分よりひどい扱いを受けているパーラを見ながら誠はため息を漏らした。
「小夏!アタシの酒!ちゃんと用意してあるだろうな!ちゃんとアタシは別会計で現金で払ってるんだ!他の連中みたいにランの姐御がツケと称して月に一回清算に来るのつまらねえ客とはわけが違うんだ!すぐに金になるんだぞ!優遇されて当然だろうが!」
かなめの声に、奥から春子さんがすっと出てくる。藤色の着物、涼しい手の甲がひらひらと動いた。『レモンハート』のボトルがカウンターに置かれるたび、木が低く鳴る。
「すみませんね……いつもごひいきに。確かに、西園寺さんのうちの経営状況の意見はもっともだわね。西園寺さんのおかげでうちが持ってるのは事実だもの。西園寺さんの『レモンハート』。まだまだケースであるわよ」
笑顔で春子は現金払いのお得意様のかなめを見つめていた。
「ケースで頼むとは……西園寺。貴様は飲みすぎだぞ」
呆れるカウラだが、誠もかなめの酒への執着はカウラのパチンコを超えているように思えた。
「うるせえんだよ!この身体だ。アタシのことは『鉄の肝臓を持つ女』と呼べ!アタシに酒で勝負を挑めるのは『一晩で5升飲んでも平気な幼女』ことランの姐御だけだ!そんな体になってからアタシに意見しろ!」
ふたりのやり取りに、春子さんが目尻で笑う。こういうやり取りを何度も見てきた店の笑いだ。
「じゃあ、いつものコースでいいわよね?」
アメリアが全体の顔色をざっと見る。焼き場の源さんが炭を起こし直す。火の色が一段白くなった。
「俺!豚串追加で。前回足りなかったんで」
島田はいつもの缶の煙草を取り出してに火をつけ、小型の空気清浄機が、仕事を諦めたような音を立てた。
「神前、レバーはやるわ。アタシあれ、苦手だから」
「はあ」
気が進まないけれど、命は惜しい。うなずく以外の選択肢はない。
「分かったわ。源さん!盛り合わせ七人前に豚串!」
冷蔵庫の蝶番が、いい音で開く。
「毎回ここですね……これで三度目ですよ。豊川には他に店が無いんですか?」
誠は時折訴えかけるような視線を遠くから送ろうとするたびにアメリアやかなめににらみつけられて俯くパーラを意識しながらそのことに気付いている自分を誤魔化すようにそう言った。
「ここが一番サービスが良いの!チェーン店の焼鳥屋はラム酒置いてねえだろ?」
かなめはグラスの氷を眺めながら悠然と構えてそう言って見せた。
「意地でもラム酒を頼む貴様がどうかしてるんだ。普通焼鳥屋にはラムは置いていないことくらい私でも知っている」
冷たく、それでいてかなめを挑発するようにカウラはそう言った。
「なんだと!」
「お二人とも……抑えて」
言いながら、誠はビール瓶を受け取る。ラベルは必ず上、それが『特殊な部隊』のルールだった。
サラは能天気に中瓶を配り、カウラへ手渡そうとするがカウラは一度さっきのこもった視線をパーラに送った後、柔和な笑みを浮かべて皿に向けて静かに首を横に振った。
「私は運転してきているんだ。飲まないぞ」
カウラはそう言って、誠の前へ瓶をスライドするように押しやった。アメリアが小夏からグラスを受け取り、首だけで誠を見る。
「じゃあ注ぎますね」
誠は笑顔で隣のアメリアに向けてそう言った。
「ちゃんと『ラベルは上』にして注ぐのよ。それがうちのルールだから」
アメリアはちらりとパーラが遠くで俯いているのを確認すると笑顔で誠のビールを受けた。
カウンターの木目に、泡のリングが重なっていく。夏の模様だ。
「烏龍茶……は、パーラさんとカウラさんだけ?」
春子がグラスを置く音は、氷が当たる澄んだ音。パーラは時々銃を叩きながら自分をちらちらと見て来るかなめに怯えながらサラにビールを注ぎ、肩をすぼめて小さく礼をする。
「そう言えば、隊長は来ないんですか?あの人いかにも飲みそうなんですけど……」
誠が訊くと、カウラは真顔で経済白書みたいな口調になる。
「隊長は月に小遣いと言うか生活費3万円だ。……店で酒を飲む金なんてある訳が無い……そもそもその前に止まっている部屋の電気代、ガス代、水道代を用意する必要がある。ライフラインを止められているからいつも隊長室で寝泊まりして隊のシャワー室でシャワーを浴びる生活を送っているんだ」
カウラの言葉に誠は言葉を失った。
頭の中で『3万円』の文字がでかく点滅する。どうやってタバコ代と焼酎とオートレース……というか3万円で生活ができるということ自体が誠には冗談にしか聞こえなかった。
「ああ、叔父貴?なんであんな小遣いで生きていけるかって話だろ?あのおっさんはやたら運がいいのか、読みが鋭いのか、結構趣味のオートレースで勝ってるみたいだぞ……さも無きゃそもそも仕事中に安いとはいえ甲種焼酎を飲むような真似ができるわけがねえ。まあ当然負ける時もあるみたいだから隊の連中に借金しているときもあるけどな。通勤も中古屋で千円で買ったママチャリだし」
かなめは乾杯を待たずにラムを傾ける。禁止事項の貼り紙(『乾杯前飲酒・罰金』)を横目で見て、アメリアが咳払い一つしてまるで自分の存在感を示すようなしぐさをして見せた。
「じゃあ、注ぎ終わったことだし!乾杯しましょう!」
『乾杯!』
ガラスが触れ合い、七輪の音と混じって涼しい音になる。春子さんと小夏がししとうを配り、皿の上で塩が光る。
「いいねえ……夏だねえ……」
かなめはししとうを齧ってから、ラムで追いかける。強い。ほんとうに強い。
……そこからは、各人の『仕事のようで仕事でない話』が始まる。
島田が煙草を指で弄びながら、ふっと笑う。
「今日の模擬戦、仮想だって分かってても手に汗かくんだよな。ハーネス外した後のTシャツが、毎回同じとこで張り付く。現実の汗って正直だわ」
アメリアがニヤリと笑った。
「誠ちゃん、また刃に逃げたでしょ。射撃はお守り。格闘が勝ち筋、って顔してたわよ」
パーラがようやく誠に話しかける機会だと遠い席から身を乗り出したが、殺気を込めた視線がアメリアとかなめとカウラから放たれるのですぐに黙り込んで手に持ったネギまを口に運んで俯いた。
「パーラ……神前に話しかけるな……命が惜しければな……」
かなめが脇のホルスターに手をやりながら即座に遮った。
「西園寺さんはそう言いながら結局は撃たないんでしょ?こけおどしも何回も同じ相手にやってたら意味が無いですよ」
さすがにこれまで何度となくこのようなかなめのセリフを聞かされると誠にも慣れが生まれてきていた。
「仕事のことしか頭にねえ常識人は黙って酒と焼鳥食って帰ればいいんだ。ああ、パーラはサラと島田の運転手だから飲めねえのか。じゃあ、焼鳥だけ食って黙ってろ。それと飲みの席で戦術を語るな。代わりに語れ、恋バナを……ああ、そんなのできるのうちじゃあサラぐらいなものだから……サラ、島田。話せ。あと、パーラ。貴様の願望を一言でも口にしたらその場で射殺するから覚悟をしておけよ」
かなめは命令口調で島田とささやきあっているサラに向けてそう叫んだ。かなめに銃で脅されたパーラは完全につまはじきモードでうつむいたままほぼ涙目でねぎをゆっくりと噛みしめながら呆然とした視線を店内にさまよわせていた。
そんなパーラの悲しそうな顔を見るたびに誠の心に見てはいけないものを見るような罪悪感が、ビールの苦さにうっすら混じった。
「それはもっと企業秘密です!」
と、なぜかサラが一番大きな声で返した。
カウラは静かに盛り合わせを崩し、皮だけ器用に避けて誠の皿へ運ぶ。
「脂は男子に回せ。……神前、さっきの『床の流れ』の読み、良かったぞ」
カウラの褒め言葉は短い方が刺さる。胸の奥が、少しだけ熱くなる。
春子が、そっと冷やしトマトを置いた。
「いつもごひいきにしていただいているサービスね。この頃、暑いから……ちょっと用意してみたのよ」
色気のある声で春子がそっと|囁《ささや》く。小夏が、伝票の端に小さく『西園寺=レモン×1/3』と計算メモが春子の手元に見えた。今日はまだ三分の一しか空いてないらしい。まだだ。
店の扇風機が風向きを変え、提灯の切れた紐がまた揺れた。
アメリアがビールのジョッキを何度もテーブルに意味もなくたたきつけた。
「ねえ、誠ちゃん。暇って、いいことなんだよ。暇ってことは、誰も死んでないってことだから。私はね、暇な日に乾杯できる職場が、一番好きだわ……まあ、そのぶん、動くときはシャレにならないことになると思うけどね」
糸目の奥が、やわらかい光になる。
「でもまあ、そのうち来るけどね。『本当の仕事』。その時は、今日の汗が、ちょっとだけ効くことになるかもね」
誠は、レバーを一つ、覚悟して口に運んだ。鉄の味が口の中に広がる。
模擬戦の仮想汗と、今の現実の汗が、喉の奥で交ざった。
『暇は、たしかに、いい。けれど同時に、僕の足は、いつでも踏み込める位置に置いておきたい。……少なくとも、二週間前の僕よりは、ちょっとだけマシな位置に』
ビールを飲むジョッキを手に誠はそんなことを考えていた。
グラスを置く音が、微妙に前のめりになる。
七人分の皿がほぼ空になったころ、外は群青。ビルの向こうの空の色が、夜に移る手前の一番いい時間だった。
ガラス戸の向こうで、提灯の切れた紐だけが、まだ風に揺れていた。
誠の端末が一度だけ震えたが、通知はすぐに消えた。