芦名 雅 / 第3話

第3話 酒の席なんだから水に流せ。処理します

 酒を飲めば本音が出るという。  営業二課長の岩崎浩二の場合、出てきたのは本音ではなく迷惑だった。  しかも、徳利を持って新人へ迫るという、非常に分かりやすい形で出てきた。 「おい西川! グラス空いてんぞ!」  午後八時三十七分。駅前の居酒屋《川しずく》では、営業二課の歓迎会が始まって一時間も経たないうちに、岩崎の声だけが宴会場の適正音量を大きく超えていた。  四十八歳。緩めたネクタイを鉢巻きのように額へ巻き、片手に徳利を握っている。酔うと声が三割増しになり、自分を面白い人間だと思い始める男だった。  向かいに座る新入社員、西川真琴は、両手でウーロン茶のグラスを守っていた。小柄な身体をさらに縮め、肩まである髪を耳へかけながら、もう三度目になる説明を繰り返す。 「すみません。体質的にお酒が飲めないんです」 「飲めないんじゃない! 飲まないから飲めないんだ!」 「飲んだら具合が悪くなります」 「最初はみんなそうなんだよ!」 「医師から止められています」 「医者はお前の上司じゃないだろ!」  営業二課の社員たちが、一斉に目を伏せた。  医師より上司の方が人体に詳しいという新説が、歓迎会の席で誕生した。 「ほら、一杯だけ! 一杯だけだから!」  岩崎が徳利を傾ける。  西川はグラスを胸元へ引いた。 「本当に無理です」 「俺の酒が飲めないっていうのか!」 「岩崎課長が造ったお酒なんですか」 「そういう意味じゃねえ!」  隣の若手社員が、小さく吹き出した。  岩崎が睨むと、若手社員は咳に変えた。 「新人なら付き合いを覚えろ! 酒を飲んでこそ本音で話せるんだよ!」 「飲まなくても、今かなり本音を言っています」 「生意気なんだよ!」  岩崎が西川の腕をつかもうとした、そのときだった。 「確認します」  宴会場の襖が、音もなく開いた。  黒いスーツに銀色のバッジ。片手には、居酒屋にまったく似合わない業務用タブレット。  社内ハラスメント撲滅課の黒瀬が、焼きおにぎりの載った小皿を持って立っていた。  岩崎の酔いが、一瞬で半分ほど消えた。 「またお前か!」 「直接お会いするのは初めてです」 「社内掲示で何度も見たんだよ! 窓と自動ドアの件で!」 「周知済みであれば、説明を省略します」 「そういう意味じゃねえ!」  営業二課の何人かが、窓の位置を確認した。  川沿いの店である。宴会場の窓の向こうには、街灯を映した細い川が流れていた。 「安心してください」  黒瀬が言った。 「まだ処理は認定していません」  社員たちは窓から目を戻した。 「西川真琴さん」 「はい」 「飲酒を拒否しましたか」 「三回、断りました」 「岩崎課長」  黒瀬が視線を移す。 「拒否された後も勧めましたね」 「歓迎会だぞ。酒を勧めただけだ!」 「西川さんが医師から飲酒を止められていることは」 「今聞いた!」 「歓迎会の出欠確認メールにも記載されています」  黒瀬が画面を示す。 『アルコール不耐症のため、飲酒不可。ソフトドリンクを希望します』  その下には、岩崎本人の返信が残っていた。 『了解。無理に飲ませることはありません』  座敷が静かになった。 「……覚えてねえな」 「送信記録があります」 「社交辞令だよ!」 「何に対する社交ですか」 「細かいことばっかり言うな!」  黒瀬は西川の席に置かれた小さな猪口を確認した。 「こちらは」 「岩崎課長が置きました」 「飲まなければ今後の取引先同行から外す、とも言われました」 「冗談だ!」 「笑った方はいますか」  黒瀬が座敷を見渡した。  誰も手を挙げなかった。 「ほら、全員酔ってるから覚えてないんだよ!」 「歓迎会開始から録音されています」 「また録音かよ!」 「会社主催の懇親会について、参加者の同意を得て記録しています」 「いつからそんなことになった!」 「昨日からです」 「対応が早すぎる!」 「業務改善です」 「またそれか!」  黒瀬が録音を再生した。 『飲まないなら、来月から外回りはさせねえぞ』 『新人が俺に恥をかかせる気か』 『潰れるまで飲めば、次から飲めるようになる』  聞けば聞くほど、岩崎の顔から酒気とは別の赤みが増していく。 「切り取りだ!」 「開始から現在まで、連続した記録です」 「酒の席の冗談を真に受けるな!」 「西川さんは笑っていません」 「ノリが悪いだけだ!」 「取引先同行から外すとの発言は、職務上の不利益を示唆しています」 「そんなの明日になれば忘れてる!」 「忘れることは、発言しなかったことにはなりません」  岩崎は徳利を置き、今度は両手を広げた。 「俺はみんなと仲良くしたいだけなんだよ! 腹を割って話すには酒が必要なんだ!」 「西川さんは、飲酒せずに意思を伝えています」 「だから固いんだよ! 昔は上司に注がれた酒を断る奴なんかいなかった!」 「断れなかった可能性があります」 「今さら昔の話を蒸し返すな!」 「今回の事実を確認しています」  黒瀬はタブレットを一度だけ操作した。 「飲酒不能であることを事前に把握しながら、拒否後も飲酒を反復要求。人事上の不利益を示唆し、身体への接触を試みた」 「待て!」 「アルコールハラスメント、および職務上の地位を利用した威圧。認定」 「こんなの大げさだ!」 「処理します」 「待て待て! 酒の席なんだぞ!」  黒瀬が焼きおにぎりの皿を、近くの社員へ預けた。 「酒の席のことなんだから、水に流せよ!」  黒瀬の動きが止まった。  営業二課の全員も止まった。  それから、全員の視線がゆっくり窓へ向かった。 「承知しました」 「え?」  岩崎だけが、何も分かっていなかった。 「黒瀬さん」  西川が恐る恐る尋ねる。 「まさか」 「店の裏を流れる川は、水深一・二メートル。流速は毎秒〇・四メートルです」 「なんで調べてあるんですか!?」 「処理候補経路として、来店時に確認しました」 「焼きおにぎりを食べに来たんじゃなかったんですか!」 「両方です」 「両立させないでください!」  黒瀬は窓際に置かれた救命浮環を手に取った。川床へ降りる非常階段と、下流二十メートル地点の転落者用ネットも目視する。 「安全設備、確認済みです」 「安全ならいいって話じゃねえ!」  ようやく状況を理解した岩崎が、座敷の奥へ逃げた。 「比喩だ! 水に流すっていうのは、忘れろって意味だ!」 「確認済みです」 「じゃあ言葉どおりに受け取るな!」 「今回は、言葉どおりに処理します」 「今回はって言うな!」  黒瀬が岩崎の胴へ救命浮環を通した。 「何をする!」 「浮力を確保します」 「そこまで準備するならやめろ!」 「処理と安全確保は両立します」 「両立させるなああああ!」  黒瀬は窓を開けた。  営業二課の社員たちが、誰に言われるでもなく左右へ退く。窓の前に、一本の処理経路ができた。 「お前ら、順応するな!」 「前例がありますので」  若手社員が答えた。 「うちの課では初めてだろ!」 「社内掲示で動画を見ました」 「動画にするな!」 「安全教育用です」 「教育を間違えてる!」  黒瀬が岩崎を持ち上げる。 「処理します」 「酒は悪くない! 俺も悪くない!」 「酒は処理しません」 「俺だけ!?」 「はい」  ドン。  岩崎は救命浮環をまとったまま窓を抜け、夜の川へ吸い込まれた。  盛大な水音が響く。  数秒後、黄色い救命浮環が下流へ流れていった。その中央で、岩崎が両手両足をばたつかせている。 「本当に水に流すなああああ!」  下流の転落者用ネットが、岩崎をきちんと受け止めた。  黒瀬は時間を確認する。 「処理時間、三十七秒」 「救助は!?」  西川が声を上げた。 「店員が向かっています」 「戻ってくるんですか?」 「処理と廃棄は別です」 「その区別、必要ですけど聞きたくありませんでした」  黒瀬は社員から焼きおにぎりの皿を受け取った。 「冷めました」 「そこを一番残念そうに言わないでください」  黒瀬はタブレットへ入力する。 「本件、解決」  西川は、岩崎の徳利をテーブルの端へ避けた。 「あの、黒瀬さん」 「はい」 「焼きおにぎり、おいしいですか」 「冷める前は」 「じゃあ、私も頼みます」  その後の歓迎会では、誰にも酒を強要する者はいなかった。  ビール、日本酒、ウーロン茶、炭酸水、温かいお茶。全員が好きな飲み物を選び、午後九時半には自由解散となった。  下流で救助された岩崎だけは、店へ戻ってこなかった。  翌月、営業二課の懇親会参加率は過去最高を記録した。  会社は新たに、飲酒を伴う会合への参加と飲酒は完全に任意であり、欠席や拒否を評価へ影響させてはならないと明文化した。  なお、《川しずく》の宴会場には、新しい注意書きが掲示された。 『酒席で「水に流す」という表現を使用する際は、周囲の状況をご確認ください』  その下に、店長の手書きで一文が加えられていた。 『特に黒いスーツの方がいる場合』  後日、その注意書きを見た黒瀬は首をかしげた。 「私以外でも、川へ投げる可能性はあります」  店長は翌日、『黒いスーツの方』を『何者かが人を持ち上げた場合』へ書き換えた。  注意書きとしては、かなり手遅れだった。

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