芦名 雅 / 第4話

第4話 あなたのためを思って言ってるの。処理します

 その退職届には、退職する本人の意思だけが足りなかった。  氏名欄以外は、すべて人事課長が記入していた。  しかも人事課長は、それを親切だと思っていた。 「佐伯さん。これはね、あなたのためを思って言ってるの」  午前十時十五分。株式会社サンライト企画、人事部面談室。  人事課長の御堂春香は、机越しに退職届を滑らせた。四十五歳。隙なく巻かれた髪に、柔らかな色のスーツ。相手を追い詰めるときほど声を優しくするため、事情を知らなければ親身な上司に見える。  口癖は「あなたのため」。  だいたい、本人のためではない。 「あとは名前を書くだけにしてあるから」  向かいに座る佐伯美咲は、膝の上で両手を握った。三十二歳。企画部に勤めて七年目で、現在は妊娠五か月。白いブラウスの上からでも分かるようになった腹部を守るように、少し身体を引いている。 「私は、退職を希望していません」 「今はそう思うでしょうね」 「産休と育休を取って、そのあと復帰したいです」 「うんうん。気持ちは分かるのよ」  御堂は、理解していない人間特有の深いうなずきをした。 「でも赤ちゃんが生まれたら大変でしょう?」 「夫とも相談しています」 「保育園だって、すぐ入れるとは限らないし」 「候補を調べて、申し込みの準備もしています」 「熱を出したら急に休むでしょう?」 「そのときは制度を利用して――」 「周りに迷惑がかかるのよ」  声は優しいまま、言葉だけが刃物のように差し込まれた。  佐伯の指が、膝の上で強く組み合わされる。 「部署の上司には、復帰後の働き方も相談しています」 「現場の人は、本人を前にしたら反対なんて言えないものなの」 「企画部長は、時短勤務を前提に業務を組み直すと言ってくれました」 「それ、本音だと思う?」 「御堂課長は、企画部長へ確認したんですか」 「しなくても分かるわよ。私も母親だもの」  母親であることが、他人の人生を代わりに決める資格になるらしい。 「復帰して時短勤務なんてしたら、あなた自身も肩身が狭いでしょう?」 「制度として認められています」 「制度と現場は違うの」 「では、現場へ確認します」  部屋の隅から、淡々とした声がした。  御堂が椅子ごと跳ねた。 「誰!?」  観葉植物の横に、黒いスーツの男が立っていた。  胸元には銀色のバッジ。手には、いつものタブレット。  社内ハラスメント撲滅課の黒瀬である。 「いつからいたの!?」 「『あなたのためを思って』の二回目からです」 「一回目も聞いてたの!?」 「廊下まで聞こえていました」 「ノックくらいしなさい!」 「しました」 「返事を待ちなさい!」 「三回行いましたが、聞こえていないようでした」  佐伯が小さく息を吐いた。 「御堂課長の声は優しかったんですけど、ずっと話していたので」 「あなたは黙ってなさい!」 「確認します」  黒瀬の視線が御堂へ向いた。 「今の発言も記録しました」 「これは人事面談よ。部外者は出ていって」 「撲滅課は調査権限を持っています」 「誰が呼んだの」 「佐伯さんの所属する企画部長です」  黒瀬がタブレットを操作すると、企画部長から提出された申告が表示された。 『産休申請を提出した社員が、人事へ呼び出された後、退職の意思を確認したとの連絡を受けた。本人は退職を希望していない。事実確認を求める』  御堂の眉が動いた。 「現場は迷惑してるのよ!」 「企画部長へ確認済みです」 「え?」 「佐伯さんの復帰を前提として、担当案件の引き継ぎ、産休中の代替要員、復帰後の時短勤務計画が作成されています」  画面に業務計画書が表示された。  御堂は一度黙り、それから首を振った。 「部長一人の意見でしょう。ほかの社員は言えないだけよ」 「企画部二十一名へ、個別に確認しました」 「なんでそんなに早いのよ!」 「確認が業務ですので」 「また確認かよ……」  廊下から誰かの小声が聞こえた。  社内では、もはやその言葉まで定型になりつつあった。 「反対者は一名でした」  御堂の顔に希望が戻る。 「ほら!」 「理由は、復帰後に佐伯さんから仕事の進め方を注意されるのが怖い、とのことです」 「別の問題!」 「別件として、適切な指導の範囲を確認します」  佐伯が慌てて手を振った。 「人格否定も残業強要もしていません!」 「現時点では該当ありません」 「この会社、申告から確認までが速すぎない?」  御堂がつぶやいた。 「業務改善です」 「またそれなの!?」  黒瀬は机の退職届を手に取った。 「この書類は、御堂課長が作成しましたか」 「手間を省いてあげたのよ」 「佐伯さんは退職の意思を示していません」 「今は冷静に考えられないだけ!」 「何を根拠に判断しましたか」 「妊娠中なのよ? 身体だってつらいし、精神的にも不安定になるでしょう?」  佐伯の表情から、わずかに血の気が引いた。 「私は、自分の希望も判断できないと言われているんですか」 「そういうことじゃないの。心配してるのよ」 「本人が拒否しています」 「善意よ!」 「善意は、本人の意思を無視する免責事由にはなりません」 「私はこの人と赤ちゃんのためを思って――」 「佐伯さんは、一度も退職を依頼していません」 「感謝されなくてもいいの。人事として嫌われ役を引き受けてるだけだから」 「では、過去の記録も確認します」 「過去?」  黒瀬が画面を切り替えた。 「過去三年間、妊娠を報告した社員八名のうち、六名が御堂課長との面談後に退職」 「本人たちが決めたのよ!」 「四名が、退職勧奨を受けたと証言しています」 「今さら何を言ってるの!」 「二名の面談記録には、『復帰しても元の部署には戻せない』『子どもを優先するなら会社を辞めるべき』との発言」 「現実を教えただけよ!」 「一名は退職を拒否した後、本人の同意なく補助業務へ配置転換されています」 「負担を減らしてあげたの!」 「役職手当も外れています」 「仕事が軽くなったんだから当然でしょう!」  黒瀬がタブレットへ入力する音だけが、面談室に響いた。 「妊娠を理由とする退職勧奨、制度利用への妨害、本人の意思に反する不利益な配置変更、および反復性を確認しました」 「待ちなさい」 「マタニティハラスメント。認定」 「私は本人たちのために――」 「処理します」 「待って!」  御堂は机越しに身を乗り出した。 「私がいなくなったら、人事が回らないわよ!」 「後任候補が五名います」 「また代わりがいるの!?」 「管理職候補者名簿を更新しました」 「第1号のせいで!?」 「鬼塚剛の処理後、人事部が対応しました」 「実名まで出すな!」  黒瀬は退職届を裏返し、御堂の前へ差し戻した。 「御堂課長」 「何よ」 「ご自身の退職を希望しますか」 「するわけないでしょう!」 「確認しました」  黒瀬は退職届を破棄用封筒へ入れた。 「処理に退職届は使用しません」 「当たり前よ!」 「本人の意思がありませんので」  佐伯が黒瀬を見上げた。  狂っているのは処理方法であって、確認手順ではないらしい。  黒瀬は天井を見た。  白い天井板の一部に、見慣れない黄色い枠が取りつけられている。その中央には、『垂直処理経路』と書かれていた。  御堂の顔が引きつった。 「何、あれ」 「総務部が昨日、増設しました」 「昨日!?」 「窓、自動ドア、河川に続く第四経路です」 「数えるな!」 「黒瀬さん」  佐伯が天井と黒瀬を見比べる。 「あの上は、屋上ですよね」 「はい。落下防止ネットを設置済みです」 「仕事が早い……」 「褒めるところじゃないわよ!」  御堂が立ち上がり、ドアへ向かう。  しかし、廊下にいた総務部員が静かにドアを閉めた。 「なんで閉めるの!」 「処理経路が上ですので」 「会社全体で協力するな!」  黒瀬が御堂の椅子を天井の黄色い枠の真下へ移動させた。 「座ってください」 「嫌よ!」 「では、立ったままで構いません」 「選択肢の意味がない!」  黒瀬は御堂の襟首をつかむ。 「あなたのためを思って、負担の少ない場所へ移動します」 「どこよ!」 「屋上です」 「負担しかない!」 「安全設備は確認済みです」 「安全なら飛ばしていいわけじゃ――」 「処理します」 「善意なのよおおおお!」  ドン。  御堂の身体が真上へ飛び、黄色い枠の天井板を押し開けて消えた。  三秒後、屋上から巨大なネットがたわむ音と、短い悲鳴が聞こえた。  天井板は自動で閉じた。  面談室は、何事もなかったような姿へ戻る。 「自動で閉まるんですね」  佐伯が呆然とつぶやいた。 「空調効率を考慮しています」 「そこまで完成度を上げなくていいと思います」  黒瀬はタブレットへ入力する。 「本件、解決」 「あの」 「はい」 「私、本当に産休と育休を取っていいんですよね」 「制度ですので」 「時短勤務も?」 「制度ですので」 「夫も育休を申請する予定です」 「夫の勤務先へ申請してください」 「そこは普通なんですね」 「他社への処理権限は、現時点でありません」 「現時点で?」  黒瀬は答えず、破棄用封筒を閉じた。  翌月、人事部には新しい課長が着任した。  産休、育休、時短勤務の申請は、誰にも嫌味を言われず受理されるようになった。過去に本人の同意なく配置転換された社員についても、希望と実績に基づく再面談が行われた。  佐伯は予定どおり産休へ入り、机には復帰予定月を書いた小さなカードが残された。  なお、屋上の落下防止ネットには、総務部が新しい利用記録表を取りつけた。 『垂直処理経路・使用実績 一名』  その下には、御堂本人の筆跡で大きく書き加えられていた。 『あなたたちのためを思って言います。二度と使わないでください』  黒瀬は記録表を確認し、二度うなずいた。 「要望として受理します」  使用禁止とは認定されなかった。

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