橋本直 / 第106話

第101話 駒に与える盤面

 貴賓室の空気は低めに冷やされ、革張りの椅子に沈む体温をゆっくり吸っていく。艦内時計の針は静かに進み、壁面の防振材が機関の微振動を柔らかな呼吸に変えていた。窓の外……古戦域のデブリ帯では、砲塔の抜け殻や歪んだ外殻が緩やかに自転し、航法灯の点滅が銀の反射を室内に散らす。スピーカーからは交響曲の終盤、金管が天蓋を押し上げる。  ルドルフ・カーンは、ブランデーの|脚《すてむ》を二本指で軽く転がし、琥珀色の液面に揺れる微小な輪を見ていた。香りにほんの少しの樹脂と煙草の残り香。青い瞳は、長い年月で研磨された鉱物の光をしている。  対面で身じろぎもせず反論の機会をうかがっていた近藤に、カーンは一度だけ微笑を投げた。その笑みは情けではなく、分類の印だった。 「私が命がけのカードゲームをしている相手は、地球圏の指導者たちではない。彼らは経済指標と機械の予測に魂を預けた管理人にすぎない。私が相手にしたいのは、嵯峨惟基という存在だ。あれは地球人ではない。だが、少なくとも自分の目で現実を見る。都合の悪い事実を、見なかったことにしない。その一点だけで、彼は君よりはるかに戦争に向いている」  そんなカーンの嵯峨評に近藤は少し眉をひそめた。近藤に言わせれば何も戦果を挙げていないのに甲武陸軍憲兵少将という地位まで上り詰めたと伝えられる嵯峨のどこにカーンをしてこれほどまでに嵯峨を高く評価させているのか理解できなかった。 「その顔を見ると私の嵯峨君に対する評価と君の嵯峨君に対する評価にはかなりの断絶があるようだね。どうやら君はあの男を『軟弱な四大公家末席当主の公家』としてしか見ていない上に、その男がこれまで何をしてきたどういう男でどんな男かを『サムライ』の役にも立たないプライドがもたらす先入観で見ようともしなかったようだ。それが君達『サムライ』にとって認めるにはあまりに都合が悪い現実だから見ることができる機会があっても忘却した……いや、そもそも君は見ようともしなかったのかな?それが君達『サムライ』の限界……滅ぶべき階級には滅ぶべき原因がある。それは歴史が教えているよ」  カーンの目に浮かぶ自分たち士族を見下すような色を見て近藤は右手を思い切り握りしめた。 「君は怒りの感情に囚われているようだね。私はただありのままの現象を述べているだけだよ。君達『サムライ』以前にも滅ぶべくして滅んでいった階級は存在するんだ。地球圏の堕落した『労働者階級』が滅んで国家に寄生するタダの『数字』に成り果てたのは彼らに『強烈なる自らへの信頼』というものが無かったからだ。外部から与えられる情報を無条件で信じる人間を使用するよりもAIを使用して同じことをさせた方が遥かに効率がいいのは誰が見ても分かる話だよ。だから彼等は全ての生産手段から切り離されてそれまで約束されていた搾取のシステムからも落ちこぼれて社会の寄生虫に成り下がった」  国家社会主義を国家の指針として掲げていた『ゲルパルト第四帝国』は労働者の支配する白色革命を目指すというヒトラーの思想をそのままに体現した国だった。完全雇用を実現することがすべてに優先し、それを阻害するようなAIやその体制を批判する人間の生存を一切許さないことで400年近い歴史を紡ぎ続け、それを不都合に感じていた地球圏に20年前に第二次遼州大戦で滅ぼされた。それが近藤のカーンの母国であるゲルパルトに関する認識だった。 「労働者自らがその体制を積極的に誇りに思って自ら立ち上がり、自らの『生産をしている』そして『それを阻害する要素に断固として抵抗する』と言う強靭な意志があれば地球圏の『市民』と呼ばれる堕落したシオニストの『超富裕層』の権威の源泉に過ぎない『票』だけの為に生存を許される存在へと変化する堕落は起きなかった。私は国家社会主義者だ。国家を支える『民族の意思』に支えられた労働者はAIでは交換不可能な存在だ。AIは決して労働者の代替者足り得ない。そこには『労働に対する意思』への熱狂も、『自らの所属意識』に対する誇りも無い。機械はいくら時代が進んでも人の心と似たものにしか進化しなかった。機械は良きものではないからね。その点では君達滅ぶべき階級である『サムライ』も機械と取り換えることはできない存在と言えるね。ただ……それが滅びを必然としていると言うことでは地球圏の『労働者階級』と何ら違いは無いと言えるが」  カーンの思想の根幹にある労働者への絶対的信頼に近藤は違和感を感じた。労働は士族に支配されるべき平民が行う卑しい行為と言うのが近藤の労働者観だった。自分たち士族はその生存を守るために戦う階層である。自分達の存在無くしてはそもそも労働者は生存自体が許されないのがこの宇宙の摂理だと近藤は考えていたが、この第二次遼州大戦の同盟国の思想を体現した老人の言葉はそんな近藤の思想とは相いれないものに近藤には思えた。 「AIは労働者の真の代わりにはならない。その事実は現在も限りない『自由と資本主義』をその目指すべきあるべき世界と考えている地球圏を支配しているユダヤ思想に染まり切った『超富裕層』でさえ、軍の幹部と高級官僚の地位を人間に任せてAIに手を触れさせていないことが何よりの証拠だよ。AIは機械だ。だから、機械には心は決して生まれることが無い。私の求める労働者の国家への忠誠心と言う国家社会主義の理念の根幹をAIには情熱を宿すことができないんだ。その点では伝統の名のもとにAIに関して不信の念を持って来た君達甲武国の指導者たちと共通項が多いと言えるかもしれない」  そこまで言うとカーンは自分自身の言葉を聞く相手がいる今の状況を楽しんでいるかのようにブランデーのグラスを傾けた。 「ただ、君達『サムライ』はかつて滅んだ地球の『労働者階級』と同じく権利の上に眠っているように私には見えるんだ。それはただの甘えだ。君達は伝統の上で甘えているだけだ。地球の『労働者階級』もその甘えによって滅んだ……私が君達『サムライ』を見捨てずにこうしてここにいることに感謝してもらいたいものだね」  そこまで言うとカーンは静かに近藤から視線を離しブランデーグラスに目を向けた。まるで、近藤が『みるに堪えない醜い調度品』にしか過ぎないと言っているようなカーンの態度が近藤の心にいら立ちを沸き上がらせる。 「少しでも陸軍に奉職する友人に嵯峨と言う興味深い異星人についての噂を聞いてみたことがあるのかね?その顔はそのようなことはしたことが無いみたいだね。陸軍の人間ならあの男が何者か雄弁興味深い異星人についての噂に語るかもしれない。それともあの男の本当の恐ろしさを知っていて黙り込むかもしれない。そんな二つの愉快な経験をする事が出来るのだが、君達も今の西園寺内閣では軍縮に次ぐ軍縮で社会から見捨てられた存在に落ちぶれつつある……自らに信頼を持てない階級が衰退し死滅するのは自然の摂理だよ。認めたまえ」  カーンはそう言うと柔和な微笑みを浮かべてグラスを波打つブランデーの表面を見つめていた。 「そんな陸軍では『人斬り新三』と呼ばれるあの男のカードは私には『だいたい』分かっている。なかなか強力な手札をそろえているよ……相手が嵯峨惟基なら、こちらも相応の札を切らねば失礼だ。それくらいのカードをそろえてもらわないと面白くない。まあ、あの男ならそれは全部ブラフで実はまるっきり役ができていないことも考えられるがね。もしあの男の手持ちのカードがあの男が私に暗示して見せた通りの物ならばこちらも手持ちの札を数えなおして、次に切るカードを選択する。カードゲームの基本だよ……そして情報収集もまた然りだ」  笑みが消える。眉間の皺が細く深く寄る。 「君のような『典型的なサムライ出身のまともな海軍軍人』は知らないだろうし、興味もない話かもしれないが、あの男はかつて『軍治安機関』にいたと言う『噂』がある。ああ、まああの男は今でも甲武陸軍に籍を置いているのだから第二次遼州大戦で自分がどんな蛮行を行ったかと責任問題になりかねない事ばかりだから伏せておきたいから、自分を君のような『サムライ』が『軟弱な公家』と決めつけていてくれると都合が良いんだろうね……たぶんここで君は『サムライ』の誇りに賭けて何かを言いたいんじゃないかな?て、ここで君は『サムライ』として反論したくなる頃だろう。許可しよう。言ってみたまえ」  まるで近藤が知らない事実を初めて知って驚く様を楽しむような嬉しそうな口調でカーンはそう切り出した。 「そんなはずがありません!あの男は戦争を嫌って逃げた典型的な『公家』です!あの男が危険だなどとは私には到底思えません!」  近藤に今言えることはそれだけだった。軍事は士族の専権事項のはずである。確かに嵯峨のように殿上貴族出身の軍人も少なからずいるのは事実だったが、多くは武家貴族の出身者ばかりで『公家』の軍人で近藤が知るそれなりの戦果を挙げた『公家』出身の軍人と言えば地球降下作戦においてアフリカ戦線で激闘を演じた醍醐文隆中将以外に知らなかった。 「ほう、それじゃあ君は完全に嵯峨と言う男の策にはまった間抜けだと言うわけか。嵯峨惟基と言う男はそんな危険な男なんだが、敵とみなす相手の素性に興味を持たない君のような『サムライ』であること以外に何のとりえもない戦場を知らない海軍軍人に話してくれるとは思えないがね。あの男は甲武陸軍が行った悪夢に近い任務を平然とこなして眉一つ動かさないような男だ。そもそもあの大戦時の記録が『まるっきり残っていない』時点でなぜ君があの男に興味を無くすのかな?おかしなことだと思わないのかな?『記録が無い』ということは『誰かが隠す必要があるから消した』と考えるのはごく普通の知能の持主なら当然の思考だと思うのだが……そんな秘密の任務と言えば『治安機関指揮官』や『諜報機関での国際法に違反する行為』などであるという結論も自明の理だと思うのだがね……どうだろう?これは子供向けの推理小説並みの単純な推理だと私には思えるのだけど違うのかね?子供レベルの夢の世界を生きている君と違って嵯峨惟基は、自分の理想より先に現実を見る。だから危険なんだ」  近藤の喉が小さく鳴る。嵯峨は『甲武国四大公家当主』の『殿上貴族』だからこそ最前線を避けてきた……所詮、自分のように国を守る強固な意志を持つような強固な意志を植え付けるための教育を受けた『サムライ』から軍人となったのではなく、『軟弱な公家』が決められた高級官僚や政治家になるというお決まりのコースが気に入らなくて気まぐれで軍に入ってみたという程度の変わり者。そう信じたがっていた自分の前提が音もなく崩れていく。 「あの男が『諜報機関勤務』の経験があるのなら、当然、手の届く範囲内の諜報機関とは協力関係を築こうとする……それも当然の話に見えるが……君にはそう思えないという顔をしているね?ただ、それはあまりに自然で当たり前の話のように私には見えるよ。むしろそうしないと考えるのは楽観主義に汚染された無能の考えだ。あの男が東和共和国の公安当局の電子戦のプロと手を結んでいるのなら、君も多少の出費を惜しまずに直接『足』で情報を稼ぐようなことも考えたらどうかね?確かに電子戦によるネットワークの掌握はコストパフォーマンスが高いのが特徴だが、実際に『足』で確たる証拠を掴んで事実をその目で見て報告書を仕上げた方が私が読む価値のある報告書が出来上がる。これはいくらネットワークが発展した時代になっても変わらない真理だよ」  まるで自分を馬鹿にするように語るカーンに近藤は怒りをこらえることに必死だった。ただ、この老人の指摘はすべて事実の裏付けがあって語られていることを感じられないほどに自分が無能でないことが今の近藤には逆に辛過ぎた。 「どうやら私の言いたいことの半分くらいは理解しているような顔をしているね。それなら結構。では続けよう。特にAIにちょっとした指示を書き込むだけでいくらでも情報を捏造できる時代にあってはその『足』で稼いだ情報にこそ価値があると思って私は君達、甲武国のネットワークやコンピュータシステムに信頼を置かないところに期待していたのだけれどね。私が君に期待していたのはそんな報告書なんだよ。君の独自に集めた資金はそれには十分耐えうると思うんだが……政治工作だけが資金の使い道では無いよ」  カーンはグラスを軽く傾け、氷の当たる微かな音を楽しむ。ブランデーの縁を唇に触れさせる長さは正確で、習慣の寸分の狂いもない。 「近藤君。私は君をもう、勝負の盤面に残る駒とは見ていない。だが、使い捨てる駒にも、役目を果たす前に最低限の盤面くらいは見せておくべきだ。これは慈悲ではない。無駄を減らすための作法だよ」  どこまでも冷酷なカーンの最後通告に近藤は言葉を失っていった。
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