Tihoo / 第60話

第六十話 「ホムンクルスに弱みを握られたので、遠心分離機と熱力学で究極のプリンを錬成した」

エルフの里での騒動――そして、俺の取り返しのつかない個人的な『過ち』――から数日後。 辺境の屋敷には、表面上はいつもの平穏な日常が戻っていた。 「……あーん。ボウヤ、肩が凝ったわ。揉んで」 リビングの特等席である一番フカフカのソファ。 そこに寝そべりながら、クロエが王侯貴族のような態度で俺に顎をしゃくった。 「……俺はメイドじゃない。エリスに頼め」 「あら、いいの? エルフの宿屋での『あの夜』のこと、アリアや王女様にお話しちゃっても? 私、口が滑りやすいホムンクルスなのよねぇ。キキッ」 ビキッ。 俺の額に青筋が浮かぶ。 このニート、完全に味を占めている。事象改変で浮気の痕跡を消してもらった代償として、俺は完全に彼女のパシリ(兼・夜の相手)と化していた。 「……分かった。少しだけだぞ」 俺が渋々クロエの肩に手を置くと、少し離れたテーブルで魔導書を読んでいたアリアが、ピクリと反応した。 「……師匠。なぜ最近、クロエの我がままを聞いてあげているのですか? それに、クロエも師匠に対する態度が……なんというか、妙に『生々しい』というか」 アリアの眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。 「き、気のせいだ。ホムンクルスの生態調査の一環だ」 俺は冷や汗をかきながら誤魔化した。一番弟子と同じ顔をした少女との情事を、当の本人に悟られるわけにはいかない。物理的に殺される。 「ふぅん? まあいいわ。それよりボウヤ、約束の『アレ』、作ってちょうだい」 クロエが艶然と微笑みながら、俺の太ももを足の指でツンツンと小突いてくる。 「アレ、とは?」 アリアがさらに怪訝な顔をする。 「プリンだ。……こいつが、最高級のプリンを食わせろとうるさくてな」 俺は逃げるようにキッチンへと向かった。 エリスが材料を用意して待機していた。牛乳、卵、砂糖。ただのプリンならエリスに任せればいいのだが、クロエの要求は『私の舌(エレオノーラの記憶)を満足させる究極の味』という面倒くさいものだ。 「……やるか」 俺は腕まくりをした。 料理とは、すなわち物理と化学の複合現象である。 まずは牛乳。ただの牛乳ではコクが足りない。俺はボウルに入れた牛乳に手をかざし、魔力による『超高速回転』を与えた。 ――【物理演算:遠心分離(セントリフュージ)】 ブィィィィィン!! ボウルの中の牛乳が、毎分10万回転という恐るべき速度で渦を巻く。密度の違いにより、比重の軽い純粋な乳脂肪分(極上の生クリーム)だけが中心に抽出されていく。 「よし。次は卵のタンパク質の『熱変性』だ」 プリンの滑らかさを決めるのは、卵の凝固温度だ。黄身は約65℃〜70℃、白身は約75℃で固まる。 この温度勾配を完璧に制御しなければ、究極の食感は生まれない。 「熱量は質量と比熱、温度変化の積だ」 「ここに熱伝導方程式を組み込み、プリン液の全ての分子に均等に熱エネルギーを行き渡らせる……!」 俺は指先から繊細な熱波を放ち、プリン液を寸分の狂いもなく『68.5℃』に保ちながら加熱した。 鍋もオーブンも使わない。純粋な熱力学による、完全な分子レベルの調理である。 「できましたね、ご主人様。……無駄に高度な魔法の使い方です」 エリスが呆れたようにカラメルソースを添える。 ◇ 「……ほら。究極のプリンだ」 リビングに戻り、冷やしたプリンをクロエの前に置く。 黄金色に輝くそれは、皿を揺らすとプルプルと官能的な弾力を見せた。 「あら、見た目は合格ね」 クロエは銀の匙でプリンをすくい、一口食べた。 瞬間、彼女の赤い瞳が見開かれ、とろけるような笑みが浮かんだ。 「……んんっ……! 美味しい……! 舌の上で分子がほどけていくみたい……!」 クロエは恍惚とした表情で、あっという間にプリンを平らげてしまった。 「……満足したか」 「ええ、とっても。ボウヤの『指先のテクニック』、料理でも最高ね」 クロエが唇についたカラメルを舐めとりながら、俺にだけ聞こえる声で囁いた。 「……夜(・)の(・)テクニックも、このくらい上達してくれると嬉しいんだけど。キキッ」 俺の顔が一気に熱くなる。 このアマ、なんてことを。 「……お待ちください」 だが、そのやり取りを、アリアが見逃すはずがなかった。 彼女はパタンと魔導書を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。 「師匠。先ほどから、クロエを見る時の心拍数と、発汗量、そして魔力波長が『平常時の1.5倍』に跳ね上がっています。まるで、後ろめたい隠(・)し(・)事(・)をしているかのように」 「な、なんだって?」 「それに……クロエ。貴女、エルフの里から帰ってきてから、魔力回路の質が変わっていませんか? まるで、外部から強大な魔力を直接注ぎ込まれたかのように」 俺の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。 アリアの分析力は、時として悪魔的なまでの鋭さを見せる。事象改変で「事実」は隠せても、「肉体の微細な変化」までは隠しきれていなかったのだ。 「……師匠? クロエの寝室で、一体何の『生態調査』をしていたのですか? 私にも、詳しく教えていただけますよね?」 アリアの杖の先端に、【絶対零度(アブソリュート・ゼロ)】の冷気がチリチリと集束し始める。 「あーあ。ボウヤ、ピンチじゃない。私は知らないっと」 クロエは空になったプリンの皿を持ち、さっさと自分の部屋へ逃げていった。 「ま、待てアリア! これはその、熱力学のエントロピーがだな――」 「問答無用です」 俺の悲鳴は、リビングを包み込む美しくも恐ろしい氷河によって、完膚なきまでに掻き消されたのだった。
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