幻翠仁 / 第3話

第3話 脈の共鳴①

 スタン・カルティエは、思っていたより隙のない男だった。  その男が王都へ戻って二日。カガンは、その結論に辿り着いていた。  正確には、隙そのものがないわけではない。人間である以上、眠りもすれば食事も取る。騎士団本部を出る時間も、王城へ向かう経路も、おおよそ決まっていた。護衛の人数にも波がある。殺すだけなら、不可能ではない。  問題は、そのあとだった。  王都中央区を見下ろす建物の屋根で、カガンは煙突の陰へ身を沈めた。  夕刻。西へ傾いた陽が王城の白璧を赤く染め、その手前に延びる大通りには帰宅を急ぐ人々が溢れている。商店が軒先の品をおいそれと片付け、|辻《つじ》では衛兵が行き交う馬車を|捌《さば》いていた。  その中を、臙脂色の髪が歩いている。  騎士団本部を出たところだった。今日は護衛が四人いる。前に二人、後ろに二人。スタン本人は中央を歩いている。護衛としては教科書通りだ。ただし、本人に守られているという自覚が薄い。道端で声を掛けてきた老人へ足を止める。荷車を押していた商人へ道を譲る。巡回中の騎士を見つければ、向こうが敬礼をするより先に、軽く手を上げて応じていた。  |狙撃《そげき》するなら、今でもいい。  カガンはそう考え、やめた。  距離が遠い。射線も悪い。何より、周囲に人が多すぎる。殺せないわけではない。だが、矢が外れた場合に別の人間へ当たる可能性がある。それは契約に含まれていない。無駄な死人を増やす趣味もない。  カガンは建物の縁へ片膝をついたまま、遠ざかる一団を目で追った。  資料に書かれていた評判は、少なくとも全てが作り話というわけではないらしい。立派な騎士団長。民に慕われる聖騎士。なるほど面倒な標的だった。死んだあと泣く人間が多そうだ、と思う。だが、それだけだ。  スタンたち騎士の姿が大通りの人波へ紛れていくまで見届けてから、カガンはようやく腰を上げた。屋根の上には夕方の熱がまだ薄く残っている。靴底を通して、日に焼かれた瓦の|温《ぬる》さが伝わってくる。遠くでは王城の鐘が鳴り始めている。低く、規則正しい音が街の上を渡り、商人たちはそれを合図に店先の幕を下ろし、代わりに酒場や食堂の灯りが一つずつ灯っていく。  今夜、スタン・カルティエを殺す。  この二日で、必要なものはほとんど見た。  スタンは朝が早い。日の出より前には騎士団本部へ入り、午前中は訓練場か執務室にいる。王城へ呼ばれる日は昼前後に本部を出るが、戻る時間は一定しない。夕刻には一度部下の巡回報告に目を通し、そのあと日が変わる頃まで、執務室に残ることが多い。勤勉で、実に分かりやすい男だった。暗殺を|生業《なりわい》としている者からすれば、ありがたい規則性だ。  夜になれば本部に残る人間は減る。巡回の数そのものは変わらないが、昼間のように廊下を人が絶えず行き交うこともない。しかもスタンの執務室は北棟の三階にあり、外壁には装飾用の石柱が等間隔に突き出している。登れと言っているようなものだった。もちろん、普通の人間にとっては違うのだろう。  カガンは煙突へ手をつき、屋根の反対側へ降りた。  細い路地へ落ちる影が長い。もう少しすれば、その影も街の夜へ溶ける。  宿へ戻る必要はなかった。武器は既に持っている。黒い外套の内側には短剣が三本。腰の後ろには細身の剣。左腕の革帯には投擲用の刃が二枚。弓は邪魔になるので、今日は持ってきていない。  殺し方も決めてある。  窓から入り、喉を切り、外へ逃げる。それだけだ。相手が騎士団長だからといって、わざわざ正面から剣を交える必要はない。腕比べがしたいわけでも、名誉が欲しいわけでもない。死体が一つ出来上がれば仕事は終わる。  カガンは屋根伝いに移動しながら、再び胸へ手をやった。  この二日、それだけが気に掛かっていた。少なくとも昨日までは痛むわけではなかった。異形に会ったわけでもないのに、心臓の奥で、時折何かが脈を打つ。自分の鼓動より僅かに遅れてもう一度。最初は疲れだと思った。次は寝不足。その次は酒場の肉が悪かったせいにした。だが、どうにも妙だった。  スタンを見失うと治まる。  また姿を捉えると、しばらくして始まる。  そこまで考えて、カガンは眉を寄せた。 「フン……馬鹿らしい」  誰に聞かせるでもなく呟く。  人間一人を見ただけで心臓の調子が変わるなど、あるわけがない。呪術を掛けられた覚えもないし、そもそも相手はこちらの存在すら知らない。偶然だ。それ以外に説明がつかない。ならば、考える必要もなかった。  夕陽が屋根の向こうへ沈んでいく。  カガンはそのまま街を離れず、暗くなるのを待った。  夜の王都セレスは、昼とは別の顔を持っている。  王城を中心とする上層区では魔導灯が惜しげもなく灯され、白い石造りの建物が青白い光の中へ浮かび上がる。一方、そこから何本か通りを外れれば、下層区の家々の窓から漏れる橙色の火だけが、足元を照らす。  その明暗の境目に、騎士団本部はあった。  城ではない。だが、それに近い。四方を高い外壁で囲まれ、正門の左右には見張り塔が立っている。内部には訓練場、|厩舎《きゅうしゃ》、武器庫、兵舎があり、その奥に本棟が|聳《そび》えていた。王国最大の武装組織が詰めている場所なのだから、守りが固いのは当然だ。正門から入ろうと考える人間が馬鹿なのであって、建物そのものに隙がないわけではない。  カガンは向かいの官舎の屋根へ腹這いになり、巡回を眺めた。  騎士が二人。北壁沿いを歩いている。角を曲がり、その姿が消える。次が来るまで、およそ一分。昨日と同じだった。  視線を上げる。  北棟三階。右から四つ目の窓に、まだ灯りが残っていた。薄い硝子越しに人影が動いている。机の前を横切り、壁際へ向かい、また戻る。距離があるため顔までは見えないが、背丈と輪郭だけで十分だった。何より、灯りを受けるたびに揺れる長い臙脂色の髪は、夜の中では嫌でも目に入る。  カガンは屋根へ伏せたまま、暫く動かなかった。  標的を見つけたからといって、すぐに動くほど急いてはいない。窓の位置を確認し、その周囲へ視線を滑らせる。二階の回廊には誰もいない。中庭を横切っていた騎士が一人、兵舎へ入っていく。正門側から聞こえていた話し声も遠ざかり、代わりに厩舎の方から馬が鼻を鳴らす音がした。  静かだった。昼間は絶えず人が出入りしていた騎士団本部も、夜になれば眠る。完全ではない。門には騎士が立ち、巡回も続いている。それでも、数百人もの人間が働く場所から音が一つずつ減っていく様子は、巨大な獣がゆっくりと呼吸を落としていくようだった。  カガンは次の巡回を待った。  先ほどと同じ二人が現れる。北壁の角を曲がり、一定の速度でこちらへ近付いてくる。片方が何かを話していた。内容までは聞き取れない。もう片方が笑うと、気の抜けた、仕事の終わりを待っている人間の声が聞こえた。  そのまま通り過ぎる。足音が遠ざかる。角を曲がる。消えた。  カガンは立ち上がった。一分。|十分《じゅうぶん》だった。  官舎の屋根を低く走る。瓦を蹴るたび、乾いた感触が靴底へ返ってくる。端まで残り三歩というところで速度を上げ、そのまま夜の空間へ身体を投げ出した。外套が背後へ大きく膨らむ。騎士団本部の外壁までは届かない。届かせる必要もなかった。壁面から突き出した石像。その肩へ右足を掛ける。ほんの一瞬だけ体重を預け、沈み込んだ膝を伸ばす。身体が再び浮いた。頭上へ手を伸ばし、装飾柱の縁を掴む。指先へ全身の重さが掛かった。  石の粉がパラパラと落ちる。  腕へ力を込め、身体を引き上げた。眼前には騎士団本部を囲む石畳がある。落ちれば、まず助からない高さだった。だから何だということもない。足先で壁の僅かな窪みを探し、身体を支える。右手を離し、次の出っ張りを掴む。今度は左足。急ぐ必要はない。巡回が戻るまでの時間は頭に入っている。  一つ越え、さらに二つ窓を越える。  三階まで上がったところで、カガンは壁へ身体を密着させた。  風が吹いた。白い髪が目に掛かる。片手を離す余裕はない。鬱陶しさを無視して横へ移動する。右から六つ目。五つ目。そして、四つ目。灯りが硝子の向こうから漏れている。窓枠の下へ足を掛け、僅かに顔を上げた。  思っていたより質素な部屋だった。  騎士団長の執務室なのだから、もう少し立派なものを想像していた。だが、置かれているものは大きな机と椅子、壁を埋める書棚、それにイェレミア王国全土を描いた地図くらいなものだった。飾りらしい飾りはほとんどなく、机の端には書類が幾つもの束に分けて積まれている。  その中央に、スタンはいた。  鎧は脱いでいる。白い|上衣《じょうい》の袖を肘まで捲り、机へ片手を付きながら報告書を読んでいた。昼間に見た騎士団長の姿とは随分と印象が違う。肩から鎧の重みが消えただけで、年齢相応の若さが見える。  壁際を見ると、剣があった。鞘に収められ、机から数歩離れた場所へ立て掛けられている。近くはない。窓を開けてからスタンが異変に気付いたとしても剣へ手を伸ばすより、こちらの方が早い。扉の外には、護衛が一人いる。だが喉を裂いてしまえば、声は出ない。長くても一分。それで終わる。  カガンは外套の内側から細身の短剣を抜いた。  刃先を窓枠へ静かに差し込む。硝子を割る必要はない。留め金の構造は昼間に隣の建物から確認している。内側へ倒すだけの単純なものだ。細い刃を隙間へ通し、少しずつ持ち上げればいい。  力を込める。金具が僅かに動いた。音はない。  スタンも気づかない。紙を一枚捲っている。  カガンは短剣の角度を変えた。  そのときだった。どくん、と胸の奥で何かが跳ねた。 「……ッ!」  反射的に息を止める。  指先から力が抜けた。  心臓ではない。  いや、場所は同じだった。だが、自分の心臓が打った直後、半拍ほど遅れて別の何かが胸の内側を叩いた。昨日までにもあった。今夜も、スタンを見張っている間に何度か感じていた。だが、これほど強くはなかった。  カガンは眉を寄せる。  近いからか。そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。  短剣を握り直す。  もう一度、留め金へ力を掛けた。 「……!」  今度は痛みを伴った。  胸骨の裏側から、焼けた|杭《くい》でも打ち込まれたような熱が走る。肺が一瞬だけ縮み、吸い込もうとした空気が喉で止まった。  身体が揺れ、足が窓枠から滑りかける。  カガンは咄嗟に左手へ力を込め、壁へ身体を押し付けた。  短剣の先が金具から外れる。  小さな音を立てて、硝子へ当たった。室内で、紙を捲る音が止まる。  カガンも動きを止める。  数秒の静寂ののち、スタンが顔を上げた。  視線が窓へ向く。カガンは素早く窓の脇へ身を寄せた。石壁へ背を貼り付ける。胸の奥では、まだ妙な脈が残っている。  室内で椅子が引かれる音がした。  床板を踏む。一歩。二歩。こちらへ来る。  カガンは短剣を逆手に持ち替えた。  予定とは違う。だが構わない。  窓が開いた瞬間に腕を取る。引き寄せる。喉を裂く。下へ落としてもいい。三階から頭を下にして落ちれば、聖騎士だろうと無事では済まないだろう。  足音が近づく。あと数歩。カガンは息を殺した。  その瞬間――夜空が、軋んだ。  音、と呼んでいいものなのか分からなかった。  雷鳴のように上から降ってきたわけではない。地鳴りのように足元から響いたわけでもない。もっと巨大な何かが、世界の向こう側で無理やり捻じ曲げられたような、低く重い振動だった。壁が震え、窓硝子が細かく鳴る。  カガンは反射的に壁を掴み直した。  室内でもスタンが足を止めたのが分かった。  次いで、遠くから馬の|嘶《いなな》きが聞こえた。犬が吠える。  大通りの喧騒が、奇妙に薄くなった。  人々が一斉に空を見上げたのだと、見なくても分かった。  カガンも顔を上げる。  夜空に、黒い線が走っていた。王城のさらに上。星々の間を縦に断つようにそれは浮かんでいる。最初は糸ほどの細さだった。雲ではない。煙でもない。ただ、そこだけ夜が深くなっている。やがて線の周囲へ、細い光が走った。黒い稲妻。光っているはずなのに周囲を照らさない。それどころか近くの星の輝きを呑み込みながら、枝分かれした筋が夜空へ伸びていく。  どくん、と胸が鳴った。  カガンの目が僅かに見開かれる。  黒い筋が伸びる。  空に走る光と、胸の奥にある何かが、同じ間隔で脈打っている。 「何だ……」  初めて、偶然という言葉では片付けられなかった。  そのとき、窓が勢いよく開いた。カガンは短剣を構える。だが、スタンは外にいる彼を見なかった。窓から身を乗り出し、空を見上げている。その横顔から血の気が引いた。片手が胸元を掴む。 「……聖痕が……」  掠れた声だった。  カガンは動かなかった。  今なら殺せる。距離は腕一本分もない。こちらには気づいていないどころか喉が完全に晒されている。短剣を横へ引くだけだ。それだけで金貨二十枚――そう思っても、短剣を手にした腕は動こうとしなかった。  空が裂けた。黒い線が、左右へ開く。そこにあるはずの星空が消え、代わりに底の見えない暗闇が覗いた。裂け目の縁を黒い光脈が這い、そのたびに胸の奥が同じ律動で疼く。そして、何かが落ちてきた。最初の一体は、王城前の広場へ。遠くで石畳が砕ける音がした。次は大通り。屋根の高さを越えて落ちた黒い影が、走っていた馬車を真上から押し潰す。木材が弾け、馬の悲鳴と人間の叫びが重なった。さらに一体。もう一体。裂け目の奥から、次々と影が零れ落ちてくる。その形を見間違えるはずがなかった。異形――だが、一度にこれほどの数が現れる光景を、カガンは見たことがない。  騎士団本部の鐘が鳴った。  一度。二度。三度。鋭く、途切れることなく。警鐘だった。 「異形だ!」  建物の中から怒声が響く。 「中央広場に複数!」 「南大通りにも落ちたぞ!」 「各隊を起こせ! 非番も全員だ!」  廊下を駆ける無数の足音が重なる。  ほんの数秒前まで眠りかけていた建物が、一息で戦場の顔へ変わった。  スタンも動いた。窓から離れる。カガンの存在には、結局気づいていない。壁際の剣を掴み、鞘ごと腰へ差す。机に広げていた書類の束に腕が当たり、何枚か床へ散ったが、スタンは見向きもしなかった。扉を開く。 「状況は!」  先ほどまでとは別人のような声が廊下へ響いた。  部下が何か答える。そのまま足音が遠ざかっていった。  カガンは窓の外に張り付いたまま、誰もいなくなった執務室を見つめた。  短剣は、まだ手にある。標的はいない。 「……おい」  低い声が漏れた。  今から殺す予定だった男が、勝手に戦場へ行った。  実に迷惑な話だった。窓枠へ手を掛け、身体を持ち上げる。屋根へ向かおうとして、胸を押さえた。 「ッ……」  痛みが増している。  空の裂け目が脈打つたび、胸の奥を、同じものが叩く。昨日まで感じていた奇妙な鼓動とは比べものにならない。熱が胸から喉元へ這い上がり、呼吸まで浅くなる。  カガンは歯を食い縛った。  帰る。そう判断した。正直言って、仕事どころではない。これだけの異形が出た以上、王都はすぐに封鎖される。門が閉じる前に下層区へ抜け、必要なら城壁を越える。スタンなら後日また殺せばいい。前金は既に受け取っているが期限を指定された覚えはない。命まで契約に含めたつもりもなかった。  カガンは屋根へ身体を引き上げた。  王都を見渡す。街のあちこちで人が走っていた。魔導灯の青白い光の下を住民が逃げ、騎士たちがその流れに逆らって異形の落ちた場所へ向かっていく。遠くでは既に白い魔術光が瞬き、建物の向こうから獣とも人ともつかない咆哮が響いた。西へ行けば、下層区。そこから城壁へ抜けられる。  カガンは走り出した。  三歩。四歩。そこで、足が止まった。 「……なんだ?」  胸の痛みが強くなっている。  先ほどより明らかに。呼吸をするだけで肋骨の内側が軋み、心臓とは別の何かが、行くなとでもいうように強く脈打っていた。  カガンは振り返った。  東。スタンが向かった方角。そちらへ一歩戻る。痛い。だが、もう一歩踏み込むと、僅かに軽くなった。  カガンは黙って胸元を見下ろした。  理解できない。理解したくもない。  もう一度、西へ一歩。痛みが増す。東へ戻る。和らぐ。  夜風が白い髪を揺らした。  眼下では、人々が悲鳴を上げながら逃げていく。その流れに逆らい、騎士たちの白銀の鎧が東へ向かっていた。その先に、スタン・カルティエがいる。  カガンは暫く立ち尽くした。  やがて深く息を吸い込み、顔を上げる。 「……面倒くせぇな……」  吐き捨てる。  そして、逃げる人々とは逆の方向へ走り出した。

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