幻翠仁 / 第2話

第2話 魔王の徴

 人を殺したあとの夜は、腹が減る。  罪悪感だとか、命を奪った反動だとか、そんな大層な理由ではない。単純に身体を動かしたからだ。屋敷の三階まで壁を登り、割り開けた窓から侵入し、寝室へ辿り着くまでに二人の護衛を避け、目当ての男の喉を掻き切って、騒ぎになる前に同じ窓から逃げる。それだけやれば、腹も減る。  カガンは夜の街を歩きながら、何を食うか考えていた。  イェレミア王国、その王都――セレス。  王城を中心に幾重もの街路が広がるこの街は、日が沈んでも眠らない。大通りには魔導灯が等間隔に並び、青白い光が石畳を照らしている。仕事を終えた職人たちが酒場へ流れ込み、商人が店仕舞いをはじめる傍らでは、夜になってようやく店を開く露天商が威勢のいい声を張り上げていた。  焼いた肉の匂いがする。香辛料を利かせた鶏肉らしい。  悪くない。匂いを追って歩きかけ、やめた。  屋台の前には家族連れがいる。父親と母親。それから十にも満たない子供が二人。わざわざ飯を買うだけのために、面倒を増やす必要もない。カガンはそのまま通り過ぎた。案の定、すれ違う間際に母親が子どもの肩を抱き寄せた。別に睨んだわけでもない。目が合ったわけですらなかった。白い髪が見えたのだろう。あるいはその下にある赤い目か。どちらでも同じだった。  千年前、世界を滅ぼそうとした魔王は、雪のように白い髪と、血のように赤い瞳を持っていたという。路地裏にいる子供でも知っている話だ。だから同じ特徴を持って生まれた人間は、昔から魔王の徴を宿す者として、忌み嫌われてきた。もっとも、それを理由に迫害してよいなどという法律はない。  少なくとも、現在のイェレミア王国では。  人は生まれ持った容姿によって職を奪われることも、財産を没収されることもない。王国法の上では白髪だろうと赤眼だろうと同じ国民で、騎士団もそれを理由とした暴力を禁じている。法律だけ読めば、随分と立派な国だ。  カガンは路地へ入った。  大通りから一本外れただけで、街の様子は随分と変わる。魔導灯の数は目に見えて減り、石畳には所々亀裂が走っていた。建物同士が肩を寄せるように密集し、二階から張り出した軒が夜空を細く切り取っている。  こちらの方が歩きやすい。  少なくとも、子供を抱き寄せる親はいない。  子供そのものが、こんな時間まで平然と走り回っているからだ。 「おい、退け!」  背後から怒鳴り声がした。  振り返るより早く、荷車が脇を抜けていく。車輪が水溜まりを踏み、泥水が外套の裾へ跳ねた。カガンは足を止めた。黒い布に泥が付いている。 「……」  一瞬だけ荷車の背を見送る。  殺すほどではない。洗えば落ちる。それで終わった。  通りの奥に、小さな酒場が見えた。  古びた看板には〈眠り羊亭〉とある。何とも趣味の悪い名前だった。だが、こういう店は味が悪くても量だけは多い。  扉を開ける。  酒と脂と煙草の匂いが、一度に鼻へ入ってきた。店内は混んでいた。労働者らしい男たちが卓を囲み、安酒の入った木杯をぶつけ合っている。奥では吟遊詩人崩れが弦楽器を鳴らしていたが、誰もまともに聞いていない。  カガンが入った瞬間、何人かがこちらを見た。  そして視線を逸らした。慣れたものだった。  空いている席へ座る。 「肉をくれ」  やって来た店主へ言う。 「何のだ」 「食えりゃ、何でもいい」  店主が|胡乱《うろん》な目を向けてきた。  カガンも見返す。四十ほどの男だった。頭頂部が随分と寂しい。腰には護身用らしい短剣があるが、使い込まれた様子はない。  視線が一瞬だけ、カガンの髪、そして目に向いた。 「……先払いだ」  やはりそう来た。  カガンは懐から銅貨を数枚取り出し、卓へ置いた。 「酒は」 「いらねぇ」  店主が銅貨を持って離れていく。  隣の卓では後払いだった。だから何だという話でもない。先に払えば飯が出てくる。それだけのことだ。  椅子へ深く腰掛ける。  ようやく人心地ついたところで、懐に入れていた布を取り出した。右手の親指に赤黒い汚れが残っている。血だ。さっき殺した男のものだろう。拭う。布を折る。もう一度拭う。そこでようやく取れた。 「兄ちゃん」  不意に声を掛けられた。  顔を上げる。隣の卓にいた酔っ払いがこちらを見ていた。 「珍しい目えしてんな。白髪に赤眼。あれだろ。魔王の……」 「……徴、だろ」 「そう、それ」  男は嬉しそうに指を鳴らした。 「怖くねえのか?」 「何が」 「自分が魔王になるかもしれねえだろ」  カガンは男を見た。  酔っている。本気で喧嘩を売っているわけではないらしい。 「なったら教えてやるよ」 「何を?」 「オレも知りてぇ」  男が数秒黙った。  やがて、げらげらと笑い出す。 「気に入った! 一杯奢ってやる!」 「いらねぇ。酒は嫌いだ」 「人生の半分損してるぞ!」 「残りの半分で十分だ」  何が面白かったのか、男はまた笑った。  カガンは息を吐く。  こういう人間もいる。  白い髪を見て道を変える者もいれば、面白がって近づいてくる者もいる。魔除けの印を切る老婆もいれば、髪の色など気にせず金をせびってくる浮浪児もいる。人間など、その程度にばらばらだ。一纏めに嫌うには数が多すぎる。  やがて料理が運ばれてきた。  皿に載っていたのは、骨付きの鶏肉だった。表面だけは景気良く焼けているが、端の方は黒く焦げ、逆に骨際には僅かに赤みが残っている。添えられた豆は煮崩れて原形を失い、何をどうすればこうなるのか、皿の底には正体の分からない脂が溜まって鈍くひかっていた。  カガンは暫く眺めたあと、肉へ齧り付いた。  硬い。だが、食えないほどではない。腹に入れば同じだ。  酔っ払いがまだ何か喋っていたが、適当に聞き流した。どうやら若い頃に北部の鉱山で働いていたらしい。そこからどういう経緯で妻に逃げられた話へ繋がったのかは分からないし、知りたいとも思わなかった。  半分ほど食べたところで、店の扉が開いた。  冷たい夜気が流れ込む。カガンは顔を上げなかった。  足音だけを聞く。入ってきたのは一人。扉の前で一度止まり、店内を見回した。酒を注文するでもなく、そのまま奥へ進んでくる。歩幅は一定で、酔客を避ける動きにも迷いがない。こちらへ来る。それが分かったので、カガンは残っていた肉を口へ放り込んだ。男が向かいへ座った。 「随分と酷いものを食べているな」  聞き覚えのある声だった。  カガンは肉を噛みながら男を見る。三十代半ば。灰色の外套の下には、これといって特徴のない茶色の上着。髪も茶色。目も茶色。顔立ちにも取り立てて語るところがない。人混みへ放り込めば、十歩で見失える。そういう男だ。  本名は知らない。  向こうも名乗ったことがないし、カガンも聞いたことがなかった。 「食うか?」 「遠慮しておこう」 「フン……賢明だな」  男の視線が、空になりかけた皿へ落ちる。 「仕事は確認した」  それだけ言って、卓の下から小さな革袋が滑ってきた。  カガンは受け取った。手の中で一度だけ跳ねさせる。硬貨同士が鈍い音を立てた。少し軽い。紐を解いて中を見る。銀貨が並んでいる。数えてみれば、最初に提示された額と違っているわけではなかった。  つまり、カガンの期待が多かっただけだ。 「護衛が二人増えてた」 「契約には関係ない」 「そうかよ」  鼻を鳴らし、革袋を懐へしまう。  交渉する気にはならなかった。ここで銀貨を何枚か増やしたところで、男が次からその分を織り込んで報酬を提示するようになるだけだ。  それより気になったのは、男が帰ろうとしないことだった。  仕事は終わった。報酬も受け取った。なら、もう用はない。それでも男は向かいに座っている。カガンは残っていた豆を匙で掬った。 「次か」  男が僅かに笑った。 「話が早くて助かる」  外套の内側から封筒が取り出される。  卓へ置かれたそれを、カガンはすぐには取らなかった。  厚い。人を一人殺すだけなら、名前と顔、それに居場所が分かれば十分だ。日々の行動まで調べる必要がある相手なら多少は増えるが、それでもここまでにはならない。随分と面倒な相手らしい。 「報酬は」  提示された額を聞いて、カガンの手が止まった。  金貨二十枚――先ほど受け取った革袋とは比べるまでもない。一般的な職人なら、一年働いても手にできるかどうかという額だった。  カガンは匙を置いた。  ようやく封筒へ手を伸ばす。紙を抜き出す。  最初の一枚には、標的の経歴が記されていた。年齢。出身。所属。その三つ目を見たところで、カガンは一度読むのをやめた。  イェレミア王国騎士団。  視線を下げる。役職。団長。 「……面倒な仕事だな」  金貨二十枚の意味が分かった。  殺すことそのものより、その後が高い。騎士団長が暗殺されれば王都の門は閉じる。街道には検問が敷かれ、騎士だけでなく憲兵まで動く。犯人が王都にいる可能性があるとなれば、下層街も例外ではない。  顔を見られずに殺すことはできる。  問題は、そのあと数千人が自分一人を探し始めることだった。 「断っても構わない」  男が言った。  カガンは答えず、次の紙へ移った。  王都における行動記録だった。騎士団本部と王城の往復。週に二度の訓練視察。月に一度、城壁外の駐屯地へ赴く。現在は王都を離れており、南西部の農村クシェルで発生した異形の討伐へ向かっている。  異形討伐。その文字で指が止まった。  特に理由はなかった。  読み進める。  討伐を終え次第、王都へ帰還する予定。早ければ三日後。護衛は十名前後。多い。だが騎士団長なら当然だろう。正面からやり合うつもりはない。十人いようが二十人いようが、眠るときまで全員が寝室にいるわけではない。  最後の一枚を取り出した。  人物画だった。長い臙脂色の髪を後ろへ流した、若い男が描かれている。年齢は自分とそう変わらないように見えた。騎士団の正装を身に纏い、胸元には王国の紋章。その下に記された名前には、流石のカガンも見覚えがあった。  イェレミア王国騎士団長――スタン・カルティエ。  若くして王国騎士団の頂点へ立った男。異形討伐でいくつもの功績を挙げ、辺境の小競り合いでは自ら前線に立ったとも聞く。貴族の出でありながら平民出身の兵にも分け隔てなく接するだとか、褒賞金の一部を戦災孤児へ寄付しているだとか、酒場で聞けば大抵そんな話が返ってくる。  随分と立派な男らしい。だからどうした、とカガンは思う。  善人なら刃が通らないわけでもない。悪人なら死んでいいわけでもない。仕事で人を殺すと決めてから、そこを考えることはやめていた。標的の人生まで背負っていたら、こちらの肩が先に潰れる。ただ、妙ではあった。  カガンは紙を卓へ置いた。 「こいつが何をした」  男の目が僅かに細くなった。 「気になるのか」 「殺す理由じゃねぇ」  カガンは人物画の端を指で押さえた。 「コイツが死んで得をする奴が誰なのかくらいは知っておきたい。逃げる方向を間違えたくねぇからな」  騎士団長が死ねば、喜ぶ人間はいくらでもいる。  敵国。犯罪組織。王国に恨みを持つ者。あるいは、同じ王国の中にも。依頼主がどこに属するかによって、暗殺後に安全な場所はまるで変わる。 「政治だよ」  男はそれだけ答えた。  カガンは鼻から息を吐いた。  一番面倒な答えだった。  誰が敵で、誰が味方なのか分からない。  いや、そもそも、暗殺者に味方などいない。 「前金は半分ってところだな」 「三割だ」 「なら断るしかねぇな」  男は暫く黙っていた。  やがて、小さく息を吐く。 「……分かった」  話は終わった。  カガンは資料を封筒へ戻した。  そのときだった。  どくり、と。胸の奥で何かが脈打った。 「……?」  手が止まる。心臓ではない。いや、場所は同じだった。だが自分の鼓動より僅かに遅れて、もう一つ何かが動いたような感覚がある。カガンは胸元へ手を当てた。何もない。普段通り、心臓が動いている。 「どうした?」 「……何でもねぇ」  封筒を外套の内側へ押し込んだ。  食後に妙なものを感じることくらいある。少なくとも、今まで胸の病で倒れたことはない。ならば気にするだけ無駄だろう。  立ち上がる。  隣の卓を見ると、先ほどの酔っ払いはいつの間にか突っ伏して眠っていた。木杯は倒れ、残った酒が卓を濡らしている。  店を出た。  夜気が火照った頬を撫でる。大通りの向こうには王城が見えた。高い城壁の上に幾つもの尖塔が立ち、窓から漏れる灯りが夜空へ浮かび上がっている。そのさらに手前には、王国騎士団本部の尖塔も小さく見えた。  この街を守る人間たちがいる場所。  その頂点にいる男を、自分は殺すことになったらしい。  カガンは別段、感慨を覚えなかった。  善人を殺すのは初めてではない。悪人を殺したこともある。誰かに愛されている人間も、誰からも惜しまれない人間も、死ぬときは同じように血を流す。違うとすれば、そのあと泣く人間の数くらいだ。  路地へ入る。  魔導灯の光が届かなくなり、白い髪が夜の闇へ沈んでいく。  三日後、スタン・カルティエは王都へ戻る。  それまでに、殺し方を考えなければならない。カガンは外套の内側にある封筒を指先で確かめ、そのまま夜のセレスへ消えていった。  胸に残った、もう一つの鼓動のことなど。  そのときには、もう忘れていた。

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