幻翠仁 / 第1話

第1話 魔王の残滓

 異形が出た村は、静かになる。  何度訪れても、それだけは好きになれなかった。  傾き始めた陽を背に街道を進みながら、スタン・カルティエは馬上から左右に並ぶ家々へ目を向けていた。石造りの煙突からは|夕餉《ゆうげ》の煙が細く立ち昇り、何処かで肉と豆を煮込んでいるらしい匂いもする。軒先には干された衣服が風に揺れ、柵の向こうでは繋がれた山羊が、騎士の一団など知ったことではないとばかりに草を|食《は》んでいた。  人の暮らしは、そこにある。  ただ、人だけが外にいなかった。  通りには|荷車《にぐるま》が一台、道端へ寄せられたまま放置されている。酒場らしい建物も扉を固く閉ざし、普段なら子供の遊び場になっているだろう井戸の周囲にも人影はない。時折、窓掛けの隙間からこちらを伺う顔が見えるものの、スタンと目が合えばすぐに引っ込んだ。  無理もない。異形が出たのだ。  千年前に討たれた魔王が、この世界へ遺した呪い。  そう教えられたのは物心がつくよりも前で、実際、スタン自身もこれまで幾度となく異形と剣を交えてきた。人を襲い、家畜を喰らい、時には一夜で集落一つを血に沈める。そんなものが近くを徘徊していると知りながら、いつも通り暮らせと言う方が無茶な話だった。だから人々は戸を閉ざし、騎士を待つ。自分たちではどうにもならないものを、代わりに殺してくれる人間を。 「……慣れないな」  思わず口から零れた。 「何がです?」  後ろから返事が来てしまい、スタンは少しだけ眉を寄せた。  聞こえるように言ったつもりはなかった。 「なんでもない。前を見ていろ」 「はっ」  妙に素直な返事が戻ってくる。  スタンはそれ以上何も言わず、|手綱《たずな》を握り直した。  期待されることには、未だに慣れない。  イェレミア王国騎士団の鎧を身に着けているだけで、人々はこちらが何とかしてくれると考える。まして、その先頭にいるのが騎士団長ともなれば尚更だった。どれほど大きな異形を前にしても怯まず、迷わず、必ず民を守ってくれるのだと、勝手なほど真っ直ぐに信じている。  困ったものだと思う。  騎士団長のスタンと言えど、死ぬのは怖い。剣で腹を裂かれれば痛いし、異形の牙を前に足が竦んだことだって一度や二度ではない。それでも、窓の向こうからこちらを見ていた幼い子供が、母親に手を引かれながら安堵したように笑うのを見てしまえば、期待するなとも言えなかった。  人々が安心して怯えていられるように、自分たちは鎧を着ている。  騎士とは、そういう仕事なのだ。  村の中央へ差し掛かったところで、一軒の家から扉が開いた。 「騎士様!」  掠れた声とともに、老人が転がるように飛び出してくる。  背後で何人かの騎士が身構えたが、スタンは片手を上げて制した。馬を止め、その場で身を屈める。 「この村の者か」 「へ、へえ。村長をしております」  老人は何度も頭を下げた。  顔色が悪い。眠れていないのだろう。目の下には濃い隈があり、帽子を握り締めた指は小刻みに震えていた。 「異形を最後に見たのはいつだ」 「今朝方です。西の畑に……昨日、羊が三頭やられましてね。今朝には小麦畑でハンスの|倅《せがれ》が……」  そこで言葉が詰まった。  スタンは続きを促さなかった。 「分かった」  老人の肩から、僅かに力が抜ける。 「異形は今夜中に片付ける。念のため、討伐が終わるまでは全員家の中へ。何が聞こえても外へ出ないように」 「……倒せるんですかい」  あまりに率直な問いだった。  背後にいる部下たちの視線が、何となくこちらへ集まった気がした。  スタンは少しだけ困った。  絶対に、などという言葉は好きではない。戦場に絶対などない。どれほど準備しても人は死ぬし、昨日まで笑っていた者が翌朝には冷たくなっていることもある。騎士になってから、それだけは嫌というほど知った。  だが、目の前の老人が欲しいのは戦場の心得ではない。 「そのために来た」  スタンは答えた。  老人が、ゆっくりと頷いた。それで十分だったらしい。  馬を進める。森を抜け、西側へ向かうにつれて家々は疎らになり、代わりに麦畑が広がり始めた。夕陽を浴びた穂が黄金色に染まり、山から降りてきた風に押されて大きな波を作っている。収穫は近い。これが無駄になれば、冬を越すことは厳しくなるだろう。そんなことを考えていたときだった。  風向きが変わった。  生温い風が正面から吹き付け、スタンの|臙脂《えんじ》の髪を揺らす。夕餉の煙と麦の青臭さに混じって、別の匂いが鼻先を掠めた。  鉄に似た、生臭い臭い。  血だ。 「止まれ」  スタンは手綱を引いた。  背後で馬蹄の音が次々と途切れる。  先ほどまで僅かに残っていた雑談も消えた。革手袋が剣の柄を握り、鎧が小さく擦れる。十数名いた騎士たちの空気が、一瞬で切り替わった。  スタンは畑を見た。麦の穂が揺れている。  その中央だけが、不自然に沈んでいた。 「団長」 「分かっている」  馬を降りる。  靴底が土へ沈んだ。剣の柄へ手を掛けながら畑へ近づくと、麦の間に赤黒いものが見えた。最初は布切れかと思ったが、違う。  羊だった。  腹を食い破られ、内臓の大半がなくなっている。  その向こうに、もう一頭。さらに奥にも倒れている。  スタンは眉を寄せた。  食われている。だが、妙だった。肉が残りすぎている。腹を裂き、中身を引き摺り出し、少しだけ齧って捨てたような痕跡がいくつも続いている。飢えた獣の食い方ではない。何かを探しているようにも見えた。  そのとき、麦の奥で音がした。  ぐちゃり――濡れたものを踏み潰したような音だった。  騎士たちが一斉に剣を抜く。  スタンは片手を上げた。 「待て」  風とは逆方向に、麦が揺れた。  何かがいる。最初は、蹲った人間に見えた。痩せた背中を丸め、両手を地面についている。裸だった。骨ばった肩から伸びた腕は異様なほど長く、細い。指先は土の中へ埋まっている。それが、ゆっくりと顔を上げた。  人ではなかった。  腹だけが異様に膨れ上がっている。手足は骨に薄皮を貼り付けたように細いというのに、腹部だけが今にも裂けそうなほど膨張し、その表面を青黒い血管が這っていた。頭部には目も鼻もない。あるのは口だけだった。頬から顎へ、顎から首へ。皮膚を無理矢理裂いたような口が幾つも並び、黄色く濁った歯の隙間から粘ついた唾液を垂らしている。その一つが開いた。 「……足りナい」  掠れた声だった。  別の口が開く。 「足りなイ……」  声が重なっていく。  男とも女とも、老人とも子供ともつかない声だった。  背後で誰かが息を呑む。 「魔王の残滓……」  若い騎士の呟きが聞こえた。  スタンは答えなかった。  異形が言葉らしきものを発すること自体は、何も珍しくない。意味の通らない呻き、誰かの名前、祈りのようなもの。魔王の|怨嗟《えんさ》が形になったものなのだから、人の言葉を真似ることがあっても不思議ではない。  そういうものなのだ。  だから、異形が何を口にしているのかなど考える必要はない。  剣を抜く。  鞘走る音が、夕暮れの畑へ鋭く響いた。 「総員、下馬。前衛は私と共に。残りは村側へ回れ。家屋には近づけるな。負傷者が出た場合は無理に戦線へ戻る必要はない。治療を優先しろ」  指示を飛ばしながら、スタンは異形から目を離さなかった。  異形もまた、こちらを見ている。目などないはずなのに、そう感じた。  膨れた腹が大きく脈打つ。 「足リなイィ゙……」  長い腕が動いた。  地面を|掻《か》き|毟《むし》る。爪の間から土が飛び散った。  そして突然、異形の身体が沈んだ。 「来るぞ!」  地面が爆ぜた。  異形が跳ぶ。細長い身体が夕陽を横切り、長い腕が鞭のように振るわれた。スタンは前へ出る。避ければ後ろの騎士へ届く。  剣を横へ構えた。  衝撃。腕と刃がぶつかり、耳障りな金属音が響く。 「ッ……!」  重い。見た目からは想像できない力だった。  靴底が土を削り、身体が半歩押し戻される。異形の口が一斉に開いた。生臭い息が顔へ吹き付ける。 「もっと、もっと食べタい……!」 「知るか」  スタンは剣を滑らせた。  受け流す。異形の腕が地面へ叩きつけられた瞬間、その懐へ踏み込む。剣を下から斜めに振り上げ、細い腕を肩口から断ち切った。黒い血が噴き出した。異形が絶叫する。七つの口から別々の声が溢れ、夕暮れの畑を震わせた。 「右から回れ!」  スタンの声に騎士たちが動く。  二人が側面へ回り、槍を突き出す。一撃目は腹へ刺さり、二撃目が|腿《もも》を貫いた。だが、異形は止まらない。残った腕を振るう。 「下がれ!」  若い騎士の胸へ爪が迫る。  間に合わない。  スタンは地面を蹴った。  身体を滑り込ませ、騎士を肩で突き飛ばす。同時に爪が胸甲を掠め、金属の表面に四本の傷を刻んだ。 「団長!」 「怪我は」 「ありません!」 「なら立て!」  言いながら、自分の胸が痛んだ。  傷ではない。鎧の下。胸骨の奥。そこに刻まれた痕が、焼けた鉄を押し当てられたように熱を持っていた。異形が現れると、時折こうなる。幼い頃から胸にある、生まれつきの痣。カルティエ家では、聖痕と呼ばれている。  千年前、魔王討伐に加わった祖先が神より授かった祝福。  その証が血とともに受け継がれているのだと、父からも、師匠からも、神官からも聞かされてきた。普段は何の役にも立たない。ただ、大きな異形が近くにいると、こうして痛むことがある。魔王の残した邪気に聖痕が反応しているのだろう。そう説明されていた。 「――団長!」  声で意識を戻す。  異形が目の前にいた。大きく開いた口。その奥に、何本もの歯。  スタンは剣を握り直した。  考えるのは後だ。踏み込む。一閃。刃が首回りを通り抜けた。異形の身体が止まり、数瞬遅れて、頭部が傾く。落ちた。黒い血を撒き散らしながら地面を転がり、麦の穂を押し潰して止まる。身体も膝から崩れた。  静寂。  荒い呼吸だけが聞こえる。やがて誰かが、深く息を吐いた。 「……終わった」 「まだだ」  スタンは剣を下ろさなかった。  周囲を見る。麦畑。羊の死骸。夕陽。風に揺れる穂。異形の気配はない。  それでも暫く待ってから、ようやく剣先を下げた。 「負傷者を確認。周囲も調べろ。単独で動くな」  騎士たちが返事をし、散っていく。  スタンはその場に残った。  足元には、異形の頭が転がっている。  幾つもあった口は、もうほとんど動いていなかった。  そのうち一つだけが、微かに開く。 「……たり……ない……」  掠れた声は、風に溶けるように途切れた。  最後まで開いていた口がゆっくりと閉じる。張り詰めていた異形の身体から力が抜け、黒ずんだ皮膚が急速に色を失っていった。乾いていく。肉が腐るというより、長い時間を一息に取り戻しているようだった。指先から灰色に移り変わり、やがて薄い表皮が細かな塵となって崩れ始める。  風が吹いた。  灰が舞い上がる。麦の穂の間を漂ったそれは、夕陽を一瞬だけ鈍く反射し、そのまま遠くへ運ばれていった。  スタンは剣を握ったまま、それを見送った。 「足りない、か……」  口にしてみても、意味は分からない。  山羊を喰っていたのだから、腹が減っていただけなのかもしれない。異形の言葉に人間と同じ意味を求める方が間違っている。過去にも、母親の名前と思われる単語を延々と叫びながら人を殺す異形を見たことがあるし、|祈祷《きとう》文を唱えながら教会を焼いたものもいた。魔王の怨嗟が人の言葉を借りている。それ以上でも、それ以下でもない。そう考えてしまえば、わざわざ悩むほどのことでもなかった。 「団長」  呼ばれて振り返る。  先ほど突き飛ばした若い騎士が立っていた。胸甲には異形の爪が刻んだ傷が残っているものの、身体には怪我らしい怪我もない。そのことを確認してからスタンはようやく剣を鞘へ戻した。 「負傷者は」 「軽傷が二名です。腕を切った者と、転倒して足を捻った者が。治癒術で対応できます」  胸の奥にあった力が、少しだけ抜ける。  死者はいない。それだけで今日は上出来だった。  若い騎士は何か言いたそうにその場へ残っていた。  スタンが視線を向けると、僅かに姿勢を正す。 「……先ほどは、ありがとうございました」 「礼を言うほどではない。それより、次からは敵だけを見るな。周囲も見ろ。異形は一体とも限らないのだ……あと、私が毎回間に合うと思うな」 「……はい」  少し小さな返事だった。  それでいい。命を助けられたことより、次に助けを必要としないことを覚えてくれた方がいいからだ。戦場で英雄一人に頼る部隊など、英雄が倒れた瞬間に全滅する。何より、自分は英雄ではない。そう呼ばれるのは、千年前に世界を救った者たちだけで十分だった。 「団長!」  畑の外から声が飛んできた。  一人の騎士が村の方角を指している。見ると、家々の間から人影が現れ始めていた。最初は数人だった。扉を僅かに開き、恐る恐る外を窺う。やがて騎士たちが武器を収めているのを見ると、一人、また一人と通りへ出てくる。  老人がいる。女がいる。子供がいる。  誰もが西の畑を見ていた。  スタンは小さく息を吐いた。 「戻るぞ」  騎士たちへ告げる。  馬のところまで戻る頃には、空はすっかり茜色を失い始めていた。山の稜線には夜の青が滲み、東の空には早くも一番星が浮かんでいる。  村へ戻ると、先ほどの村長が真っ先に駆け寄ってきた。 「カルティエ様……!」 「終わった」  その一言で、老人の顔が崩れた。 「……ああ、よかった……」  膝から力が抜けたらしく、その場へ座り込みそうになる。近くにいた男が慌てて身体を支えた。それをきっかけに、周囲からざわめきが広がった。  異形は倒された。もう外へ出てもいい。  言葉が人から人へ渡り、閉ざされていた扉が次々と開いていく。恐怖で押し殺されていた村の音が、少しずつ戻ってくる。  人の声。扉の開く音。誰かが泣き、別の誰かが笑っている。  たった一体の異形が死んだだけで、村が息を吹き返していく。  スタンは馬の傍らに立ちながら、その光景を眺めていた。  これを見るために剣を振るっているのだと、そう思う瞬間がある。褒賞も、勲章も、王都で語られる武勇も、どうでもいい。昨日まで当たり前だった日常を、今日も当たり前に続けられるようにする。それだけでいい。 「騎士様!」  声と同時に、小さなものが脚へぶつかった。  見下ろすと、先ほど窓越しに目が合った子供だった。六つか七つほどだろう。母親らしい女が慌てて追ってくる。 「こ、こら! 申し訳ありません、団長様!」 「構わない」  子供はスタンの鎧を見上げていた。  正確には、その胸に刻まれた王国騎士団の紋章を。 「異形、死んだ?」 「ああ」 「もう来ない?」  答えに詰まった。  もう来ない。そう言ってやれれば簡単だった。  だが、それだけは約束できない。  異形は何処からともなく現れる。  魔王が討たれて千年経った今も、世界の何処かで生まれ続けている。一体を倒したところで、明日には別の場所で別の異形が現れるかもしれない。  子供は答えを待っている。  スタンは少し考えてから、膝を折った。 「もしまた来たら、そのときはまた騎士が来る」 「団長様が?」 「私とは限らない」 「えー」  露骨に不満そうな顔をされた。  思わず笑いそうになる。 「騎士は私一人ではない。誰が来ても、お前たちを守る」  子供は暫く考え、それからようやく頷いた。 「分かった」  随分と偉そうな返事だった。  母親が恐縮しながら頭を下げ、子供の手を引いて戻っていく。その背中を見送りながら、スタンは立ち上がった。  守る。口にすれば簡単な言葉だ。  だが、それを千年続けてきたのが騎士という存在なのだろう。魔王が倒れたあとも残った異形という名の災厄から人々を守り、次の世代へ平穏を明け渡していく。自分も、その長い列の一人に過ぎない。 「団長」  副団長が近づいてきた。 「今夜はどうします」 「村に泊まる。負傷者もいるし、夜間に別個体が出ないとも限らない。夜明けまでは警戒を続ける」 「分かりました。村長に宿の手配を頼んできます」  男が離れていく。  スタンは何気なく胸元へ手をやった。  鎧越しでは何も分からない。それでも、先ほどまで焼けるように痛んでいた聖痕の位置は、はっきりと意識できた。  異形は死んだ。  いつもなら、それと同時に痛みも引く。  実際、熱はほとんど消えている。ほとんど。 「……?」  僅かに眉を寄せる。  どくり、と。胸の奥が脈打った。自分の心臓とは、半拍ずれている。そんな奇妙な感覚がした。スタンは指先を胸甲へ押し当てた。もう一度待つ。何も起こらない。気のせいか。戦闘の直後なのだから、鼓動が乱れていても不思議ではない。異形の邪気に聖痕が刺激された影響が残っている可能性もある。  それ以上考える理由はなかった。 「団長! 宿が決まりました!」  遠くから副団長が呼んでいる。 「今行く」  手を下ろす。  夜の冷気が降り始めた村には、人々の声が戻っていた。家々には明かりが灯り、煮込み料理の匂いが漂っている。先ほどまで閉ざされていた酒場の扉も開き、中では早くも誰かが討伐の話をしているらしかった。  異形は倒れた。村は救われた。  いつもと同じだった。  スタンはそう思いながら、部下たちの待つ方へ歩き出した。  その胸の奥で、彼自身とは異なる何かが、もう一度だけ、静かに脈打った。

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