幻翠仁 / 第6話

第6話 灰燼の残響

 灰は、しばらく降り続いていた。  風に攫われ、石畳の上を薄く滑っていく。積もるほどではないが、それでも広場の隅や荷車の車輪の下には灰色の筋が残り、つい先ほどまでそこに異形がいたという事実だけを、奇妙なほど静かに示していた。  誰も動かなかった。  剣を構えたまま立ち尽くす騎士。建物の陰から恐る恐る顔を覗かせる住民。倒れた仲間を抱き起こそうとしていた者も、その手を途中で止めている。さっきまで怒号と悲鳴と剣戟で満たされていた広場から、異形だけが|忽然《こつぜん》と消えた。その唐突さに、人間の側が取り残されていた。  それはカガンも同じだった。  ただし、呆然としている暇があるほど、善良な人生は送っていない。  分からないことは多い。多すぎる。  燃えた街。巨大な円陣に流れる魔術式。こちらを見つめる無数の魔術師と、赤い髪と白い髪。そして、自分ではない誰かの胸を這っていた黒い罫線。  どれも、今ここで考えたところで答えは出ない。  ならば後回しでいい。問題は、目の前にいる男だった。  イェレミア王国騎士団・団長――スタン・カルティエ。  本来なら今夜、殺しているはずだった男。その肩へ触れた瞬間、自分の中で勝手に脈打っていたものが重なった。その直後に、訳の分からない景色を見せられ、異形が一斉に灰になった。面倒という言葉では足りなかった。  カガンが視線を向けると、スタンはまだ胸元へ手を当てていた。  顔色は悪い。だが、それもほんの数秒だった。  緋色の目が広場を見渡す。そこで表情が変わった。 「負傷者を確認しろ」  声は、既に騎士団長のものへ戻っていた。  近くにいた騎士が弾かれたように振り向く。 「周囲を確認。建物の中に取り残された住民がいないか見ろ。異形が消えたからといって安全とは限らない。倒壊しかけている建物にも近付けるな」  命令が飛ぶたび、止まっていた時間が動き始めた。  騎士たちが剣を収める。負傷者を運ぶ者。路地へ走る者。広場の入口で立ち尽くしていた住民を安全な場所へ誘導する者。誰かが倒れた荷車を起こそうとして、それを別の騎士が制止する。石畳の隙間を流れていた黒い体液だけが、少し前までの戦闘を残していた。  カガンはその様子を眺めながら、僅かに眉を寄せた。  切り替えが早い。さっきまで自分と同じものを見ていたはずだ。あれが何だったのか分からないのも同じ。胸の感覚も、おそらく同じ。それでも、やるべきことがあるなら先にそちらを片付ける。住民の安全を最優先し、部下の負傷さえ見逃さない。そういう男なのだろう。だから何だという話でもない。  カガンは踵を返した。  もうここにいる理由はない。異形は消え、騎士団も動き始めた。スタンの暗殺については、今夜は諦めるしかないだろう。状況が悪すぎる。報酬の半分は既に受け取っているが、依頼を失敗したと報告する方が、訳の分からない異常に巻き込まれ続けるよりは幾分もマシだった。  広場の中央から端へ向かう。  一歩。そしてまた一歩。胸の奥に薄い違和感が生じたが、構わず進む。大通りから逸れる路地まで来たところで、案の定、胸に激痛が走った。今度は明確だった。胸骨の裏側へ何かが入り込み、内側からゆっくり押し広げてくる。呼吸をするたびにそこだけが遅れて動く感覚は、まるで自分の身体の中に、自分とは別のものが場所を取り戻そうとしているかのようだった。 「……チッ、この辺からか」  カガンは足を止め、背後を見た。  パチリと目が合う。カガンは何も言わなかった。スタンも一瞬だけ黙った。だが、次の瞬間、その右手が胸元へ動いた。それだけで十分だった。  カガンが鼻から息を吐いた。  そのとき、広場の南側から馬の|蹄《ひずめ》が響いた。夜道を無理に走らせてきたのだろう。泡を噛んだ馬が石畳へ滑り込むように止まり、乗っていた騎士が|鞍《くら》から飛び降りる。 「団長!」  スタンが向き直る。 「南区の状況は」 「異形が消えました」  周囲の騎士たちの動きが僅かに止まった。  報告に来た騎士も、自分で口にしながら信じ切れていない顔をしていた。 「交戦中だった個体も、路地にいたものも、突然……すべて灰に」 「すべてか」 「確認できた範囲では。一体も残っていません」  その報告が終わる前に、今度は北側の通りから別の騎士が走ってきた。 「カルティエ団長! 北区より報告です! 異形がすべて消滅しました。負傷していない個体まで突然崩れたとのことです」  広場の空気が変わった。  偶然ではない。その認識が、言葉にされないまま共有されていく。  西区からも伝令が来た。  中央通り。城門付近。市場。報告はどれも同じだった。異形が消えた。斬られたわけでも、焼かれたわけでもない。戦っていたものも、手を差し伸べていたものも、建物へ入り込んでいたものも、突然、灰へ変わった。  スタンは黙って聞いていた。 「時間は」 「時間、ですか?」 「最初に異形が崩れた時刻だ。覚えている者はいないか」  騎士たちが顔を見合わせる。 「正確には……ですが、鐘が七つ鳴り終わる前だったかと」 「こちらも同じです」 「北区も、その頃です」  カガンは目を細めた。  その頃、自分はスタンの肩を掴んでいた。偶然にしては出来すぎている。  視線を向ける。  スタンもこちらを見た。緋色の目には意図されたような問いがあった。カガンは答えない。答えられるものなら、こちらが聞きたいくらいだった。 「団長」  低い声が割り込んだ。  若い騎士が、カガンを見ていた。  先ほどまで異形と戦っていた者だ。頬に浅い切り傷があり、鎧の肩には黒い血がこびり付いている。その視線は最初、カガンの手に向いていた。短剣。それから腰の刃。最後に顔へ上がる。白い髪。赤い瞳。騎士の表情が強張った。 「その男は何者ですか」  カガンは口を開かなかった。スタンもすぐには答えない。  数人の騎士がこちらを見る。異形と戦っている最中は、目の前の敵へ集中していたのだろう。今になってようやく、騎士でも兵士でもない武装した男が団長のすぐ傍に立っているという異常さへ気付き始めた。  もっともな疑問だった。  カガン自身、騎士団の人間から見て、自分がどう映っているのかくらいは分かっている。騎士団の制服も着ていなければ、王国軍の|徽章《きしょう》もない。腰には短剣を差し、外套の下にも幾つか刃を隠している。おまけに、白髪と赤眼。こんな時間に王都を歩いているだけでも呼び止められかねない格好で、異形の群れに混じって騎士団長の隣で剣を振るっていたのだ。  怪しむなという方が無理がある。  視線が集まるにつれて、広場の空気が僅かに硬くなっていった。  さっきまで異形へ向けられていた警戒が、そのまま形を変えて自分へ寄ってくる。露骨に剣を抜く者はいない。それでも、立ち位置が変わる。数人が自然に間隔を詰め、カガンとスタンの周囲へ半円を作った。誰か一人が合図を出せばすぐに動ける距離。よく訓練されている。カガンはそれだけを思った。 「……知らん」  ややあって、スタンが答えた。  カガンは眉を上げる。 「知らねぇのか」 「知らないだろう。君は名乗っていない」  律儀な返答だった。  若い騎士は困惑したようにスタンを見る。団長の隣で共に異形を斬っていた男について、その団長本人が何も知らない。理解しろという方が難しい。 「……では、なぜその男がここに?」 「それも私が聞きたい」  今度こそ、騎士は言葉を失った。  カガンは視線を逸らした。笑うほどでもないが、少しだけ可笑しい。こちらとしても、なぜこんな場所でスタン・カルティエと並んで立っているのか説明してほしいくらいだった。本来の予定を話せるなら簡単だ。殺しに来た。空から異形が降ってきた。胸が痛んだ。離れられなくなった。だから戻ってきた。  どれ一つとして口にしない方がよさそうだった。 「ひとまず、その男を団長から離してください」  別の騎士が言った。声は冷静だった。先ほど白髪と赤眼を見て怯えた若者とは違う。三十代半ばほどだろうか。鎧の胸当てには細かな傷が無数に走り、剣の柄を握る手にも無駄な力がない。カガンはそちらを見た。 「離れてるじゃねぇか」 「十分ではない。団長のお傍に身元不明の武装者を置くわけにはいかない」  もっともだった。  面倒なことに、正論だった。  カガンは試しに半歩だけ後ろへ下がった。  胸の奥が引かれた。激痛というほどではない。それでも、内側にぴたりと収まっていた何かが、ずるりと位置をずらしたような気持ちの悪さが走る。呼吸そのものはできる。動くこともできる。だが、これ以上離れた先に、先ほど路地で感じた痛みが待っていることだけは容易に想像できた。  カガンの眉間に皺が寄る。同時に、スタンの肩が僅かに強張った。  騎士の一人がそれを見逃さなかった。 「団長?」 「……いや」  スタンは短く答えたものの、胸元へ向かいかけた手を途中で止めた。  カガンと目が合う。たったそれだけで、互いに同じことを確かめたのが分かった。近付いている間は何も起こらない。離れれば、おかしくなる。理由は分からない。分かるのは、それだけだ。 「さらに離れろ」  騎士が言う。カガンは動かなかった。 「聞こえなかったか! 離れろと言っている!」 「待て」  スタンが制した。声に強さが戻る。  騎士たちの視線が一斉に向いた。 「今はそのままでいい」 「しかし」 「理由はあとで説明する」  言い切ったあと、スタン自身が一瞬だけ黙った。説明すると言ったものの、何をどう説明するつもりなのかは本人にも分かっていないのだろう。  カガンはそれを見て、僅かに口端を歪めた。  随分と難儀な男だと思う。分からないなら分からないと言えばいいものを、団長という立場がそれを許さないらしい。部下を不安にさせないようにしながらも、自分でも理解していない現象を抱え込む。聖騎士と謳われるような真面目すぎる人間は、どうにも生きづらそうだった。 「少なくとも、今すぐ彼を拘束する必要はない」  スタンは続けた。 「先ほど市民を救っている。騎士団の者も助けた。それに、この状況で無用な争いを起こす方が危険だ」  そこで初めて、若い騎士の視線が僅かに揺れた。  カガンが異形へ投げた短剣を見ていた者がいたのだろう。あるいは、背後を取られていた騎士を救った場面か。戦闘中は気に留める余裕もなかったことが今になって事実として形を持ち始めている。  それでも警戒そのものは消えなかった。  当然だ。人間というのは、善行を一つ見た程度で警戒を解けるほど単純ではない。少なくとも、そうでない方が長生きする。 「名前は」  スタンが訊いた。  カガンは一度だけ目を細める。 「何だ」 「君の名前だ」 「聞いてどうする」 「いつまでも『君』では話しづらい」  妙な理由だった。だが、偽名を使う意味もあまりない。今夜だけなら適当に名乗って消えればいい。ところが、この身体の異常が消えない限り、どうやらそう簡単にはいかなさそうだった。 「カガン」 「姓は?」 「ねぇよ」  ほんの僅かに、スタンの眉が動いた。  驚いたのか、何かを考えたのか。それ以上は聞いてこなかった。 「カガン」  確認するように、スタンが名を口にする。  自分の名前がその声で呼ばれることに、妙な違和感があった。今までなら、標的に名前を知られることなどほとんどない。こちらは相手の名前を知り、相手はこちらを知らない。そしてそのまま死ぬ。それで仕事は終わる。なのに今は、標的が自分の名を知った。予定というものは、本当に役に立たない。 「武器を預けてもらいたい」 「断る」  周囲の空気が再び張る。  スタンは溜息こそ吐かなかったが、明らかにそうなると予想していた顔だった。 「……君が何者なのか確認する必要がある。騎士団本部へ身元不明の武装者を連れて行く訳にはいかない。一度武装を解いてもらいたい」 「勝手に話を進めるな。オレは騎士団本部になんざ行かねぇよ」 「どちらにせよ、私は騎士団本部へ戻る。そうなれば、困るのは君だ」  カガンは黙った。  スタンの視線が、ほんの一瞬だけ広場の端へ向く。先ほどカガンが離れようとした路地。そこまで行ったところで、胸の痛みに耐えられなくなって戻ってきた。それをスタンも見ていた。見られていたこと自体が気に食わない。まして、それを交渉材料のように使われるのはもっと気に食わなかった。  カガンは舌の裏で小さく舌打ちを潰した。殺そうと思っていた相手に弱みを握られるなど、仕事として考えれば最悪に近い。しかも、その弱みの原因そのものが目の前の男だというのだから始末が悪い。 「……脅してんのか」 「事実を言っているだけだ」 「余計に腹立つな」  スタンは何も返さなかった。その顔に勝ち誇った色はない。こちらの不利を楽しんでいるわけでも、無理に従わせようとしているわけでもない。ただ、自分にも同じ異常が起きているからこそ、カガンがこの場を離れられないと理解している。それだけだった。だからこそ、なおさら腹が立つ。  カガンはしばらく黙っていた。  騎士たちの視線がこちらへ集まっている。誰も急かさない。だが、待っているのは分かる。少し前まで異形の血で汚れていた広場に、今は別種の緊張が満ちていた。風が吹くたび、石畳の上に積もった灰が靴の周囲を薄く流れ、魔導灯の青白い光の中へ舞い上がっていく。  逃げることはできる。  少なくとも、騎士たちを振り切るだけなら不可能ではない。  問題はそのあとだった。  どこまで離れれば胸の痛みが耐えられなくなるのか。あの路地より先へ進めばどうなるのか。気を失うだけで済むのか、それとももっと悪い何かが起きるのか。試してみる価値のある賭けとは思えなかった。  カガンは外套の内側へ手を入れた。  金属の擦れる音に、周囲の騎士が一斉に身構える。半円を描いていた者たちの足が僅かに開き、腰が落ちる。剣へ掛けられた指が動く。ほんの一瞬で、さっきまでの疲労が消えたように戦闘の構えへ戻るあたり、やはり王国騎士団を名乗るだけはあるらしい。 「動くな」  低い声が飛んだ。カガンはそちらを見もしなかった。 「そう騒ぐな。取れって言ったのはそっちだろ」  外套の内側から短剣を一本抜き、指先だけで柄を摘む。刃先を下へ向けそのまま石畳へ落とした。乾いた金属音が響く。続けて腰の鞘から一本。反対側からもう一本。袖口へ仕込んでいた細身の刃を引き抜き、足元へ置く。革靴の内側へ差していたもの。背中側のベルトに沿わせていたもの。一本外すたび、騎士たちの表情が少しずつ険しくなっていった。  七本目を置いたところで、先ほどの若い騎士が思わず口を開く。 「……まだあるのか」 「知らねぇ」 「何本持っているんだ」 「足りなくなったことはねぇよ」  何本あるかなど、考えたこともなかった。  必要なとき、必要な場所へ手を伸ばして、そこに刃があればいい。一本で足りなければ二本使う。それでも足りなければ、相手から奪えば済む。数というものは、足りなくなって初めて数えるものだ。  さらに二本。袖の裏と、腰の後ろから抜いて足元へ落とす。最後に、脇腹へ斜めに沿わせていた短剣へ手を掛けたところで、カガンは止まった。  スタンの視線がそこへ向く。 「それもだ」 「これは残す。何かあったときのためにな」 「その『何か』に、騎士団員は含まれるのか」 「そりゃ、お前ら次第だな」  数人の顔が引き攣った。  スタンはしばらくカガンを見ていた。交渉する価値があるか測っているようだったが、やがて僅かに息を吐く。 「抜かなければいい」 「最初からそう言え」 「君が最初から素直に預ければ済んだ話だ」 「全部渡したら、お前らに囲まれたまま丸腰だろうが。そんな馬鹿はいねぇ」 「普通は騎士団本部へ連れて行かれる時点で、抵抗しない」 「普通じゃなくて悪かったな」  そこまで言って、カガンは残した一本から手を離した。  完全に信用したわけではない。むしろ信用できる理由など一つもない。  ただ、今この場で騎士団と揉める利益がない。それだけだった。  スタンが部下へ視線を向ける。 「預かっておけ。紛失するな」 「はっ」  騎士が慎重に短剣を拾っていく。一本ごとに灰を払い、鞘の有無を確認しながら革袋へ収めていく様子を、カガンは黙って眺めた。  馬鹿げた光景だった。  本来なら今頃、その刃のどれかにスタン・カルティエの血が付いていたはずなのだ。それがどういう巡り合わせか、本人の部下に丁寧に回収されている。人生というものは、予定から外れるときほど妙な方向へ律儀だった。  そのとき、広場の外から再び駆け足が近付いてきた。  今度は馬ではない。甲冑の重い足音が石畳を叩き、灰を巻き上げながら一人の騎士が広場へ入ってくる。肩で息をしている。胸元に付けられた徽章は、先ほどまでここで戦っていた騎士たちのものと少し違っていた。国王直属の近衛騎士。カガンにはその程度しか分からなかったが、周囲の騎士たちはすぐに姿勢を正した。 「カルティエ団長」  男はスタンの前で足を止め、一度深く頭を下げた。 「王城より伝令です。陛下が至急、状況の報告を求めておられます」 「異形の件か」 「王都各区で同時に消滅したとの報が既に届いております。それに……」  伝令の騎士はそこで言葉を切った。  一瞬だけ、カガンを見る。白髪と赤眼を確認するような視線だった。  カガンが眉を顰めると、男はすぐに視線を戻した。 「王城上空に現れた黒い亀裂についても、報告をとのことです。陛下は夜明けを待たず、直接お聞きになりたいと」  広場へ短い沈黙が落ちた。  黒い亀裂。その言葉に、カガンの脳裏へ先ほどの光景が一瞬だけ蘇る。空を引き裂いていた黒い光。幻視の中で、自分ではない誰かの胸を這っていた黒い罫線。形は違う。太さも違う。それでも、似ていた。  意味のない連想。カガンはすぐに思考を切る。  スタンは少し考えたあと、伝令へ向き直った。 「負傷者の収容と市街の確認を優先する。各隊から報告が揃い次第、私が王城へ向かうと伝えてくれ。それと、異形が消滅した時刻を可能な限り正確に確認させろ。各区の|鐘楼《しょうろう》記録も照合してくれ。上空の亀裂について目撃証言があれば、それも集めておいてほしい」  伝令は再び頭を下げ、来た道を駆け戻っていった。  スタンはその背を見送り、それから広場を見渡した。  既に混乱の最盛期は過ぎている。負傷者は担架へ載せられ、簡易の治療を受け始めていた。泣きながら家族を探していた女が、路地から出てきた男へ駆け寄る。倒れていた荷車の下から助け出された老人へ、騎士が水を渡している。異形の姿が消えたことで、恐怖に押し込められていた人の声が少しずつ街へ戻り始めていた。それでも、誰も完全には安心していない。  空を見上げる者が多かった。  黒い亀裂はもうない。夜空には星が戻り、魔導灯の光では届かない高みで静かに瞬いている。だが、一度裂けた空を見てしまえば、何もない夜空でさえ以前と同じには見えないのだろう。カガンにも、その感覚は少しだけ分かった。 「本部へ戻る」  スタンが言った。  部下たちへ向けた声だった。 「負傷していない者は残って各隊の報告をまとめろ。副隊長は市街の巡回を継続。異形が再び確認された場合は、無理に交戦せず位置を知らせろ」  次々と指示が飛ぶ。  最後に、スタンの視線がカガンへ向いた。 「君も来てもらう」 「だから勝手に決めんな」 「では、ここに残るか?」  カガンは黙った。  スタンが歩き出す。胸の奥が僅かに引かれた。まだ大した距離ではない。それでも、その男が数歩先へ進んだだけで、さっきまで静かだったものが薄く軋み始める。カガンは口元を歪めた。 「……クソが」  誰に向けるでもなく吐き捨て、仕方なくその後へ続いた。歩幅を合わせるつもりはない。隣を歩く気もなかった。近すぎるのは不快だった。遠すぎれば、胸が痛む。結局、数歩分の距離を空けて歩くことになった。  騎士団本部へ向かう一団が広場を離れていく。石畳には、まだ薄く灰が残っていた。踏み付けるたびに乾いた粉が舞い、靴の踵へまとわりつく。その向こうでは、夜の王都が少しずつ呼吸を取り戻していた。  店の扉を細く開けて外を窺う者。家族の名を呼びながら走る者。泣き止まない子供を抱いたまま、通り過ぎる騎士へ何度も頭を下げる女。  スタンはその一つ一つへ視線を向けていた。  カガンは、その背を眺める。  殺す予定だった男。依頼書には、名前と役職と行動記録、そして噂しか書かれていなかった。イェレミア王国騎士団団長。聖騎士の称号。民衆からの信頼は厚く、各方面での異形討伐の実績多数。  紙の上では、それだけだった。  実物も、大して変わらない。  評判通り真面目で、評判通り民を守り、評判通り面倒な男だった。  ただ、一つだけ予定になかった。  この男を殺したとき、自分までどうなるのか分からない。カガンは胸元へ手を当てることなく、ただ前を歩く臙脂色の髪を見つめた。少なくとも、それが分かるまでは――殺すわけにはいかなくなった。

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