橋本直 / 第89話

第84話 内偵者の帰還

 嵯峨に声を掛けられた若い店員の頬に緊張の色があることを、嵯峨は決して見落とさなかった。 「アンちゃんよう!俺みたいに店の悪口ばかり口にする怪しい人物が来たら案内する方の『本当のオーナー』、今日来てんだろ?そいつのとこまで連れてってくんねえか?手間だろうが頼むよ!」  嵯峨は満面の笑みを浮かべながらそう言った。  アンちゃんと呼ばれた店員は初老の店長らしき人物に目配せをした後、両手をズボンのポケットに突っ込んで挑発的な視線を送っている嵯峨に歩み寄ってきた。 「お客様、店内であまり大声を出されても……。こちらになりますので」  店員はあくまで平静を装ってそう言った。  その店員が自分で出てきたことに満足したように嵯峨はうなずいていた。 「ああ、この店の迷惑になるってこと?俺は貧乏人でね。金持ちが嫌いだから嫌味のつもりで知っててやってんだ。ここの商品一つ売れれば俺の驚くような金がこの店に入るように出来てるんでしょ?俺は月3万円の生活費で生きてるの。こんな馬鹿なことでも言わなきゃ俺には興味がまるで無い贅沢品の群れの前じゃあやっていけないよ」  嫌味たっぷりにそう言うと、業務用通路へ向かうアンちゃんの後ろについて嵯峨は歩いていった。  彼に従って従業員出入り口からビルの奥へと進む。そしてそのまま人気の無いエレベータルームにたどり着いた。  二人きりになったとたん、店員の表情は、敵意に満ちたものから穏やかなものへと変わった。  嵯峨は、男の作った接客用の笑顔が剥がれる瞬間を見ていた。あれは任務が終わった顔だ。昔、自分も似た顔をしていた。  嵯峨はそれを確認すると静かに店員の肩を叩いた。 「ずいぶん長い『|内偵《ないてい》』になったね……すまなかった。よく戻ってきたな。神前の『力』のおかげでようやく連中も尻尾を出しやがった。今まで泳がされていたことを知らない間抜け野郎が俺の撒いた餌にはのこのこ食いつく……わざわざ同盟機構の下部組織である俺達の手を借りなきゃいけないなんて東都警察は無能だな。俺が東和共和国警視庁の警視総監をやれば、イタリアンマフィアだけじゃ無くチャイニーズやロシアやコロンビアの連中もすぐに一網打尽にしてやる自信が出てきたよ。連中が主な収入源としているこの国の指定暴力団に卸してる違法薬物を運ぶための基本的資本がこういう店から稼がれてるのも見抜けないなんて東和のお巡りさんは全員馬鹿なんじゃないの?」  嵯峨はエレベータを待つ間、降りて来るランプを見ながらひとりごとのようにそう言った。 「違法薬物だけで組織を支える馬鹿はいねえよ。摘発一つで屋台骨が折れるようじゃ、マフィアなんて商売は続かねえ。だから表の金がいる。宝石、ブランド、飲食、金融……綺麗な看板ほど、裏の血を隠すには都合がいい。もしその薬物を運ぼうとする港に検疫に優秀な人材がたまたまいたり、運び屋が無能だったりして摘発が立て続けにあったら組織が成り立たないようじゃマフィアの人達だって困るじゃないの。だからどんな組織でもいつでもそちらの稼ぎのための資金供給が出来る状況を維持できるだけの安定した収入源を連中も必ず持ってるもんだ。そんなの常識だと思うけど……東和のお巡りさんは、違法薬物だけ見てりゃ組織を潰せると思ってる。だからいつまで経っても本丸に辿り着けないのかね?」  そんな独り言の間にエレベータは嵯峨達の居る階に到着し店構えと比べてあまりに古びて汚らしい業務用エレベータの錆びた扉が開いた。 「今回、神前の野郎を|囮《おとり》に使った件では俺が情報をリークした段階でここに踏み込む口実が出来たと喜び勇んで東和警察の連中も独自に動き始めたみたいだ。でも、遅かったな。東和警察の連中も自分達が思ったより早く俺が撒いた神前の身元にここの親分さんが食いつくとは思ってなかったのかな?違法薬物なんて見つかって当然のものを下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるとばかりにうんざりするほど税関に運び込んで摘発リスクは覚悟で稼いでる連中だよ?そのぐらいの動きが出来なくてそんなもので金を稼ごうなんて思いつかないよ。まあ、そこまで読んでこうしてのこのこ俺がここにいる……俺のこれからやるあからさまな東和警察に対する越権行為を知ったらさぞご立腹だろうが……うちも隊員が一人危ない目に遭わされたんだ。それなりのけじめをつけないと俺に人の上に立つ立場って奴があってね」  若い店員の目に急に嵯峨に対する敬意の色を帯びた。二人が乗り込んだエレベータの扉が静かに締まり、そのまま最上階へと向かう。 「少将。自分はこういうことは慣れていますから。それにいくら囮にしても『部下の事は決して見捨てない』と言う少将の哲学は良く存じ上げております。そのことを知っているからこそ我等内偵者は閣下についていくんです。神前とかいう新人も無事だったそうじゃないですか。いわゆる我々の世界に入るための通過儀礼だと思えば当然のことでしょう。それとこの組織が東都警察や東和厚生省の麻薬対策室にも掴ませていなかった薬物ルートについてはすべて私が掴んで先ほど東都警察と薬物対策課に連絡しておきました。それで少将の無茶についても彼等も目をつぶってくれるでしょう」  『内偵』任務の仕上げに入った男はそう言って嵯峨に口元を緩めて見せた。 「ありがとうね、出来る部下を持つと幸せだよ。だけど、俺は褒められるのは苦手でね。嫌われてあらゆる人に悪口を言われどおしで生きてきたから……褒められるより、悪口を言われてる方が俺にはしっくりくるんだ。お前さんにも『遅いんだよ!『駄目人間』!』とこういう場面で叫ぶ今の俺の『特殊な部隊』のちっちゃな副隊長のかわいい顔を見せてやりたくなったよ」  嵯峨は鼻で笑ってみせたが、その横顔には、わずかに気恥ずかしさの色もあった。見た目がふざけているほど若い嵯峨よりは年上の三十代に見える男は、背広から小型拳銃を取り出す。  この店の本当のオーナーの信頼を勝ち取るべく長い内偵を続けてきた任務からようやく解放されることに安堵した表情が彼には浮かんでいた。 「甲武の国家憲兵隊はどうか知らないけど俺の指揮下の甲武国陸軍憲兵隊では俺はそういう時は『内偵担当者』に敬意を表して直接出向く方針を貫いてるの。俺も前の戦争の初期は内偵任務とか押し付けられたが、アレは疲れるものだからそのことを知ってる俺なりの気遣いって奴。現場を知ってる人間なら当然のことだよ。捨て駒として使い潰される辛さは俺自身が良く分かってるからさ。まあ、今は自分だけが被害者だとしか思えない神前の野郎には理解できないかもしれないけど……まあ若い奴なんてのはみんなそんなもんだよね。若いってのはいいことだが、目の前の事実しか見えてないって言うことに気付かない。年を取れば……嫌でもその背後に何があるか気付くようになる。まあ、年を食ってもその世の中の摂理に気付かない奴はただの馬鹿だ」  エレベーターは二十五階の最上階へと上昇し続けた。 「その『内偵』経験者としては、お前さんみたいな奴の気持ちはわかるんだ。これまでの偽りの自分を捨ててようやく自分に戻れるってのは良いもんだ。まるで生まれ変わった気分と言うのはああいう体験を言うんだろうね。まあ、俺は戦争の最中だったからそんな羽を伸ばす経験はしたことが無いが、戦後に同じように内偵仕事を終えた部下の顔を見ればその事だけは理解できたね。あとの詰めは俺がやる。安心しな」  小型拳銃を手にした男は、嵯峨の指示を待つように周囲を警戒した後、安堵の笑みを浮かべながら静かな調子で語り始めた。 「お気遣いありがとうございます。そのターゲットの『皆殺しのカルヴィーノ』は、最上階の専用の私室に入ったまま動く様子はありません。見込みどおりあの男が外惑星連邦の外務省のエージェントと接触しているのは私も知らされています。恐らくターゲットの身柄を他の組織より先に抑えたということで前祝でもしている最中でしょう」  嵯峨は手を上げて若い男の言葉を制した。 「ああ、そいつはダミーだよ。何しろ今回の一件は俺の方から積極的に仕掛けてるんだ。それに『皆殺しのカルヴィーノ』を東和支部のボスに任命した地球圏・イタリア共和国パレルモ在住の旦那衆も馬鹿じゃねえよ。神前の『素質』の売り手はいくらでもあることくらい、ちょっと頭の回る人間ならすぐわかることさ。要するに、カルヴィーノの野郎もあっちこっちに連絡をして『誰がどこまで本気で神前を欲しがっているか』を炙り出すテスト中ってわけ。外惑星の工作員との交渉もそんな中の一つだよ。うちの技術部の『ホスト上がりのネットマニア将校たち』が漁っただけでも、地球圏の『某政府』はその倍の値段を出してたぜ。奴は連絡が一軒あった程度で小躍りして喜ぶようなおめでたい奴じゃないよ。それだけにこちらもそれなりの礼をしてやらなきゃならねえな……たぶんこれからすぐに殺生をすることになるな……ランじゃないが心が痛むもんだ」  エレベータは業務用らしくゆっくりと最上階に昇っていく。 「じゃあ少将のブラフに乗ってマフィアに火をつけたのは……」  若い男は再び背広の中に手を入れて小型拳銃を取り出した。 「奴等も慈善事業で神前を拉致したわけじゃないだろうから誰かが最初にその情報を奴に教えてそれなりの条件を提示したんだろうが……誰が本当に直接マフィアに火をつけたのか。その条件まで俺が知ってればこんな俺の嫌いな街に俺は出てきたりしないよ。ただ俺が囮に使ったとはいえ、かわいい部下を拉致られた『特殊な部隊』の隊長としては、ここで1つの『けじめ』って奴をつけなきゃなんないな。安心しな、すでにお前さんの家族は、俺の知り合いが『甲武国』の『俺所有の直轄コロニー』へご同道している最中だ。まあこの一件の片がつくまで家族水入らずで過ごすのも悪くないだろ?内偵中はそれこそ休みも無かったんだ。バカンスとしゃれこむのも悪くない。まあ、甲武の狭苦しいコロニーと任務とは言え自然の空気があるこの東都の空とどっちが好みかは……お前さん次第だ。もし、この排ガスだらけの銀座の街が好きならば謝っとくよ」  エレベータは時代遅れな速度でようやく目的の階に到着した。 「まあ、その前に少しだけ付き合ってもらおうか。始末はウチでつけるからな。お前さんは安心して家族との穏やかな日々を想像していればいい」  その言葉に安心したのか、男は嵯峨を頑丈な扉で閉ざされた部屋へと導いた。  あの階下の豪勢な雰囲気はそこには無かった。  あるのは奇妙な殺気だけだった。  そして、その空気こそが嵯峨には心地よかった。

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