ふみの世界樹 / 第127話

第九十五話 抵抗者

【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月9日 海竜曜日 19:38 七聖学院 厨房 】  布が裂ける音がした。  キャサリンは悲鳴を呑み込むしかなかった。  口を塞がれ、腕を押さえつけられ、背中が調理台に押し当てられる。冷たい木の感触が、薄い衣服越しに伝わった。  仮面の男が、喉の奥で笑った。 「大人しくしてろ」  キャサリンの目が、調理台の下へ動いた。何とか腕を伸ばす。集めておいた武器まで届かない。  キャサリンは空いていた指先を調理台の縁に掛け、身体を捩った。男の手が肩を掴む。その瞬間、彼女は調理台の下へ手を伸ばした。  届いた。  何を掴んだかは判らない。とにかく、柄を外側にして取りやすいように置いておく。たったそれだけの、ハリスの小さな気遣いが役に立った。 「この……!」  振りかぶる余裕はなかった。  キャサリンは横殴りに、男の顔へ鉄製の肉叩きを打ち込んだ。  反射的に腕で防がれた。 「ぐっ」  男の身体が一瞬だけ揺らいだ。  だが、倒れるに至らない。  キャサリンは直ぐに手首を抑えられた。 「てめぇ……」  男の目が、仮面の奥で血走った。 「おい、そこのおまえも手伝え! 押さえろ!」  入口の扉を塞いでいた三人目の男が、施錠しながら舌打ちをした。 「ああ、分かってる」  その男が近付いてくる。  キャサリンは息を詰めた。三人掛かりで押さえ込まれたら、もう抵抗は難しい。  近付いてきた仮面の男が、腰を落とした。  次の瞬間。  ごっ、と鈍い音が厨房に響いた。 「いひゃっ⁉」  キャサリンの脚を押さえていた男が、変な声を上げた。  背後から股間を蹴り上げられていた。 「おま、……な、……?」  何事かと振り返る男の顔面に、フライパンが叩き付けられた。  殴られた男が崩れ落ちる。  そのフライパンを握っていた男が、仮面を引き剥がして床へ投げ捨てた。  無精髭。  荒れた髪。  見慣れた、憎まれ口の似合う顔。 「俺のキャサリンに手ぇ出してんじゃねえ!」 「……え⁉」  驚くキャサリン。  三人目は、変装していたゴーンズだった。  ゴーンズは勢いと怒りに任せてフライパンを振り上げ、もう一人の男へ叩き込もうとした。 「なんだてめえ!」 「きゃっ」  だが、男はキャサリンを乱暴に突き飛ばして床に落とすと、両手でフライパンを受け止めた。 「通りすがりの用務員だよ!」  ゴーンズが床を踏み鳴らし、肩からぶつかった。  フライパンを奪い合って、男とゴーンズが厨房の中央でもつれ合う。棚が揺れ、乾ききっていない木皿が一枚落ちて甲高い音を鳴らした。  倒れたキャサリンは床から体を起こした。  肩の破れた布を押さえる暇はない。彼女は調理台の端、小麦粉袋に目を向ける。  男がゴーンズの腹へ膝蹴りを入れる。  ゴーンズが歯を食いしばった。 「この野郎……!」 「どけ、髭面!」  男にフライパンが奪われた。  その瞬間、キャサリンは粉袋を両手で掴み、中身を男の顔へ叩きつけるように投げた。  白い粉が爆ぜた。 「うわっ、目が!」  男が仮面の隙間を押さえる。  ゴーンズは逃さなかった。  膝を沈め、|下からの拳《アッパーカット》を突き上げる。  男の顎が衝撃に跳ね上がった。  仮面がずれ、男の身体が後ろへ倒れる。背中が流し台にぶつかり、そのまま床へ沈んだ。  厨房に、荒い息だけが残った。  ゴーンズはしばらく拳を握ったまま、倒れた男達を見下ろしていた。二人とも動かない。完全に気絶している。  キャサリンは破れた肩口を押さえ、ゴーンズを見た。 「……助かりました。ありがとうございます」 「礼なんざいい」  ゴーンズは顔を背けた。 「ふう。気になったから、ついて来てよかったぜ」  キャサリンは、転がった木皿、小麦粉にまみれた床、転がる仮面を見た。それから、ゴーンズの横顔へ視線を戻す。 「ところで、さっき」 「……何だ」 「俺の、って言いました?」  ゴーンズの肩が止まった。 「うっ、それは……」 「言いましたよね」 「言葉のあやだ」 「そうですか」 「そうだ」  キャサリンは少しだけ笑った。 【 同日 19:42 七聖学院 講堂準備室 】  講堂準備室は、本来なら舞台道具や備品を置くための部屋だった。しかし、今は校長室から持って来た来客用のソファ、寄宿舎からかき集めた布団やクッション、厨房から持って来た料理、酒瓶、その他の雑多な物で溢れていた。 「それで、見逃して欲しいと嘆願に来たわけか?」  ヴネオンが言った。ソファに座り、寛いだ姿勢で、机に両足を乗せている。  つばめは、肩を落とす。表情は弱く、声は低い。 「ええ、そうよ。マディアラス・ヴネオン、あたしを含めて、貴方の考えに賛同する者もいるって話。……ヴェナリス皇帝のこと、嫌っている人もいるの」 「あの男を嫌う者など、吐いて捨てるほどいるだろうさ」 「だったら、そんな者達を殺す必要はどこにも無い」  ヴネオンは頭の後ろで両手を組んで枕にした。 「だが、おまえ達は恩恵を受けている。嫌ってはいようと、皇族家の者と学院に通い、貴族として裕福な暮らしを行っている。その断罪を願う者は多い」 「あの子達の立場なら、それは仕方がないじゃない」 「|修道女《シスター》、そもそも君は勘違いをしている。私は政治になど興味はない」 「そう。やっぱりね」  つばめは、一歩だけ近付いた。  どんな防御魔法が仕込んであるかも分からない。目的が悟られてもいけない。  近付き過ぎない。警戒されない距離。 「|禁断の知識神《マドネ》の信徒。あなたにとっては|皇宝具《インペリアル・レガシー》を手に入れる事がすべて。政治的な不満は、人を雇うための方便。……そうなんでしょ?」  ヴネオンの金色の目が細くなった。 「気付いていたか」 「それぐらいはね。これでも一応、|修道女《シスター》ですもの」 「ふん、確かにそうだ。あれさえ手に入れば、後はどうなろうと知ったことではない。それ程までに、あの強大な力と、神々の知識を独占している皇家は、実に罪深いのだ」  つばめは答えず、静かに聞いた。  彼女が隠し持つ|魔導具《マギテク》は、オーレリアの特製品。|小型魔法人形《ミニ・ゴーレム》の部品と、その命令文を模写した|金属片《プレート》、それらを一つの装置として組み上げた。  作動条件は二つ。  一つ目の条件、この|魔導具《マギテク》と起爆装置が、至近距離にあること。  二つ目の条件、その状態でオーレリア自身が有効距離内から遠隔操作すること。  ヴネオンが背にした壁の向こう。  部屋の外。  北側廊下の壁際。  一度に何名もの女子が北側トイレを使うことで、人為的に行列を作る。大勢の女子達が協力する事によって成立する作戦。  その最後尾。壁越しの有効距離内で、オーレリアが待機しているはずだった。 「ツバメ・クジョウ」  ヴネオンが名前を呼んだ。 「我々は|邪教《ドゥンケ》の烙印を押されているが、単に無知に対する抵抗者であるに過ぎない」 「無知なる者は、奪われるから?」 「そうだ。情報と教育の格差が、搾取と歪んだ構造を生む。今度は、我々が奪う側に回るべきだ。皇家からも、神々からですら」 「神々も?」 「ああ、そうだ」  その時。  つばめの懐で、特製|魔導具《マギテク》がかすかに震えた。  そもそも、部品取りに使われた|小型魔法人形《ミニ・ゴーレム》は、記録帳を齧る不届き者を撃退するために用意されたものだった。  けれど、オーレリアが改造し、記録の管理用に|文字消去《ラディーレン》と|文図複写《シュリフトビルトコピー》の機能が組み込まれている。それらはオーレリアが普段から使い慣れている|魔導具《マギテク》であり、機能であった。  何に対して書き込むかは、事前に術式へ組み込まれている。この場合は起動装置の内部に使われている送信用の|制御核部品《コントロール・コア》だ。  つばめが対象を選ぶ必要はない。  詠唱を完成させる必要もない。  ただ、時間を稼ぐ。 「ツバメ・クジョウ、貴様の信奉する神はなんだ?」 「うーん、|緋鋼皇國《あけがねこうこく》の民だから、|緋鋼建国神《アーダル》様ってことになるんじゃない?」 「なんだ、その言い草は」 「あたし、神様なんていない場所で育って来たから、神格っていう存在は敬うけれど、頼み事はしないの。自分で何とかやって来たから」 「ならば今回も、自分で何とかすると?」 「そうよ。今は神格なんかに頼むより、あなたに頼む方がずっと話が早いから、そうしてるだけ」  ヴネオンは、声を立てずに笑った。  つばめは、ヴネオンから目を離さなかった。  |魔導具《マギテク》の微振動は続いている。    |文字消去《ラディーレン》。  起爆装置に記されていた命令文が、音もなく薄れていく。しかし、完全に消えてしまえば、保護用の|呪文書式《スクリプト》が異常を拾う。  |文図複写《シュリフトビルトコピー》。  消去と同時に、オーレリアが|金属片《プレート》に写した命令文が、起爆装置側の|制御核部品《コントロール・コア》へと書き足されていく。  途中で構文がおかしい事になる。しかし、起動する前であれば、それは問題視されない。|呪文書式《スクリプト》の不在こそが警告対象であり、オーレリアはその構造を熟知していた。  一文字。  一文字。  順番に、丁寧に、書き足されていく。  ヴネオンの笑いが収まった。 「面白い女だ。少し考えておく」 「うん、そうして貰えると助かるわ」  つばめは、催促するように片手を差し出した。 「それで、その答えはいつ貰える?」 「今すぐは出せんな」 「そう。残念」  差し出した手を戻して、つばめは大きな溜め息を吐いた。 「だが、貴様は殺すには惜しい。美貌だけではない。その考え方も」 「褒め言葉として受け取っておくわ」  最後の線が、|制御核部品《コントロール・コア》へ刻まれた。  |魔導具《マギテク》のかすかな震えが止まった。  上書きは完了した。  つばめは、ようやく小さな息を吐いた。 「では、戻っていいかしら。子供達が心配なの」 「行け」  ヴネオンが手を振った。 「だが、|修道女《シスター》。私を騙せると思うなよ」 「怖いことを言うのね」 「事実だ。裏切者は殺してきた」 「覚えておくわ」  つばめは軽く頭を下げ、講堂準備室を出た。  扉が閉じる直前、起爆装置は何も変わらない顔で、机の上に置かれていた。 【 同日 20:16 七聖学院西側 本部天幕 】  天幕の外で、鎧の金具が鳴った。  ヴァルク・ラドーレ。  エイデン・アインホルン。  幕が上がり、衛兵の装備を身に着けた二人が入って来る。  エドワードが一度だけ目を細めた。 「意外と似合ってるじゃないか」  エイデンが袖口を整えた。 「新人の頃を思い出す」  ヴァルクは肩を回し、借り物の胸当てを軽く叩いた。 「ほんに懐かしいのう」  クラウゼン大隊長が腕を組む。 「マナ殿下、マギ殿下の頼みでなければ、こんな特例、承知できんという事を忘れるな。伝説の騎士とやらが、どれほどのものかは知らないが……」  エリーが目を丸くした。 「えー? 知らないんですか?」  エリーは、ヴァルクの隣に来て、その腕にしがみついた。 「女性隊員の間じゃ、噂ですよお?」  エイデンが、横目でヴァルクを見る。 「相変わらずの人気者だな」  エリーが上目遣いで見上げる。 「あのぉ、サインとか貰ってもいいですかぁ?」  ヴァルクは困ったように眉を下げた。 「そういうがは苦手なんじゃが、とりあえずこん事件ば片付いてからにゃあ」 「やったぁ」 「人気者だな」 「二回も言わんでえい」  天幕の外から、衛兵が駆け込んできた。 「報告!」  エドワードが地図から顔を上げる。 「掘削班から報告。学院北側で、地下坑道を発見しました!」  天幕の空気が変わった。  アルフォンスが、地図上の北側を指で押さえる。  エドワードは一度だけ頷いた。 「これで、後は報告を待つだけだ。そうだね?」  天幕の端。  椅子に座っていたローティが、ゆっくりと顔を上げた。  額の包帯はまだ痛々しい。だが、その目は沈んでいない。 「ああ」  ローティは|頷《うなず》いた。 「俺たちは負けない」  少しだけ間を置き、口の端を上げる。 「ヴァンの言葉だ」 【 同日 20:45 七聖学院 北側トイレ 】  外はもう暗い。さっきまで廊下を埋めていた女子達の列も、今はない。  廊下の明かりはトイレの奥まで届かず、窓の向こうに広がる芝生は、夜の色に沈んでいる。  ハリエットは、ルナを抱えて個室へ入っていた。  便座の上に乗り、背伸びをする。 「ヴァン、これ」  天井の通気口が、ほんの少し開いた。  汚れた指が伸び、ハリエットの差し出した紙切れを受け取る。 「ハリスの指示?」 「うん」  ヴァンは開いて中身を読むと、短く息を吐いた。 「分かった。もう行く」 「うん、気を付けて」  ハリエットは便座から降り、ルナを床に下ろした。  ルナは尻尾を立て、足元をくるりと回る。 「ごめんね、ルナ。お願い」 「みー」  ハリエットは首輪の代わりに、細い首紐をルナへ結んだ。小さく折り畳んだ紙を、濡れないよう油紙で包み、首紐に括り付ける。  そして膝をつき、ルナの額に指先を置いた。 「小さき|生命《いのち》、小さき足よ」  白っぽい黄緑色の淡い光が、指先に灯る。 「この糧を受け、我が願う道を辿れ」  ルナの耳がぴくりと動いた。 「森の陰を抜け、草の露を越え、風の匂いを道しるべとせよ」  ハリエットの声は、祈りのように低く、柔らかかった。 「――|動物伝令《ティーアボーテ》」  ハリエットが目を閉じ、心の中で言葉を紡ぐ。  ルナの瞳に、小さな光が宿った。 「さあ、行って」  ハリエットは窓を少しだけ押し開ける。  ルナは窓枠へ飛び乗り、隙間から外へ滑り出た。  小さな身体が芝生へ降りる。  夜の草の上を、音もなく走っていく。  ハリエットは窓に顔を寄せ、目を凝らした。  暗くてよく見えない。  あの辺かな。  そう思った瞬間。  どすっ、と鈍い音がした。  ルナのいた辺り。  地面に、|矢弾《ボルト》が突き立っていた。

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