Tihoo / 第58話

第五十八話 「師匠の影、罪深きホムンクルス、そして初めての夜」

エルフの里での宴は、深夜まで続いた。 マグマトータスを追い払い、温泉を復活させた俺たちは、里の英雄としてこれ以上ないほどにもてなされていた。 森の果実で作られた美酒、見たこともない料理。 上機嫌なシルフィ王女が隣に張り付き、「さあ、あーんしてください!」と果実を口に押し込んでくるのを適当にあしらいながら、俺はエルフの長老の話に耳を傾けていた。 「……それにしても、ヴィクトル殿の魔力操作、実に見事じゃった。あのような繊細な地脈への干渉、数百年前の『あの方』以来じゃのう」 「あの方?」 俺がグラスを傾けると、長老は懐かしそうに目を細めた。 「うむ。かつて、この世界樹の湯をこよなく愛した人間の魔女がおってな。彼女はよく、湯に浸かりながら難解な魔導書を読んでおった。……そうそう、彼女はこの湯の効能を高めるためと言って、特殊な発光苔を植えていったのじゃが……」 長老が指差した先。湯煙の向こうの岩肌に、青白く幻想的な光を放つ苔が群生していた。 それを見た瞬間、俺の心臓がドクンと跳ねた。 「……あれは、『月光苔(ムーン・モス)』?」 ただの発光苔ではない。魔力を吸収して成長し、周囲の魔素を安定させる効果がある、非常に希少な植物だ。 そしてそれは――師匠(エレオノーラ)が、自身の研究室で愛でていたものと全く同じ品種だった。 「おや、ご存知かな? その魔女の名は、確か……エレオノーラと言ったかのう。気難しいが、芯の強い御仁じゃった」 ――カラン。 俺の手から、木製のグラスが滑り落ちて床に転がった。 「ヴィクトル様? どうなさいましたの?」 シルフィが心配そうに覗き込んでくる。 「……いや、なんでもない。少し、酔いが回ったようだ」 俺はふらりと立ち上がった。 喧騒から逃れるように、俺はあてがわれた客室――世界樹の幹をくり抜いて作られた静かな部屋へと戻った。 ◇ 部屋に戻っても、酔いは覚めなかった。むしろ、胸の奥のざわめきは強くなるばかりだった。 師匠が、ここに来ていた。 数百年前、俺と出会うずっと前に。 あの偏屈で、研究室に引きこもってばかりだと思っていた師匠が、こんな遠い地で温泉を楽しんでいたなんて。 「……知らなかったな」 俺はベッドに腰掛け、膝に顔を埋めた。 不意に、師匠の最期の瞬間がフラッシュバックした。 ――薄暗い部屋。老衰で動けなくなった師匠の、枯れ木のような手。 ――『ボウヤ、泣くな。みっともない』 ――『死はただの物理現象だ。エントロピーの増大に過ぎん。……私の計算は、ここまでだ』 最後まで皮肉屋で、合理主義者を装っていた師匠。 だが、その手を握った時、彼女が微かに震えていたのを俺は知っている。 「……師匠……」 目頭が熱くなった。 あの日、俺は泣かなかった。師匠の言いつけ通り、物理現象として彼女の死を受け入れたつもりだった。 だが、今夜はダメだ。エルフの秘酒のせいか、それとも思いがけない師匠の痕跡に触れたせいか。 一度溢れ出した感情は、止めどなく頬を伝い落ちた。 静かな部屋で、俺は声を殺して泣いた。 最強の魔法使いの、誰にも見せられない無様な姿だった。 ギィィ……。 不意に、木の扉がきしむ音がした。 「……誰だ」 俺は慌てて涙を拭い、顔を上げた。 そこに立っていたのは、銀色の髪と、赤い瞳の少女。 クロエだった。 「……クロエか。何の用だ。今は一人にしてくれ」 俺は顔を背けた。 だが、クロエは部屋に入ってくると、静かに扉を閉めた。 いつもの減らず口も、生意気な態度もない。彼女は黙って俺のベッドの端に座った。 「……泣いてるの? ボウヤ」 「……うるさい。酒が目にしみただけだ」 「嘘ね。……エレオノーラのことを、思い出してたんでしょ?」 図星だった。 俺は何も言い返せず、ただ沈黙した。 クロエが、少しずつ俺の方へとにじり寄ってくる。 月明かりに照らされたその顔は、俺の一番弟子であるアリアと完全に瓜二つだった。 だが、俺を見つめるその赤い瞳の奥にある『光』は、間違いなく師匠のものだ。 「……ねえ、ボウヤ」 クロエの小さな手が、俺の濡れた頬に触れた。 ビクリと肩が震える。 「そんなに辛いなら……私が、慰めてあげようか?」 「……なに?」 「顔はあの堅物な弟子(アリア)と同じで不満かもしれないけど……中身は、貴方がずっと追い求めてる『エレオノーラ』よ」 クロエが、自身の着ていた薄い寝間着の襟元に手をかけた。 するりと、白い布が肩から滑り落ちる。 白磁のような素肌が露わになった。 「……っ、お前、何を……!」 「いいじゃない。減るもんじゃないし」 クロエは悪戯っぽく笑ったが、その声は微かに震えていた。 「私はホムンクルス。エレオノーラの記憶を受け継いだだけの、空っぽの器。……でも、貴方が望むなら、今夜だけは完璧な『代用品』になってあげる」 一番弟子と同じ顔をした少女が、恩師の口調で、自ら体を差し出してくる。 あまりにも歪で、背徳的で、そして狂おしいほどの誘惑だった。 「……馬鹿なことを言うな。お前は師匠じゃないし、アリアでもない」 「でも、知識も、記憶も持ってるわ。……体だって、ただの物理的な質量と熱量の塊。需要と供給が一致しただけの、ただの『物理現象』よ」 それは、師匠がよく口にしていた言葉の真似だった。 クロエが俺の首に腕を回し、体重を預けてくる。 柔らかい感触。温かい体温。 師匠の最期の、あの冷たい手とは違う、生身の熱。 俺の理性が、音を立ててきしみ始めた。 「……クロエ、やめろ。後悔するぞ」 「後悔なんてしない。……だって私は、貴方に『使われる』ためにここにいるんだもの」 彼女の赤い瞳が、潤んで俺を見つめている。 そこにあるのは、単なる欲望だけではない。自身の存在意義を俺に認めさせたいという、ホムンクルスとしての哀しい渇望が見えた。 「……ボウヤ。私を見て。私で、その穴を埋めてよ」 彼女の唇が、俺の唇に触れた。 不器用で、少し乱暴なキス。 その瞬間、俺の中の何かが完全に切れた。 アルコールの熱と、師匠への思慕と、一番弟子と同じ顔を持つ少女の体温が混ざり合い、思考が白く塗りつぶされていく。 「……くそっ」 俺は彼女の細い腰に腕を回し、そのままベッドに押し倒した。 「……んっ!」 クロエが短く息を呑む。 視界いっぱいに広がる銀髪。アリアと同じ顔。師匠と同じ魂。 俺は彼女が師匠ではないと知っている。これはただの逃避だ。代償行為だ。 だが、今この瞬間、俺はこの温もりに縋らずにはいられなかった。 「……ヴィクトル……」 初めて、彼女が俺の名前を呼んだ。 その声は、師匠のそれと残酷なほどに似ていて。 俺は彼女の唇を塞ぎ、その先にある熱に溺れていった。 世界樹の森の静寂の中、衣擦れの音と、熱い吐息だけが響いていた。
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