Tihoo / 第70話

第七十話 「メイドが羞恥心から屋敷の摩擦係数をゼロにし、銀髪の双花が『ナッシュ均衡』に到達した」

ひったくり犯を生ゴミの山へシュートし、俺たちは買い出しの荷物を抱えて屋敷へと帰還した。 気まずい空気から逃れて数時間。少しは屋敷内の頭に血が上った連中(エリス、アリア、クロエ)も冷静になっているだろう。 ……そう甘い期待を抱いていた俺が馬鹿だった。 「な……なんですか、あれは! 屋敷が、屋敷が光り輝いていますわ!?」 屋敷の正門をくぐった瞬間、シャルロットが日傘を落として叫んだ。 俺も思わず目を細め、手で顔を覆う。 初夏の強い日差しを反射し、俺の屋敷の外壁が、まるで磨き上げられた鏡のようにギラギラと異常な光を放っていたのだ。 「ししょー! おうちがピカピカ! まぶしい!」 ミリムが目を回して俺の足に抱きついてくる。 「……嫌な予感しかしないぞ」 俺は恐る恐る、玄関へと続く石畳の小道に足を踏み入れた。 ――ツルンッ。 「おわっ!?」 革靴の底が、まるでスケートリンクの上を歩いたかのように完全に滑った。 慌てて体勢を立て直そうとするが、足元に全く「引っかかり」がない。 「きゃああっ!?」 後ろを歩いていたシャルロットが見事にすっ転び、そのまま悲鳴を上げながら、つるつるの石畳の上をカーリングのストーンのように滑っていく。 彼女はそのまま勢いよく玄関のドアに激突し、「ぐへぇっ」とカエルのような声を上げて停止した。 「……痛いですわ! なんなんですのこの地面! 氷魔法でもかけられているのかしら!?」 シャルロットが涙目で抗議するが、周囲の気温は高いままだ。氷などどこにもない。 「……いや、違う。これは物理的な『研磨』だ」 俺は地面に手をつき、石畳の表面を撫でた。 本来ならゴツゴツしているはずの石の表面が、顕微鏡レベルで完全に平滑に削り取られている。 動摩擦力()は、垂直抗力()と動摩擦係数()の積で表される。 文系のお前らにもわかるように簡単に言えば、「物の滑りにくさ」は表面のザラザラ具合で決まる。 そして今のこの石畳は、そのザラザラ()が極限までゼロに近づけられている状態だ。 「誰だ、こんな異常なレベルで屋敷中を磨き上げたのは……」 『――不浄です。全ての汚れ、淀み、そして私自身の脳内メモリの不純物を、削り落とさなければ……』 玄関の横の柱から、ブツブツと呪詛のような声が聞こえた。 見れば、メイド服姿のエリスが、両手に持った雑巾を超高速で往復させながら柱を磨いていた。 その手の動きは完全に残像を生んでおり、摩擦熱で雑巾から白い煙が上がっている。 「エリス! お前、何をやっている!」 「ハッ!? ご、ご主人様!!」 エリスはビクッと肩を震わせると、またしても顔を茹でダコのように真っ赤に染めた。 どうやら、昨夜の「一人での行為」を見られた羞恥心を誤魔化すために、屋敷の掃除に全エネルギーを注ぎ込んで現実逃避していたらしい。 「も、申し訳ありません! 私としたことが、動揺のあまり、屋敷の動摩擦係数を極限まで下げるレベルのブラッシングを行ってしまいました! 今すぐ元のザラザラに戻します!」 「これ以上削ったら柱が折れる! もういい、お前は自室で休んでろ!」 ポンコツ化したメイドを強制的に休ませ、俺たちはまるで氷上のペンギンのようにヨチヨチ歩きで、なんとか屋敷の中へと入った。 廊下も当然のようにつるつるで、シャルロットはすでに三回壁に激突して気絶しかけている。 ◇ 「……ひどい目に遭った。アリア、クロエ、ただいま戻ったぞ」 俺はリビングの重厚な扉を開けた。 そこには、俺の帰りを待っていたであろう二人の姿があった。 「「おかえりなさい(ませ)、師匠(ボウヤ)」」 声が、完全にハモった。 俺は背筋にゾクッと冷たいものを感じて、扉の前に立ち尽くした。 リビングのソファ。 いつもなら、少しでも俺の隣をキープしようとバチバチに火花を散らしているアリアとクロエが、今日はなぜか「隣同士」に座り、優雅に一つのティーポットから紅茶を注ぎ合っているのだ。 「……お前ら、喧嘩でもしたのか? いや、逆か?」 「喧嘩などしていませんよ、師匠。むしろ、わたくしたちは非常に建設的な『議論』を交わし、一つの真理に到達したのです」 アリアが眼鏡をクイッと押し上げ、静かに微笑む。その笑顔が逆に怖い。 「そうよ、ボウヤ。私たちが争えば争うほど、ボウヤは面倒くさがって逃げるか、あるいはエリスや王女の方へ目移りしてしまう。それは私たちにとって、最大の『損失』だと気づいたの」 クロエが脚を組み替えながら、妖艶な笑みを浮かべる。 「……嫌な単語が聞こえたな」 「ええ。数学におけるゲーム理論、いわゆる『ナッシュ均衡』です」 アリアがテーブルの上に、一枚の羊皮紙を滑らせた(テーブルもエリスによって研磨されているため、羊皮紙はスーッと俺の手元まで滑ってきた)。 「わたくしとクロエが互いに牽制し合う状態(非協力ゲーム)では、師匠の愛情(リソース)を取りこぼす可能性が高い。ならば、互いの行動を妥協し、協力体制を築くことで、最大の利益(師匠との時間)を確保できるという結論に至りました」 羊皮紙には、恐ろしく緻密な『ヴィクトル共有スケジュール』が記されていた。 月・水・金:アリアによる魔術指導及び、夜の密着護衛(同室就寝)。 火・木・土:クロエによる事象改変の実験及び、夜の添い寝(同室就寝)。 日曜日:三人での合同研究(※内容は要相談、拒否権なし)。 「おい待て。俺の休日はどこにある。それに、なぜ就寝時が常に誰かとセットになっているんだ」 「キキッ、いいじゃない。ボウヤは寂しがり屋なんだから。それに、昨夜みたいに『どっちを選ぶか』でボウヤを困らせることもなくなるわ。完璧なスケジュールでしょ?」 クロエが立ち上がり、滑る床をものともせずに俺の左腕にスルリと絡みついてきた。 「師匠。わたくしも、もう感情に任せてクロエと争うような子供じみた真似はしません。これからは、大人の余裕を持って師匠を『管理』させていただきます」 アリアも立ち上がり、俺の右腕にガッチリと抱きつく。 右からは、冷ややかで計算高い一番弟子の圧。 左からは、甘く逃げ場を塞ぐホムンクルスの圧。 二人はもう争わない。結託し、完全に俺というシステムを掌握しに来たのだ。 「……エリス! エリスはどこだ! 塩でもからしでもいいから持ってこい! この状況を中和してくれ!」 俺は助けを求めて叫んだが、廊下からは「動摩擦係数を……計算し直し……」というエリスのうわ言しか聞こえてこない。 シャルロットは床で気絶し、ミリムは俺の足元で「つるつるー!」と床を滑って遊んでいる。 物理法則(摩擦係数ゼロ)によって逃げ道を塞がれ、数学的理論(ナッシュ均衡)によって退路を絶たれた俺。 「さあ、師匠(ボウヤ)。今日は日曜日……合同研究の時間ですよ♡」 銀髪の双花が、全く同じ顔で、同時に美しく残酷な微笑みを浮かべた。 俺の平穏なスローライフは、数学と物理の暴力によって、完全に詰み(チェックメイト)を迎えたのだった。
「文字数多くて大満足!」「ナッシュ均衡の使い方が酷いw」 と思っていただけたら、 【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】評価をお願いします!

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