Tihoo / 第61話

第六十一話 「王女がカジノで身ぐるみ剥がされそうになったので、ニュートン力学と確率論で胴元を破産させた」

プリン事件から数日。 屋敷の中は、依然として冷ややかな緊張感に包まれていた。 「……師匠。今日の魔力波長も、少し乱れていますね。やはり、何か私に隠し事を?」 アリアが、淹れたての紅茶をテーブルに置きながら、眼鏡の奥をキラリと光らせる。 背後では、クロエが「キキッ」と意地悪そうに笑いながらクッキーをかじっていた。 ……息が詰まる。 一番弟子の鋭すぎる監視(と、ホムンクルスの無言の圧力)から逃れるため、俺はどうにかして屋敷を抜け出す口実を探していた。 「あー、そうだ! ヴィクトル、隣街に新しくできた『黄金のダイス亭』という巨大カジノをご存知ですの?」 不意に、シャルロットが扇子をパチンと鳴らして立ち上がった。 「カジノ、だと?」 「ええ! わたくし、最近どうも運気が有り余っている気がしますの。この溢れんばかりの『王族の豪運』で、資金を百倍に増やして差し上げますわ! さあ、護衛としてついてきなさい!」 普段なら「勝手に行け」と突き放すところだが、今の俺にとっては地獄からの蜘蛛の糸だ。 「……よし、行くか。たまには息抜きも必要だ」 「あら、私も行くわよ。ボウヤの財布の紐(とその他の紐)は私が握ってるんだし」 「……私も同行します。師匠とクロエを二人きりにするわけにはいきませんので」 結局、アリアとクロエもついてくることになり、胃痛の種は消えないまま、俺たちは隣街の巨大カジノへと足を踏み入れた。 ◇ 「さあさあ! 張った張った! 次は赤か、黒か!」 シャンデリアが輝く豪奢なフロア。ルーレット台の前で、シャルロットが目を血走らせていた。 「くっ……次こそ、次こそ『赤の7』に来ますわ! わたくしの直感がそう告げています! 全額ベットですわーーーッ!」 ドンッ! と、彼女の手元にあった(俺の財布からパクった)金貨の山が、ルーレットの盤面に叩きつけられる。 ディーラーの男が、口元にいやらしい笑みを浮かべて球を投げ入れた。 カラカラカラ……。 球が回転盤の上を踊り、やがて一つのポケットに吸い込まれた。 「……『黒の22』。お客様、残念でしたね。これで資金はゼロです」 ディーラーが冷酷に告げ、シャルロットの金貨をレーキで容赦なく回収していく。 「そ、そんな馬鹿な……!? わたくしの王族の直感が、十連続で外れるなんて……!」 シャルロットが膝から崩れ落ち、真っ白に燃え尽きた灰のようになった。 「……馬鹿はお前だ。完全にカモられてるじゃないか」 俺はため息をつきながら、ルーレット台に歩み寄った。 俺の『魔力視』の目にはハッキリと見えていた。ディーラーの指先に微弱な『風魔法』の糸が繋がり、球の軌道を強引にコントロールしているのが。 いわゆるイカサマだ。それも、魔法を使った悪質なやつ。 「おや? そちらのお連れ様も勝負されますか? それとも、お帰りですか?」 ディーラーが俺を小馬鹿にしたように見下ろしてくる。 「いや、俺がやる」 俺は懐から、白金貨(プラチナコイン)を一枚取り出した。金貨百枚に相当する、この世界での最高額紙幣ならぬ最高額硬貨だ。 「なっ……白金貨!? ひ、引き下がってくださいヴィクトル! 今日は台の機嫌が悪いんですの!」 「師匠、あのような下品な男の挑発に乗る必要は……」 シャルロットとアリアが止めるのを手で制し、俺は白金貨を『緑の00』――最も倍率の高い(36倍)一点掛け(ストレート・アップ)のマスに置いた。 「ほう……『00』ですか。随分と無謀な賭けですね。では、回しますよ」 ディーラーが鼻で笑い、球を弾いた。 同時に、彼の指先から微弱な風の魔力が放たれ、球を『00』から遠ざけようとする。 だが、無駄だ。 ――【物理演算:風力ベクトル相殺(ゼロ・フォース)】 俺はテーブルの下で指を鳴らし、ディーラーの放った魔法の干渉波を完全に打ち消した。 魔法が消えれば、あとはただの「物理現象」だ。 ルーレットの球の運動は、初期の角速度()、重力加速度、および盤面との動摩擦係数()によって完全に決定される。 回転運動の減衰は、以下のトルクと慣性モーメントの微分方程式で表される。 「回転盤の角速度、球の質量、反発係数……すべて計算通りだ」 俺はあらかじめ、球が落ちる瞬間と回転盤の位相が『00』で完全に一致するように、盤面全体の摩擦係数をほんの僅か(0.001%)だけ操作していた。 イカサマを力ずくでねじ伏せるのではなく、純粋なニュートン力学の帰結として、球をそこへ導いたのだ。 カラン、コロン……。 球は美しい放物線を描き、弾み、そして吸い込まれるように――『緑の00』のポケットに収まった。 「な……!?」 ディーラーの目が、限界まで見開かれる。 「……『00』だ。配当は36倍。さあ、払ってもらおうか」 「ば、ばかな! 私の風の操作が……いや、何かの間違いだ! もう一度だ!」 「いいぜ。次も『00』のストレート・アップで全額(白金貨36枚)だ」 大数の法則において、試行回数が無限に近づけば確率は収束するが、俺の物理演算の前では「確率」など存在しない。 確率は100%。必然の未来だ。 二回目。カラン……『緑の00』。 「ひっ……!?」 三回目。全額(白金貨1296枚)ベット。 カラン……『緑の00』。 「あ……あぁっ……」 四回目。 ディーラーは白目を剥き、口から泡を吹いてその場に卒倒した。 ◇ 「おっほほほほほ! 見ましたか一般庶民ども! これがわたくしたちの『実力』ですわーーーッ!」 カジノの金庫を物理的に空っぽにし、山のような白金貨を荷車(エリスが用意したゴーレム)に積んで、俺たちは意気揚々と店を出た。 シャルロットが、自分が勝ったかのようにふんぞり返っている。 「……マスター。魔法を使わず(正確には隠蔽して)、物理法則の操作だけでイカサマを破るとは。素晴らしい演算能力です」 アリアが尊敬の眼差しを向けてくる。よかった、少しだけ機嫌が直ったらしい。 「まぁ、ボウヤにしては上出来ね。これで一生分のプリンが買えるわ」 クロエが荷車の上でゴロゴロと転がっている。 結局、屋敷の重苦しい空気からは逃れられたが、俺の隠居生活の資金がまた無駄に(国家予算レベルで)増えてしまった。 平穏なスローライフへの道は、まだまだ遠そうだった。

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