橋本直 / 第107話
第102話 冷たい誘導
カーンに完膚なきまでに言葉で叩きのめされた近藤の胸裏には、そのあまりの格の違いゆえに逆にいつもの苛立ちが戻る。彼は現在の甲武軍主流から外れている自覚がある。貧しい下級士族の家系に生まれた彼には、昨今の『軍の民主化』の空気を、どうしても飲み込めないでいた。西園寺義基内閣の宥和と軍縮、そしてその自ら武器を置いて見せるというパフォーマンスを示すことでの同盟内での発言力拡大を狙う西園寺義基と、軍備拡張こそが国際発言権を得る唯一の手段だと考える近藤とでは、理解し合えるはずもなかった。
軍では西園寺内閣の影響力が強い海軍においてはより有能だという理由だけで本来名字を名乗ることすら許されない平民出身の士官達が近藤達『サムライ』の軍人達に笑いながら話しかけてくる。そして、今も巨大な富で自分の地位を認めさせた平民の本間家出身の艦隊司令の部下と言う地位に自分は置かれている。そのようなあるべきではない伝統を破壊するような行為が平然と行われている現状に近藤は自分こそが最後に残った『サムライ』としてこの現状を許すことが出来なかった。
甲武の独立を支えてきた軍において数々の勲功を立てた『サムライ』を斬り捨てて、口先だけの平民出身の士官を次から次へと昇進させている軍内部の潮流の先に近藤が見たのは軍そのものの弱体化以外には考えられなかった。そうして誇るべき甲武の軍が先細りになっていく様を『第二次遼州大戦』での敗戦に次ぐ二度目の敗戦と断じながら軍を追われて去っていく同志たちの背中を見送りながら、彼は危機感で身を固くしてきた。
そして、彼らが頼ったのが『危険人物』ルドルフ・カーンだった。ゲルパルトの亡命者にして、『アーリア人の人種的優越』の名のもとに民族秩序再興を掲げる闘士と呼ばれる男。カーンが近藤に投げた最初の宿題は……『売国』の『民派』の首魁、西園寺義基の義弟、嵯峨惟基が率いる『特殊な部隊』の新入隊員『神前誠』の能力調査だった。
近藤にはそんな無名で、戦いから逃げることしか能のない若い遼州人に興味はない。近藤にとって重要なのは国家であり組織であり、名もなき駒は数字だ。そしてそれが守るべき言葉はただ一つ『伝統』である。それを失えばたとえ同じ人間が住んでいる国であったとしてもそれは甲武ではなく別の国だと近藤は考えていた。そんな近藤に対して、なぜカーンがその青年の調査を依頼してきたのかを理解できなかったし、そもそも嵯峨と言う官位だけが自慢でそのおかげで軍内部で陸軍憲兵少将までの階位に上り詰めた『軟弱な公家』出身の軍人にそこに固執するのか……近藤にはその意味が読み切れていなかった。
今こうしてカーンの語る言葉を聞いても近藤には嵯峨に対して持っていたイメージは変わることは無かった。むしろその先入観は正しかったのだと感じていた。嵯峨はまさに名門の公家の当主でありながら平民が力を持ちつつある時代の趨勢を利用して軍や政界での権限を拡大することだけを狙う巨大な倒すべき敵であることだけは近藤には理解できた。
その敵をいかに倒すか……近藤の思考は今その一点に集中しているところだった。
だが、そんな近藤に対して、カーンは満足はしていないらしいことは理解していた。カーンはその近藤よりも嵯峨を評価しているのは紛れもない事実だった。そして近藤には何の関心も持てなかった報告書作成の任務が自分の能力を値踏みする『テスト』であったのだと理解してようやく胸の奥の泡立つ怒りを整え、言葉を選んで吐き出す。
「やはり、この報告書に不手際があったとは到底思えません!私の同志達は十分直接その『足』で対象の青年の行動を追い、その生い立ちまで調べ上げてこの報告書を作り上げたのです!あの青年がいかに凡庸か!私も尾行した同志の目に映ったあまりに凡庸な様子が気になって尾行担当者と通信でその様子を確かめましたが、同志もなぜこのような典型的な東和共和国の軟弱な遼州人に閣下が興味を示したのかと逆に問い詰められたほどです!そんな志に目覚めた同志達の目を節穴だと言いたいのですか!彼等は全て戦いから逃げず、死ぬことすらいとわぬ真の『サムライ』です!時代に流されてちやほやされるだけでいざとなれば何の役にも立たない『平民』出身者など一人もいないのです!確かに我々の電子戦能力が嵯峨のそれより劣るのは事実だとしても金で魂を売る『ハッカー共』が情報改ざんを行っていないことの裏を取るくらいのことはまさに閣下のおっしゃった『足』で確証が取れています。ですので……」
カーンは近藤の怒りを否定しなかった。むしろ、丁寧に研ぎ、刃の向きを嵯峨惟基へ向けていた。
「ちがう!ちがう!君は本当に私の話を聞いていたのかね?それとも理解できないほど馬鹿なのかね?いいや、どちらでもないね、私は何度でも指摘するよ。君は彼等の報告書にある不都合な事実を理解したくないだけなんだ。その方便として『伝統』や『サムライ』と言う身分を利用しているだけだ!君にはそれが自分の限界だと悟ってそれを捨て去る必要がある!嵯峨君は甲武四大公家末席と言う公家の名門の地位を捨てた発想で常に行動を行っている!それと同じことが何で君には出来ないのかね!そんなに『サムライ』に生れたことは偏狭な目の前の否定しがたい事実さえ認められない馬鹿を生み出すということを君は証明しているのかね!」
初めて、カーンの声がわずかに跳ねた。青い瞳に侮蔑が薄く差す。交響曲はちょうど切り上がり、余韻の静寂が室内の輪郭をくっきり浮かべる。
「君は本当に海軍兵学校を卒業したのかね?神前誠という青年に、地球圏の金豚どもが注目している。まずその事実がある。君が彼を凡庸と呼ぶなら、君はその事実を説明しなければならない。できないなら、凡庸なのは彼ではない。君の観察眼だ」
カーンの言葉は何処までも冷たく、そして軽蔑に満ちていた。
「閣下とはいえその言葉には異論があります!閣下の望む結論と私の報告書の内容が違うから気に入らないということならば素直にそうおっしゃっていただければ再度調査するまでのことですが……その必要はありません!閣下が望む遼州人に地球人にない力がある確たる証拠を得ろという話ですが……そんなものはそもそも存在しないのです!存在しないものを報告書に書けというのですか?そうすれば閣下は満足だと?私にはそんなことができません!遼州人が持つ独自の力の存在など単なるおとぎ話です!」
短い反駁。だが声は硬く、汗がこめかみを伝う。
反論しているつもりだった。だが、気づけば自分はカーンが用意した問いに、用意された順番で答えているだけだった。
「君がそういうことにしたいのなら、ひとまずそう扱っておこう。私から言わせると君の報告書の内容が真実ならばこの未開野蛮な遼州人が中心となって行われた遼州独立戦争で遼州圏が地球から独立できたのもおとぎ話だったという話になる。確かにそのような『力』など我々の科学力では解明出来ないのは事実だからね。しかし、その力が意図的に……多くの『敵』達によって隠されていると考えたら……どうだね?分かりやすく言えば『公然の秘密』としてアメリカに代表される地球圏の国々や東和共和国、遼帝国の二つの遼州人の国。そして第二次遼州大戦で我々の敵だった遼州圏の国々。彼等にとっては『法術師』の存在は『公然の秘密』なんだと私は思っている……君がどう考えようとこの際関係はない。『公然の秘密』を共有できる立場に私は居て、君はその立場にいなかったし、今でもその立場にない。それだけの話だ」
グラスがコースターに音もなく戻る。カーンは背筋を起こし、氷のような視線の刃先を近藤に合わせた。
「それでは『公然の秘密』の存在を耳にした君にも少しはこの秘密についてのヒントをあげよう。今度あの『特殊な部隊』に入った神前誠少尉候補生。彼の出自に不自然なことは書類上無い。あえて言えばとてつもなく『乗り物酔い』がひどいことぐらいだ。だが、そもそもこんなに不自然なことが無い人物をなぜ嵯峨君が選んだのか?そう考えてみたことは無いのかね?先ほど嵯峨という男がどういう男なのかは私は説明した。そしてその男がその経歴から考えると不自然極まりない奇妙な人物をその部下としてかなりの無茶をして手に入れた……これは紛れもない事実なんだよ。そこにもし君が疑問を今でも感じていないとしたら……君には死ぬまで『公然の秘密』を共有できる人物になる資格はないということだ」
指先がテーブルの縁を一度だけ叩く。そこで言葉の刃が切り替わる。
「嵯峨惟基……甲武国陸軍大学校で卒業証書を破り捨てて、『全権督戦隊長』以外の任官を拒否する!と大演説をぶった男だ。正規の軍人なら一生口にしないような任官希望だ。だからこそ、陸軍はその演説をなかったことにしようとした。そもそもそんなことを晴れの舞台で平然と口にできる男。私なら最前線において活躍する彼の背中を想像して感動に打ち震えるだろうが、当時の甲武の陸軍の高官にはそのような人を見る目を持つ人間は居なかったようだ。甲武の『サムライ』達に共通するのは人物を見る目の欠如だ。だから常に『サムライ』は『サムライ』同士の戦いに勝つことは出来てもそれ以外の存在に勝つことはできないんだよ。思いもかけない発想の敵に勝つには思いもかけない発想が出来る人物を登用することでしか不可能だ。そして甲武にはそれが出来る人物はいない。ただそれだけのことだ。まあ、良い。そんな思いもかけない発想ができる男がなぜこの青年を選んだのか?なぜこの青年でなければならなかったのか?そう言う素朴な疑問からすべての大きな疑問は解きほどくべきだと私は考えるがどうだろうか?」
海軍にいた近藤の耳には、そんな破天荒な卒業式の噂など届いていなかった。陸軍の体面主義なら隠しもするだろう、と同時に、カーンの口ぶりがそれを『伝説』で終わらせない重みを与える。
「……その話、本当なんですか?あの伝統を重んずる陸軍でそんな暴挙を……嘘に決まっていますね。そのようなことを許す陸軍ではない……そんな馬鹿なことが……あり得ない……」
否定しなければならなかった。事実かどうかではない。それを認めた瞬間、自分が見下してきた『軟弱な公家』の像が崩れてしまう。
そんなすがるような近藤の問いは空気に吸われ、カーンは答えず、ブランデーを飲み干す。氷の音だけが肯定とも否定ともつかない。この部屋を支配者として染め上げているのはこの艦隊の責任者である自分ではなくあくまでカーンなのだとその音で近藤は思い知らされた。