幻翠仁 / 第5話

第5話 脈の共鳴③

 どくん、と強く脈打ち、鼓動が重なった。  カガンは息を呑んだ。今までとは違う。これまで胸の奥で勝手に脈打っていたものは、常に自分より半拍遅れていた。追いかけるように、あるいは、離れた場所から同じ拍をなぞるように。それが今、重なっている。どちらが自分の心臓なのか分からないほど、寸分違わず同時に打った。  二つあるはずなのに、一つしか聞こえない。肩を掴んでいる指先から、何かが流れ込んできたような感覚があった。熱ではない。痺れとも違う。皮膚の下を何かが這ったわけでもないのに、触れている場所から腕を通り、胸の中心へ向かって何かが一気に繋がったのだと、理屈もなく理解した。  ――離せ。カガンは、反射的にそう思った。  訳の分からないものに触れたとき、人間が最初にすることなど決まっている。手を引く。それで終わりだ。  だが、指が動かなかった。  いや、動かせなかった。  胸の痛みが消えている。さっきまで肋骨の内側へ爪を立てていたものも、身体の奥で|燻《いぶ》っていた不快な熱も、何もない。まるで、今までの方が間違っていたように、あまりにも自然に、ただ、鼓動だけがある。 「……何だ、これ」  自分が口にしたのかさえ分からなかった。  スタンの唇が動いた。声は聞こえない。  代わりに、広場を満たしていた音が遠ざかっていった。  最初に消えたのは騎士たちの怒号だった。  次に|剣戟《けんげき》。逃げる人々の足音。魔導灯の下で風に煽られる旗の音。最後まで残っていたのは、王都中へ鳴り響く警鐘だった。それさえも、水の底へ沈んでいくように鈍くなり、やがて完全に途絶えた。  異常なほどに、静かだった。  視界が揺れる。目の前にいたスタンの輪郭が滲んだ。臙脂色の髪が、炎の色へ溶ける。白い上衣が光に呑まれる。石畳も、騎士も、王城も全部が消えた。その代わりに、視界には、灰が降っていた。  カガンは瞬きをした。  空が赤黒い。夕暮れではない。燃えている。  何処かの街だった。  セレスではない。王都ほど建物は高くなく、道幅も狭い。古い石造りの家々が肩を寄せるように並んでいたのだろう。過去形でしか考えられなかったのはその大半が既に崩れていたからだ。屋根は落ち、壁は焼け、窓枠だけになった建物の奥で炎が揺れている。風が吹くたび、赤く焼けた|梁《はり》から火の粉が散る。それが空から降り続ける灰と混ざり、どちらかが燃え残りで、どちらが別の何かなのか、見分けが付かなくなっていた。  道には人が倒れている。多い。兵士らしき鎧姿もあれば、薄い衣服を纏っただけの者もいた。家屋の壁際では、誰かが別の誰かへ覆い被さるようにして動かなくなっている。崩れた荷車の|傍《かたわ》らには、小さな靴が片方だけ転がっていた。何があった。そう思った。だが、答えはどこにもない。  旗も、紋章も、軍勢も見えない。誰が攻め、誰が守ったのか。そもそも戦だったのか、それとも別の何かなのか。それさえ分からない。ただ、街が一つ死んでいる。その結果だけが、焼けた石と人間の形をして残されていた。  カガンは視線を逸らそうとした。  動かない。そこで初めて、自分の身体がないことに気付いた。  首を回している感覚がない。足もない。指先すら感じない。それでも景色だけは見えている。目を閉じようとしても閉じられず、誰かの|眼窩《がんか》へ意識だけを押し込まれたように、燃える街を見せられ続けている。  気味が悪かった。  幻覚なら、もう少し自分の都合が利いても良さそうなものだった。  炎が揺れる。灰が降る。その向こうから、何かが流れ込んできた。  最初は何なのか分からなかった。  腹の奥が、急に縮む。  何も食べていないときの空腹に似ている。だが、そんな生易しいものではない。胃の奥が空であることを、身体中から責められているような、喉の奥まで掻き毟りたくなる飢えだった。  カガンは戸惑う。  自分は腹が減っていない。食事は済ませてきた。それなのに、何かを口へ入れたい。食えるものなら何でも良い。肉でも、草でも、泥でもいい。そんな切迫した欲求が、まるで自分自身のもののように胸の底から湧き上がる。  次の瞬間には、それが消えた。  代わりに、怒りが来た。誰かを憎んでいる。顔も知らなければ、名前も知らない。それでも殺してやりたいほど憎い。  その奥では、誰かが泣いていた。  帰りたい。誰かに会いたい。赦してほしい。何をしたのかも分からないまま感情だけが荒波のように押し寄せてくる。  一つではなかった。  飢え。恐怖。憎悪。悲嘆。祈り。  どれもが一瞬だけ輪郭を持ち、次の何かに押し流されていく。自分のものではない感情が、何十、何百と入り乱れている。  カガンは耐えかねて意識を振り払おうとした。  だが、できない。逃げる場所がない。  普段なら他人が何を考えていようと知ったことではなかった。殺される間際に泣くのも、恨むのも、神へ祈るのも本人の勝手だ。それを一つずつ拾っていたら、こちらまで抱えて歩かなければならなくなる。だから拾わない。それで困ったことはなかった。なのに今は、拾うかどうかすら選ばせてもらえない。  息苦しさを覚えた、そのときだった。  燃えていた街が揺らいだ。炎が流れ、崩れた建物が灰の中へ沈んでいく。景色そのものが薄い布を引き剥がすように消え、その下から別の場所が現れた。  広い。街ではない。  何もない大地に、巨大な円が描かれている。幾重にも重なる魔術式だった。外周だけでも、広場一つが収まりそうなほど大きい。その内側を無数の文字と線が埋め、淡い光が複雑な軌道を描いて流れている。  人影があった。円を囲んでいる。長衣を纏い、背丈ほどの杖を地面へ突き立てている者。両膝をつき、両手を魔術式へ触れさせている者。立ったまま両手を合わせ祈る者。数え切れない。その誰もが、《《こちら》》を見ていた。  やがて、灰埃の先で、魔術師たちの唇が動いた。  声は聞こえない。だが、一人ではなかった。円陣を囲む者たちが、示し合わせたように同じ瞬間から何かを唱え始めている。地面へ突き立てられた杖の先で光が灯った。小さな光だった。それが隣へ移る。さらに隣へ。円陣の外周をなぞるように、淡い輝きが次々と生まれていく。やがて光は途切れることのない輪となり、そこから内側へ向かって細い線が伸び始めた。複雑に組み合わされた文字が一つずつ浮かび上がり、乾いた大地を青白く照らしていく。  カガンはそれを見ていた。いや、見せられていた。逃げようとしても視線は逸れない。ただ、何かが始まろうとしている。それだけは理解できた。何のための術なのか、誰が誰に使っているのか。何一つとして分からない。  不意に、風が吹いた。  灰が横へ流れる。その|間隙《かんげき》に、色が見えた。  円陣の向こう側。魔術師たちより少し離れた場所に、人影が立っている。  短い髪が風に煽られている。  赤い。炎を映しただけかと思った。だが違う。暗い赤――何処かで見た色だった。顔は分からない。輪郭そのものが曖昧で、目を凝らそうとするほど、そこだけが|水面《みなも》の向こうにあるように揺らぐ。  その隣に、白が見えた。さらりとした髪が|靡《なび》いている。  それ以外は、ほとんど分からない。男なのか、女なのか。若いのか、老いているのか。何を着ているのかさえ曖昧だった。ただ、白い髪だけが異様にはっきりと見える。自分と同じ髪。目を細めようとしたが、視界は変わらない。  そのとき、視界が僅かに下がった。  カガンが動かしたのではない。白い髪の人影を追おうとしていた意識とは無関係に、視界だけがゆっくりと足元へ落ちていく。青白く輝く魔術式が近付きその線の一部が視界の|下端《かたん》へ隠れた。  代わりに、《《自分》》の胸元が見えた。  黒い筋が走っている。一本ではない。胸の中央から伸びたそれは、途中で幾つにも枝分かれし、鎖骨の下へ、脇腹へ、さらに視界の外へと続いていた。皮膚の上に描かれているのか、その下を通っているのかさえ判然としない。ただ身体そのものへ、深く食い込んでいるように見えた。  カガンは、それを知っていると思った。  記憶を探るまでもない。つい先ほど、見たばかりだ。セレスの夜空を引き裂いた、あの黒い光。星々を覆い隠しながら走った光脈。光っているはずなのに周囲を照らさず、むしろ触れた夜をさらに暗く染めていた、あの奇妙な亀裂。  似ている。太さも形も違う。  それでも、そう思わずにはいられなかった。胸元を這う黒い筋は、あの夜空を走ったものを細く縮め、そのまま身体へ埋め込んだように見える。  カガンは胸元を見つめたまま、奇妙な錯覚を覚えた。  血管ではない。最初はそう見えた。身体を這い、幾重にも枝分かれしているのだから、そう考えるのが自然だった。だが、違う。これは脈ではない。  ――帳簿。唐突に、そんな言葉が浮かんだ。  理由などなかった。ただ、そう見えた。何かを忘れないために引かれた線。何かを一つずつ分け、書き留め、残しておくための罫線。  罪の列。祈りの列。飢えの列。戦の列。  そして、何だったのかさえ分からない、名のない列。  何を数えている。誰が記した。なぜ、こんなものがこの身体にある。  疑問ばかりが浮かび、どれにも答えはなかった。  黒い筋の向こうで、魔術式の光が強くなった。  視界がゆっくりと正面へ戻る。魔術師たちの口が動いている。赤い髪の人影が揺らぐ。その隣で、白い髪が風に靡く。  何も分からなかった。誰なのか。何をしているのか。この視界が誰のものなのか。なぜ、胸にこんなものがあるのか。ただ――黒い罫線だけが、焼けた街も飢えも、祈りも、憎しみも、何一つ失くさずに抱え込んでいた。  風が強くなった。  灰が地表を走る。初めは足元だけだったそれが、やがて膝の高さまで巻き上がり、魔術式の光を白く曇らせた。魔術師たちの姿が霞む。向こうにいた赤い髪も、白い髪も、灰の幕へ呑まれていく。  それでも。  こちらへ向けられた無数の視線だけが、妙に鮮明に残っていた。  誰かが口を開いた。何かを叫んだように見えた。だが、聞こえない。  次の瞬間、視界が灰に埋まった。  カガンは目を|瞬《またた》いた。  一度。そのあと数瞬あけて、もう一度。  灰色に埋め尽くされていた視界の奥へ、輪郭が戻ってくる。  最初に見えたのは、人だった。  目の前に、スタンがいる。肩を掴んだままの姿勢も、互いの身体が触れそうなほど近い距離も変わっていない。白い上衣には異形の黒い体液が飛び散り、長い臙脂色の髪が夜風を受けて頬へ張り付いている。右手には剣。刃を包んでいた白光だけが弱まり、残滓のような淡い輝きを纏っていた。  その向こう。横倒しになった荷車。石造りの建物。青白い魔導灯。さらに高いところには、王城の|尖塔《せんとう》が夜空を切り取っている。  セレスだ。  焼けた街ではない。何もない大地も、魔術師たちもいない。巨大な円陣も、赤い髪も、白い髪も、胸を這っていた黒い罫線もない。  戻った。そう理解したところで、カガンは眉を寄せた。  灰が降っている。細かな灰色の欠片が、スタンとの間をゆっくり横切っていく。一片がカガンの頬へ触れ、そのまま崩れるように風へ攫われた。  まだ見えているのか。そう疑った。  幻視から抜け切れていないのではないか。  だが、頬へ触れた感触は確かにあった。  鼻腔へ入ってくる匂いも、焼け落ちた街で嗅いだ焦げ臭さとは違う。血と汗と石畳へ零れた異形の黒い体液。王都の夜気。  カガンはゆっくりと視線を横へずらした。  そして、動きを止めた。異形が崩れていた。足元に倒れているものだけではない。広場の端。壊れた馬車の脇。騎士へ飛びかかろうとしていた一体の細い腕に、ヒビが入っている。剣は届いていない。誰も斬っていない。それでも、指先から色が抜けていた。黒ずんだ爪が乾き、音もなく砕ける。亀裂は手の甲から手首へ、そこから痩せ細った前腕へと走り、皮膚も、その下にあるはずの肉も、まとめて粉のように形を失っていく。  異形が自分の腕を見た。  顔はない。だから、何を思ったのかは分からない。ただ、残ったもう片方の手を伸ばした。何かを掴もうとするように。だが、その手も途中から崩れた。肩。胸。大きすぎる頭。輪郭が一つずつ失われ、最後には人の子供ほどの大きさだった身体そのものが、灰となって石畳へ落ちた。  カガンは何も言わなかった。  広場の別の場所でも、同じことが起きている。  一体。また一体。騎士と組み合っていたものが動きを止める。路地から這い出そうとしていたものが、その姿勢のまま崩れていく。剣で傷を負わせた個体だけではない。まだ身体に傷のない異形まで、等しく灰へ変わっていた。 「……何だ……?」  誰かの声がした。  騎士だった。剣を構えたまま、目の前で消えていく異形を見ている。  その隣でも、別の騎士が動けずにいた。  誰も攻撃していない。  攻撃する必要がなくなっていた。  さっきまで広場を埋めていた小さな影が、次々と姿を失っていく。  数十。それ以上。それまで耳を満たしていた裸足の足音も、石畳を引っ掻く爪の音も、いつの間にかなくなっていた。残ったのは、風だけだった。  灰が舞い上がる。異形だったものが、一斉に夜のセレスへ溶けていく。  青白い魔導灯の光を横切るたび、灰は一瞬だけ銀色に見えた。屋根の高さまで舞い上がったものは、そのまま暗い空へ吸い込まれていく。王城の尖塔も、遠くの建物も、その薄い幕の向こうに霞んだ。  カガンは、それを見ていた。  さっき見た光景と似ている。それだけのことだった。燃えた街にも、灰が降っていた。あの円陣にも。そして今、セレスにも。似ているから何だ。異形が死ねば灰になる。それ自体は知っている。だが、これは死んだのか。誰にも斬られていない。胸を貫かれてもいない。それなのに、すべて消えた。  カガンの視線が足元へ落ちた。  先ほどまで異形の身体があった場所には、薄く灰が積もっている。  その上へ、さらに新しい灰が降る。  黒い筋が脳裏を過った。  セレスの空を引き裂いた光脈。胸を這っていた罫線。罪。祈り。飢え。戦。意味のないはずの言葉が、勝手に繋がろうとする。  カガンはそこで思考を切った。  分からないものを、分かった気になるのは嫌いだった。  分からないなら、分からないままでいい。少なくとも今は。  肩を掴んでいた指へ、遅れて意識が戻る。  まだ離していない。  カガンは視線を上げた。スタンもこちらを見ていた。  その顔を見た瞬間、問い掛ける必要はないと思った。  青ざめている。普段なら迷いなく人を射抜く緋色の目が、今はカガンの顔を見ながら、その向こうに別の何かを探している。呼吸も僅かに浅い。異形の群れを相手にしていたときでさえ、あれほど乱れてはいなかった。  見たのだ。同じものを。  そう思ったところで、スタンの視線が一度だけ下がった。  カガンの手。自分の肩を掴んでいる指。それから、カガンの胸元。  最後に、自分自身の胸へ。スタンの眉間へ深く皺が寄った。 「……今のは」  声が掠れていた。  カガンはすぐには答えなかった。  答えなど持っていない。  代わりに、スタンの肩から手を離す。  ほんの数寸。それだけだった。だが、胸の奥に収まっていた感覚が、僅かにずれた。痛みではない。さっきまで完璧に重なっていた何かが、また別々の場所へ戻ろうとするような、気持ちの悪い空白だった。  カガンの表情が険しくなる。  向かいで、スタンも同時に胸元へ手を当てた。  視線がぶつかった。  今度こそ、何も言う必要がなかった。  二人の間を、最後の灰が静かに通り過ぎていった。

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