Tihoo / 第82話

第八十二話 「レナード・ジョーンズ・ポテンシャルによる細胞接合。麻酔なしの接続手術で、一番弟子は俺の腕の中で忠誠を誓う」

王都の地下迷宮から帰還した俺たちは、エリスたちが待つ高級宿の一室を、即席の『無菌手術室』へと作り変えていた。 「エリス、部屋の空気中の微粒子(パーティクル)を完全に排除しろ。俺の【絶対防壁】の内側を、クラス100のクリーンルームと同等以上の清浄度に保つんだ」 「かしこまりました、ご主人様。メイドたるもの、チリ一つ残さぬ完璧な空間をご用意いたします」 エリスが重力魔法と風魔法を応用して、部屋中の目に見えない塵や細菌を換気口へと強制排気していく。 ベッドの上には、右肩から先を失い、青ざめた顔で横たわるアリア。そしてその傍らには、クロエが『事象改変』で細胞の時間を完全に停止させた、彼女の右腕が置かれていた。 「アリア。これからお前の腕を繋ぎ合わせる」 俺は白衣の代わりとなる滅菌済みのコートを羽織り、ベッドの横に腰を下ろした。 「……はい、師匠。よろしくお願いいたします」 アリアは痛みを堪えながら、弱々しく微笑んだ。 「ただし……全身麻酔は使えない。神経細胞の活動電位を薬物で遮断してしまうと、俺がミクロの単位で神経の『配線(アナストモーシス)』を行う際、正しい電気信号が通っているかどうかのフィードバックが得られなくなるからだ」 俺の言葉に、部屋の空気がピンと張り詰めた。 切断された骨、血管、そして無数の神経を、意識がある状態で繋ぎ直す。それがどれほどの激痛を伴うか、想像に難くない。 「がおー……アリア、痛いの? かわいそう……」 ミリムがベッドの端で、涙ぐみながらアリアの左手をきゅっと握りしめている。 「大丈夫ですよ、ミリムちゃん。わたくしは、師匠の一番弟子ですから……これくらい」 「強がらなくていい。痛ければ叫べ。俺が全力で抱き留めてやる」 俺はアリアの上半身をそっと抱き起こし、自分の胸に寄りかからせた。俺の左腕で彼女の身体をしっかりと固定し、右手には錬金術の術式を高度に圧縮した魔力を集束させる。 「クロエ、まずは大まかな『因果(マクロ)』の接続を頼む」 「ええ、任せて。ボウヤの可愛いお姫様の腕だもの、傷跡ひとつ残さないわ」 クロエが真紅の瞳を輝かせ、事象改変の魔力糸で、アリアの右肩と、切断された右腕の座標をピタリと重ね合わせた。 空間崩壊トラップによって失われていた「腕が繋がっているという事実」が、強引に書き換えられ、仮留めされる。 「よし。ここからは俺の領域(ミクロ)だ」 俺は、ピッタリと合わさった切断面に右手をかざした。 「骨組織と血管の再建は完了した。問題は神経細胞と、細胞膜同士の完全な融合だ」 俺が展開するのは、原子や分子の間に働く引力と斥力を操作する魔法。 二つの粒子間の距離()における相互作用ポテンシャルは、レナード・ジョーンズ・ポテンシャルとして近似される。 「細胞膜を構成するリン脂質二重層を、ファンデルワールス力(分子間力)の引力が最大になる絶妙な距離(ポテンシャルの底)で正確に噛み合わせ、共有結合で完全に縫い合わせる!」 ――【錬金術:分子間力最適化(レナード・ジョーンズ・バインディング)】! 俺の指先から放たれた目に見えないミクロの魔力ピンセットが、数億、数十億という細胞を同時に縫い合わせ始めた。 「……っ!! あ、ぁぁぁ……っ!!」 その瞬間、アリアの身体がビクンと大きく跳ね、喉の奥から凄まじい悲鳴が漏れた。 麻酔なしで神経束が強制的に接続され、止まっていた電気信号が一気に脳へと駆け巡る激痛。 「アリア、耐えろ! 俺から離れるな!」 俺は暴れそうになるアリアの身体を、胸に強く抱きしめて押さえ込んだ。 「はぁ、はぁっ……! し、しょう……っ! い、いた、痛い……です……っ!」 アリアの瞳から大粒の涙が溢れ、俺のコートを左手でちぎれんばかりに強く握りしめる。彼女の額には脂汗が浮かび、歯を食いしばるあまり唇から一筋の血が流れた。 「電気信号の開通を確認。運動神経、感覚神経、すべて正常なルートで接着しているぞ。もう少しだ!」 俺は冷徹な物理学者の頭脳でミクロの演算を続けながらも、感情を持った一人の男として、愛弟子の背中を強く、優しく撫で続けた。 「よく頑張っている、アリア。お前のその手で、また俺に極上の紅茶を淹れてくれるんだろう? ここで諦めるな」 「っ……! はい……! わたくしは……師匠の、ために……!」 アリアは俺の胸に顔を埋め、声を押し殺して痛みに耐え続けた。 クロエが絶え間なく因果の崩れを補強し、俺が分子レベルで細胞を紡ぐ。理系と文系の最高峰の魔術が、ひとりの少女の腕の中で完璧なシナジーを生み出していた。 そして――。 「……演算終了。細胞の完全結合を確認した」 俺が魔力を解くと同時に、アリアは糸が切れたように俺の腕の中でぐったりと力を抜いた。 「アリア、右手の指を動かせるか?」 静まり返った部屋の中で、全員が固唾を呑んで見守る。 アリアは荒い息を整えながら、ゆっくりと右腕に意識を集中させた。 ピクリ。 氷のように白く細い指先が、わずかに動いた。 続いて、人差し指、中指、そして手全体が、まるで何事もなかったかのように滑らかに、そして力強く握り込まれた。 右肩の切断痕は、クロエの事象改変のおかげで傷跡ひとつ、赤みすら残っていない。 「動機……動きます……。痛みも、痺れも、まったくありません。完璧な……わたくしの腕です」 アリアは自分の右手を見つめ、それから俺を見上げて、ふわりと、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。 「ありがとうございます、師匠……! これでまた、師匠のお世話ができます!」 「馬鹿野郎。今日はもう休め」 俺は安堵のあまり深いため息をつき、アリアの銀髪を少し乱暴に撫でた。 「フフッ、本当に過保護なご主人様ね。……でも、最高の執刀だったわよ、ボウヤ」 クロエが、額の汗を拭いながら妖しく微笑みかけてくる。 「がおー! アリア、腕くっついてよかったー!!」 ミリムが泣き笑いしながらアリアに飛びつき、ベッドの上が一気に賑やかになった。 王都の地下での死闘と、絶望的な喪失からの生還。 俺たちはこうして、物理法則と魔法の力で、奪われかけた平穏な「スローライフ(の要となる弟子)」を無事に取り戻したのだった。
「アリア頑張った!」「最強の医療魔法!」 と思っていただけたら、 【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】評価をお願いします!

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