遥 / 第9話

09話 放課後の時間

 ゴールデンウィークが明け、学校にはいつもの日常が戻ってきていた。  あの日見た怪物も、咲の目だけに映っていた赤い光も、この休みの間、一度も現れることはなかった。  人々は相変わらず、平和な日々を過ごしている。  俺たちもまた、普通の高校生として毎日を送っていた。  けれど、あの一夜を共にした俺たち四人の関係だけは、あの出来事を境に少しずつ、確実に変わっていた。 ***  終礼のチャイムが校舎に響き渡る。  二年A組の教室。  帰りのホームルームを終えた途端、静まり返っていた教室が一気に騒がしくなる。  蒼太が椅子の背もたれに体を預けながら、両腕を大きく伸ばした。 「よしっ、そろそろ部活行ってくる!」 「私も弓道場行くね」  その隣で、碧羽も教科書をカバンにしまいながら立ち上がる。  俺――橙真は席に座ったまま、片手を軽く上げて二人を見送った。 「いってらー」 「サクッと終わらせてくるぜ!」 「蒼太、真面目にやってきてよ?」  碧羽が呆れたように苦笑しながら、蒼太の肩を軽く小突く。 「もちろんやってるって! 俺、走るのだけは好きだからな」 「今日は練習時間長いのか?」 「いや、長距離の軽めメニューだから、一時間くらいで終わるはずだぜ」 「私も今日はフォームの確認だから、それくらいで終わるかな」  二人の会話を横で聞きながら、俺も机の脇に置いていたカバンを持ち上げる。 「じゃあ、終わるの待ってるわ」 「了解! 終わったら校門前に集合な」  そのまま教室を出ようとした蒼太だったが、ふと何かを思い出したように足を止め、俺のほうを振り返った。 「そういえばさ、咲、もう昇降口で待ってるんじゃないか?」 「あー……確かに、あり得るかも」  碧羽がくすっと笑う。  俺も思わず口元を緩めた。 「咲の性格だったら、十分前行動くらい普通にしてそうだしな。じゃあ、俺、様子見てくる」 「頼んだぜ、橙真!」  二人は元気よく教室をあとにし、それぞれの部活へ向かっていった。  混雑する廊下を抜け、昇降口へ向かう。  靴を履き替える生徒たちの波から少し外れた場所で、咲が一人、カバンを両手で抱えるようにして静かに立っていた。  時折、二年生の下駄箱へ視線を向けている。  俺はそっと近づいた。 「あ、橙真先輩……!」 「……やっぱりいた」  咲は目を丸くして、驚いたようにぱちぱちと瞬きをした。 「え……?」 「いや、咲が待ってそうだなと思って」  咲は自分の状況に気づくと、少し恥ずかしそうに頬を緩め、苦笑いを浮かべた。 「そんなに……私って分かりやすいですか?」 「かなり分かりやすいよ。蒼太も碧羽も『絶対もう待ってる』って言ってたし」  咲は降参したように肩をすくめる。 「否定は……できませんね。思ったより早く終わって、早めに来ちゃったので」  俺はくすりと笑った。  二人で靴を履き替え、昇降口を出る。 ***  初夏の風が吹き抜ける校庭の脇。  俺たちは木陰のベンチに並んで腰掛けた。  グラウンドでは、陸上部が声を出しながら走り込みをしている。  少し離れた弓道場からは、澄んだ弦の音が響いていた。  咲が、汗を流しながら走る蒼太へ視線を向ける。 「蒼太先輩、足速いですね」 「あいつ、走ることだけは得意だからな。それ以外は結構雑だぞ」  咲は思わず吹き出した。 「ふふ。でも……楽しそうです」 「あいつは走ってる時が一番活き活きしてるからな」  次に、咲が静かな弓道場へ視線を移す。 「碧羽先輩も……弓道やってる姿、すごく格好いいですよね」 「中学からやってるからな。実際、めちゃくちゃ格好いいぞ。本人に直接言うと長話が始まるかもしれないけど」  俺が冗談めかして言うと、咲も楽しそうに笑った。  穏やかな時間が、ゆったりと流れていく。  ふと思いついたことを、俺は口にしてみた。 「じゃあさ……咲は、俺のことはどう見えてるんだ?」 「え?」  咲が驚いて、こちらを向く。 「蒼太は元気で、碧羽は頼りになるだろ? 俺はどうなんだ?」  咲は視線を泳がせ、一生懸命に言葉を選んでから、照れくさそうに答えた。 「……とっても優しいです。一緒にいると、なんだか、とても安心しますし」 「そうかな」  俺が苦笑して視線を戻すと、咲は声を小さくした。 「……あと、とっても格好いい……です」 「ん? 咲、何か言った?」 「いいえ! な、何も言ってないです!」  咲は慌てて首を振る。  その様子がおかしくて、俺は小さく笑った。  それから一時間ほど経ち、俺たちはベンチを立ち上がった。 ***  校門は、いつの間にかオレンジ色に染まり始めている。  下校する生徒の姿も減った頃、汗を拭いながら蒼太が走り込んできた。 「待たせたな!」 「お疲れ様です、蒼太先輩」  少し遅れて、碧羽もやってくる。 「咲、待っていてくれてありがとうね」  これで、ようやく四人が揃った。  夕日が校舎と俺たちの影を、赤く長く伸ばしている。  蒼太がカバンを担ぎ直した。 「よし、帰るか!」 「うん」  碧羽が嬉しそうに言う。  咲も安心したように「はい!」と頷いた。 「行くか」  四人は肩を並べて歩き始める。  ゴールデンウィークが明け、取り戻したかのような平穏な日常。  俺たちは、その温かさを当たり前のものとして受け入れ始めていた。  だが――この温かな日常のすぐ裏側に潜む、『異変』の気配に、まだ誰も気づいていなかった。

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