遥 / 第76話

76話 久々の日常

 九月一日――夏休みが明けた。  俺――橙真は久しぶりに制服へ袖を通し、家を出た。  いつもの見慣れた通学路を歩き、校門をゆっくりとくぐる。  防災対策課の医療室を出てから、まだ数日しか経っていなかった。  身体は、決して完全な状態ではなかった。  全身にはまだ鈍い痛みが残っているし、右耳のイヤホンを外した際に負った傷も、完全には癒えていない。  それでも――こうして学校へ登校できるくらいには、どうにか回復していた。  朝日に照らされる見慣れた校舎を見上げ、小さく息を吐く。 「……久々に戻ってきたな」  懐かしさを感じながら、そのまま自分の教室へ向かった。  夏休みのほとんどを防災対策課の施設や医療室で過ごしていた俺にとって、学校の空気はどこか遠い世界のもののように感じられる。  教室の前で一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。  そして――扉を開ける。  ――ガラッ! 「あ、日向だ!」 「うわ、久しぶりに見た!」 「ほんと久々じゃん! 夏休み中、全然見かけなかったからさ!」 「元気にしてたかー?」 「……なんか、雰囲気ちょっと変わった? 髪が白くなってるような……」  久しぶりに顔を合わせた驚きと、懐かしそうな声が次々と飛んでくる。  医療室に入っていたことは伏せ、夏休みの間は遠くへ行っていたと説明しながら、俺は照れくさそうに頭を掻いた。 「おい、橙真」  蒼太が席から立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。 「今日から登校できるって花江さんから聞いてたけどさ。思ったより元気そうだな」 「まあな。なんとか歩けるくらいには戻ったよ」  事情を知っている蒼太は、周囲に悟られないよう言葉を選びながら話しかけてくれる。  その隣から、碧羽も近づいてきた。 「無理だけはしないでね、橙真。本当はまだ大事を取るべきなんだから」 「分かってる。できるだけ無理しないようにするさ」 「それならいいけど……」  碧羽は少しだけ心配そうに俺を見つめる。  その直後、ホームルームのチャイムが校内に鳴り響いた。  久しぶりに受ける授業。  教壇から聞こえる先生の声。  黒板へサラサラと書かれていく、白いチョークの文字。  あの地獄のようだった山間部での邪神体との戦いが、まるで一夜の悪夢だったのではないかと錯覚するほどに、そこには変わらない穏やかな日常があった。  ――こんな時間が、ずっと続けばいい。  そんなことを、ふと思ってしまうほどに。 ***  ――キーンコーンカーンコーン。  昼休みのチャイムが鳴り、俺たち三人は食堂へ向かって廊下を歩いていた。 「あっ! 橙真先輩!」  廊下の先から、聞き慣れた明るい声が響く。  咲が、ぱっと表情を輝かせながら駆け寄ってきた。 「今日から学校に来られるようになったって聞きました! 久々に会えて、本当に嬉しいです……!」 「ありがとう、咲。心配かけたな」 「ほんとに心配したんですよ! 夏休み中、全然連絡も取れなかったんですから!」 「それは、ごめん」 「でも、もういいです。こうして久々に会えたので」 「それなら……よかった」 「ふふ、久しぶりに四人そろったね」 「はい!」  四人並んで食堂へ向かう。  くだらない話をしながら、笑い合う。  ただ、それだけの何気ない時間。  けれど今の俺には、不思議なくらい愛おしくこの時間がずっと続いてほしいと思った。  あれほど遠く感じていた日常が、ちゃんと自分のところへ戻ってきた。  それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった気がする。 ***  放課後。  部活へ向かう蒼太と碧羽に見送られ、俺と咲は静かになった校門を出た。  夕暮れの心地よい風が、二人の間を吹き抜ける。 「橙真先輩、夏休み中ずっと大変そうでしたけど……身体はもう大丈夫なんですか?」 「ああ、色々あったけどね。なんとか登校できるくらいにはなったよ」 「よかったです……」  咲は安心したように小さく笑う。 「そういえば、咲は最近、何か変わったことはあったか?」 「うーん……」  咲は少し考え込むように首を傾げる。  そして、どこか恥ずかしそうに口を開いた。 「最近、少し意識する人ができました」 「それって……好きな人ができたってこと?」  俺が思わず身を乗り出すと、咲は耳まで真っ赤にして頬を染めた。 「はい……あの……」 ***  咲が何かを言いかけた、その時だった。  ポケットの中で、スマホの着信音が鳴り響いた。  画面に表示された名前は――風宮さん。  俺は静かに通話ボタンを押した。 『日向か。学校が終わったら、そのまま防災対策課へ来てくれ……お前と話したいことがある』 「分かりました。今から向かいます」 『了解した』  通話を切る。  すると、咲が不安そうに俺の袖口をキュッと掴んできた。 「……防災対策課からの呼び出しですか?」 「ああ。ちょっと呼び出しを受けちゃった。せっかく一緒に帰ってたのに、ごめんな」 「そんなの気にしないでください!」  咲は首を横に振る。 「……それより、私もついていきたいです。橙真先輩、まだ身体も完全じゃないのに、一人で行かせるなんて、心配です……!」 「気持ちは嬉しいけど、俺一人で大丈夫だよ。咲は気をつけて帰れよ」 「……はい。でも、本当に無理だけはしないでくださいね」 「ああ。無理しないようにするよ」 「約束ですからね」 「分かったよ」  住宅街の途中で咲と別れ、俺は一人、防災対策課へ向かって足を進めた。  せっかく取り戻した穏やかな日常。  けれど――俺を待っているのは、そんな日常とはかけ離れた、新たな真実だった。  その先に何が待っているのか――この時の俺は、まだ知らなかった。

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