Tihoo / 第71話

第七十一話 「魔物の群れと、砕け散る日常。共振現象が暴く『作られた狂気』」

右腕には冷徹な一番弟子、左腕には妖艶な恩師(ホムンクルス)。 完全に逃げ場を失い、ナッシュ均衡という名の数学的牢獄に囚われた俺は、目前に迫る『合同研究』という名の甘い処刑を前に、冷や汗を流していた。 「さあ、師匠。まずは魔力回路の接続(スキンシップ)から始めましょうか」 「ボウヤの魔力、隅々まで解析してあげるわ」 二人の顔が同時に近づいてきた、まさにその瞬間だった。 ――バンッ!! 摩擦係数ゼロに磨き上げられたリビングの重厚な扉が、乱暴に開け放たれた。 勢い余ってツルリと床を滑り、そのままダイニングテーブルの脚に激突して倒れ込んだのは、見慣れた領兵の鎧を着た若者だった。 その鎧は赤黒い血と泥に塗れ、肩口からは生々しい裂傷が覗いている。 「ヴィ、ヴィクトル様……っ! 急報、です……!」 若き領兵は、血を吐きながら床にすがりついた。 「どうした。何があった」 俺は即座に立ち上がった。両腕に絡みついていたアリアとクロエも、一瞬にして『女』の顔から『戦士』の顔へと切り替わり、音もなく立ち上がる。 「村に……魔物の群れが……っ! 西の森から、突如として湧き出して……数が、多すぎます……自警団だけでは、もう……!」 そこまで言い残し、領兵は意識を手放した。 すぐさまエリスが駆け寄り、手早く治癒魔法をかけ始める。 「……アリア、クロエ。遊びは終わりだ」 俺は壁に立てかけてあった愛用の杖(ただの質量のある鉄の杖だ)を手に取った。 甘いハーレム展開から逃れられた安堵など、とうに吹き飛んでいた。領地に住む民の命が脅かされている。辺境の隠居魔法使いとはいえ、俺はここの領主であり、何より――あいつらの『師』なのだ。 「了解しました、師匠。氷結武装、展開完了」 アリアの周囲の空気が凍てつき、瞬時に絶対零度の冷気が彼女の身を包む。 「……仕方ないわね。ボウヤとの夜はお預けだけど、少し暴れさせてもらうわよ」 クロエの赤い瞳が、捕食者のように鋭く細められた。 「シャルロットは屋敷に残れ! エリス、屋敷の防衛機構を最大レベルで起動しろ。ミリム、お前は俺たちの前衛だ!」 「わかった! ししょーの敵、ミリムがやっつける!」 俺たちは風魔法で全身を包み込み、屋敷の窓から一直線に、黒煙が上がる西の村へと飛翔した。 ◇ 村に到着した俺たちを待っていたのは、むせ返るような血と焦げた肉の臭い、そして、異様な光景だった。 「ギャァァァァッ!!」 「ルルルォォォォォッ!!」 村の広場や家々の間を埋め尽くすように這い回っているのは、本来なら森の深部にしか生息しないはずの『ゴブリン』や『ファングウルフ』の群れだった。 だが、その姿は明らかにおかしい。 体格は通常の二倍近くに膨れ上がり、皮膚を突き破るほど筋肉が異常発達している。そして何より異様なのは、その額や肩に、不気味な赤紫色の『魔力紋(クレスト)』が焼き付けられていることだ。 「師匠、あれは……!」 上空から村を見下ろし、アリアが息を呑む。 「ああ。自然発生した魔物じゃない。意図的に造り出された『生体兵器』だ」 彼らの目には知性も、野生の恐怖すらもない。ただ破壊と殺戮のプログラムを入力された機械のように、村の防壁を素手で殴り壊し続けている。自らの拳が砕け、骨が露出してもお構いなしだ。 「……気持ち悪い連中ね。生命の理を歪めているわ。私の『事象改変』よりも悪趣味」 クロエが嫌悪感露わに吐き捨てる。 「数は約三百。一体一体の魔力反応は大したことないが、あの狂暴性は脅威だ。……一気に殲滅するぞ」 俺が指示を出すと同時、ミリムが弾丸のように地上へと急降下した。 「がああああっ!!」 ドゴォォォォン!! 竜娘の小さな拳が、先陣を切っていた巨大な変異オークの顔面にめり込む。凄まじい運動エネルギーがオークの頭部を消し飛ばし、その衝撃波だけで周囲のゴブリン数十体が紙くずのように吹き飛んだ。 「……素晴らしい質量兵器ぶりだな。アリア、左翼を制圧しろ。クロエは右翼の乱戦状態を解け」 「イエス、マスター。――【氷結界・白夜(アブソリュート・プリズン)】」 アリアが杖を振り下ろすと、広場の左半分を覆うように、絶対零度の吹雪が吹き荒れた。暴れ狂っていた変異魔物たちは、悲鳴を上げる間もなく、細胞の活動を完全に停止させられ、美しい氷の彫像へと変わっていく。 「じゃあ、私はこっちね。……ふふっ、お前たちの攻撃のベクトル、全部『逆』にしてあげる」 クロエが指をパチンと鳴らす。 右翼で村人たちに襲いかかろうとしていた魔物たちの爪や牙が、不自然な軌道を描いて捻じ曲がり、自らの、あるいは仲間の急所を的確に貫いていく。 因果律を弄る事象改変。防ぐ手段など存在しない、圧倒的な蹂躙劇だ。 「さて……」 俺は村の中央に降り立ち、杖を地面に突き立てた。 戦況は圧倒的有利だが、魔物たちは仲間がどれだけ死のうが一切怯まず、波状攻撃を仕掛けてくる。生物としての生存本能が完全に切除されている証拠だ。 「痛覚も恐怖もない肉の塊か。……だが、物理法則からは逃れられない」 俺の『魔力視』は、奴らの体に刻まれた赤紫色の魔力紋(クレスト)が、ある一定の周波数で明滅しているのを捉えていた。 あれが奴らの制御中枢であり、異常な身体能力の動力源だ。 「すべての物体には、必ず固有の振動数がある。橋の揺れから、ワイングラスの崩壊に至るまで……外部から同じ周波数の振動を与えれば、エネルギーは無限に増幅し、自壊する」 ――【物理演算:固有振動数の同定(レゾナンス・スキャン)】 俺は魔力紋の構成物質を瞬時に解析した。 炭素とミスリルの化合物をベースにした、特殊な人工結晶。その固有振動数は……毎秒43,000ヘルツ。超音波の領域だ。 「終わりだ。お前らの心臓(コア)を、物理的に砕く」 ――【広域物理干渉:共鳴破壊(レゾナンス・ブレイク)】 俺は杖を媒介にし、空気を震わせて不可視の『超音波パルス』を全方位に放った。 人間の耳には全く聞こえない。だが、魔物たちに刻印された赤紫色の魔力紋だけが、その音波に強烈に『共振』を始めた。 ピシ……ッ。 ピキキキキキッ!! 魔物たちが一斉に動きを止めた。 彼らの皮膚に埋め込まれた結晶が、許容量を超える振動エネルギーに耐えきれず、次々と自壊していく。 「ギィ……ガ、ガァァッ……!?」 制御中枢を物理的に粉砕された魔物たちは、糸の切れた操り人形のように、パタリ、パタリと音を立てて地面に倒れ伏していった。 ほんの数秒の出来事だった。三百の狂気は、文字通り音もなく全滅した。 ◇ 「……終わったようですね、師匠」 氷の彫像と化した死骸の山を越え、アリアが静かに歩み寄ってきた。 ミリムは血のついた手をエリス(いつの間にか合流していた)に拭いてもらっている。 「ああ。村の被害状況を確認させろ。怪我人はエリスの治癒部隊に回すんだ」 俺は短く指示を出しながら、足元に転がっているゴブリンの死体をしゃがみ込んで観察した。 頭部に埋め込まれていた人工結晶は、俺の超音波で完全に粉砕され、ただの灰色の粉になっている。 「……ボウヤ、どう思う?」 クロエが、普段のからかうような口調を捨てて、真剣な眼差しで死体を覗き込んだ。 「明らかに『人為的』だ。この魔力紋、どこかの魔術工房で規格化された量産品(パーツ)のようだった。……単なる狂った魔術師の実験レベルじゃない」 「ええ。それに……」 アリアが眼鏡の奥の瞳を険しくする。 「これほどの数の魔物を、誰にも気づかれずに森の中に転送する技術。……王国の『空間魔術師団』レベルの設備がなければ不可能です」 俺たちは無言で顔を見合わせた。 これは、ただの魔物討伐ではない。 一体一体は弱い雑魚だったが、これを生み出し、制御し、辺境の村に放った『黒幕』が確実に存在する。 ただの嫌がらせか、何かの実験データの収集か、あるいは――この領地にいる『俺(かつてエンシェント・ゴーレムを単機で沈めた魔法使い)』の戦力を測るための、悪趣味なデモンストレーションか。 「……厄介なことになったな」 俺は立ち上がり、黒煙の向こう、魔物たちが現れた西の深い森を睨みつけた。 平穏なスローライフは、どうやら終わってしまったらしい。 冷たい風が吹き抜け、足元の灰色の粉を不吉に舞い上がらせた。屋敷で過ごしていたあの甘く生温かい時間は、もう手の届かない場所へと消え去っていた。
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