遥 / 第17話

17話 初めての力

 泥の巨体が、一歩を踏み出した。  ズシン……!  地鳴りのような重い足音が、静まり返った田んぼ道に響き渡る。  ベチャリ、ベチャリと不快な音を立てて、大量の泥が地面へ落ちていく。  さっきまで無邪気に笑っていた蒼太の顔から、余裕が完全に消えていた。 「……な、なんだよ……あれ……っ!」  俺――橙真も言葉を失った。  人間でも、動物でもない。  泥の塊が巨大な人の形をして、俺たちを見下ろしていた。  その時、怪物の太い腕がぐぐっと持ち上がった。 「っ……!?」  次の瞬間、腕から引きちぎられた巨大な泥の塊が、凄まじい勢いで飛んできた。 「危ねぇっ!!」  蒼太が必死の形相で俺の腕を強く引いた。  直後、俺たちが立っていた場所へ、巨大な泥の塊が激しく叩きつけられた。  ドォンッ!!  泥と土が周囲へ飛び散る。 「蒼太、ありがとう……!」 「気にすんな! とにかく今は、走って逃げるぞっ!!」 「あ、ああっ!! そうだな!!」  俺たちは必死で足を動かし、狭い田んぼ道をがむしゃらに走り出した。  背後から、ズシン、ズシンと地面を揺らす足音が迫ってくる。  追いかけてきているのだ。 「なんであんな奴が俺たちを追ってくるんだよっ!?」 「知るかよっ!!」  恐怖で心臓が破裂しそうだった。  その時、前方の角から一人の人影が、こちらへ歩いてくるのが見えた。 「え……!?」  同じ学校の制服を着た少女――碧羽だった。 「なんでこっちに向かって走ってるんですか?」 「そんなこと言ってる場合じゃないぞ! とりあえず逃げろっ!!」 「……え? それって、どういう――」  理由が分からず首を傾げた碧羽は、俺たちの後ろへと視線を向けた。  そして、瞬時に顔から血の気が引いた。  言葉が出ない。  その背後には、二メートルを優に超える巨大な泥の怪物が迫っていた。 「……なに、あれ……」  怪物が逃げ場を塞ぐように両腕を振り上げる。  次の瞬間、無数の泥の塊が三人へ一斉に飛んできた。  当たれば、命はない。  そう思った瞬間だった。  ゴォッ――!  熱い感触が右手を包み込んだ。  次の瞬間、俺の右手から赤い炎が勢いよく吹き上がった。 「なっ……!?」  炎は三人の前に壁のように広がり、飛んできた泥の塊を正面から焼き払い、弾き飛ばす。  俺自身、何が起きたのか分からなかった。 「……え、な、なんだよ、これ……!?」  自分で出した炎なのに、自分の意思で出した感覚がまったくない。  その直後――。  ポタリ……。  冷たいものが、蒼太の額に落ちた。 「……?」  蒼太が呆然と自分の額に触れる。  指先には、小さな氷の粒が乗っていた。 「は!?」  さらに、その直後――。  ゴオオォォッ――!!  三人を取り囲むように激しい旋風が巻き起こった。  碧羽の長い髪が、風に乗って大きくなびく。 「風……!?」  三人とも、自分の身体に何が起きているのか理解できない。  だが、怪物は止まらない。  俺は恐怖を振り払うように、腹の底から声を張り上げた。 「とりあえず、立ち止まるな! 逃げるぞっ!!」  俺たちは、ただがむしゃらに走り続けた。  一度も後ろを振り返らず、足がもつれそうになるほど必死に地面を蹴り続けた。  何一つ分からない。  自分たちに何が起きたのかも。  あの怪物が何なのかも。  ただ怖くて、必死で逃げ続けた。  田んぼ道からかなり離れた頃には、あの不気味な泥の怪物は、いつの間にか姿を消していた。  肩を上下させ、荒い息を吐き出しながら立ち尽くす俺たち。  碧羽が、まだ動揺の残る声で尋ねてきた。 「……さっきのあれ、何だったの?」 「俺たちにも、全然分からないんだ……」 「というか……二人は誰だっけ? 制服を見る限り、同じ学校みたいだけど……」 「うん。俺たち、そこの中学校の二年生」 「同じ学年だったんだ」 「あ、名前言ってなかったよな。俺は、日向橙真」 「俺は、水沢蒼太だ」 「……私は、風間碧羽」 「なあ、このこと俺たちだけの秘密にしないか?」 「……そうだな」 「そのほうがいいよね」  夕空の下、俺たちの間を、さらりと爽やかな風が吹き抜けていった。  それが、俺たち三人の、最初の出会いであり、最初の戦いでもあった。 ***  さらりと、心地よい初夏の風が吹く。  現在。  橙真先輩はかつての通学路を歩きながら、まっすぐ前を見つめたまま口を開いた。 「……っていうのが、俺たちの『最初の戦い』だな。戦いというより、ただ逃げただけだけど」  私――咲は衝撃を受け、しばらく言葉を出すことができなかった。  今、目の前を歩いている頼もしい先輩たち。  強くて、優しくて、いつも私を守ってくれる三人。  そんな先輩たちでさえ、一番最初の頃は逃げることしかできなかったのだ。 「あの時は本当に、なりふり構わず全力で逃げたよなー!」 「うん。何が起きたのか、全然分からなかったしね」 「あの時は本当に怖くてたまらなかったな」  私は少しだけ俯いた。  そして、ふっと表情を緩める。 「でも……なんだか、すごく安心しました」 「安心って?」 「先輩たちも、最初は私と同じだったんだなって」  その言葉に、橙真先輩は少しだけ目を丸くした。 「そりゃそうだろ」 「怪物と何度も戦っていくうちに、少しずつこの力の使い方が分かってさ」 「で、気づいたら今みたいになった、って感じかな」 「……そうだったんですね」  私は嬉しそうに笑う。  心地よい風が、私たち四人の間を爽やかに通り抜けていった。  過去の話を聞いたことで、私の中で、ほんの少しだけ不安が消えていくように感じた。  そして私たちは、すべてが始まったあの場所を目指して、静かに歩き続ける。

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