ふみの世界樹 / 第128話

第九十六話 ルナ

 おなかが空いていた。  寒かった。  物心ついた時、父も母もいなかった。  自分には名前すらなかった。     名前という素敵な贈り物が、この世界にあるなんてこと、それまで知りもしなかった。  だけど……。    ──ルナ。  あの子供たちは、自分をそう呼んだ。  その子供は、食べ物をくれた。  居心地の良い場所をくれた。  遠い所へ連れていってくれた。  大きな空のキラキラを見せてくれた。  ひげがピンと伸びた。  目に|硝子の眼鏡《とうめいなもの》をつけた女の子が、その子供と仲良くなった。   とても幸せだった。  幸せだったのに。  とても騒がしくなった。  イヤな匂いのする大人達が、たくさんやって来た。  子供達が泣いていた。  叩かれて、血が出ていた。  血の匂い?  ああ、これは自分の血だ。 【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月9日 海竜曜日 20:46 七聖学院 北側芝生 】  校舎の屋根、その上にいた見張りの男が、気まぐれに|携帯式弩《ハンド・クロスボウ》の|矢弾《ボルト》を放った。  特に理由はない。  強いて挙げるなら、動いていたから。  鼠だったか猫だったかは気にしていない。  だから死んだか生きているかも、気にしなかった。 「おい、おまえ。今、何を|射《う》った?」 「さあ? ドブネズミじゃないか?」  ルナには、人間達の会話が聞こえていた。言葉の意味までは判別できない。  だが、その声に嫌悪した。  この痛い何かを放ったのは、あの人間達なのだと理解した。  今、ルナには心の中に抗い難い命令があった。  エドワード。  あの森の香りがする子供が、そっと覚えさせてくれた名前と、微かな匂い。  そこへ行く。  たったそれだけの単純な指示。それが、ルナの理解している全てだった。  ルナは高い知能を持つ魔獣でもなければ、特別に飼育され訓練を受けた|使い魔《ファミリア》でもない。  |動物伝令《ティーアボーテ》の呪文は、知能の低い動物に伝令の命令を与える呪文。  ただ、この術式は、動物に高度な理解力まで与えない。  動物は術者の知識と印象を頼りに動くだけで、自分で受取人を探したり、複雑な道順を判断したりはしない。  通常であれば。    だが、この時のルナは違った。  子供達が、何かを託したことを感じていた。  理解できる知性ではない。  理解しようとする感性だ。  ルナにとって、魔法の命令は切っ掛けに過ぎなかった。  痛む後ろ足。ふらつく身体。  立たなきゃ。  子供達にお願いされたんだ。  立って歩かなきゃ。  ルナは立ち上がった。  血の匂いがする。でも、たくさんの血じゃない。  後ろ足も痛い。けれど、足はまだ地面を押せた。  歩こう。  でもこの芝生は危ない。見通しが良すぎる。  引き返す。  さっき飛び降りた窓を見る。  森の香りがする子供、ハリエットが胸に手を当てていた。  こっちを見て安堵しているようだ。  ルナは、ぴんと尻尾を伸ばした。  歩けるって見せた。    ルナは西を目指した。建物に沿って歩き出した。  少し歩くと、頭上で窓の開く音がした。ルナは、その場に伏せた。 「クソ面倒くせぇことになった」  体格の大きな人間が、窓から身を乗り出した。  臭い匂いのする煙を吸ったり吐いたりしている。  ルナは、じっと動かない。 「そう言うな。ボスにも考えがある」 「考え? 言って見ろ。ヴェナリスに殺処分される未来なんざ笑えねえぞ」  部屋の中にいる誰かと、何かしら話をしているようだ。ルナは、魔法の命令が、早く行けと急かす衝動を抑えて、今は見つからないように努めた。 「一部だが、身代金は手に入った」 「その金はもう流したんだろ」 「ああ。あの方へな。代金としては十分だ」 「で、例の奥の手ってわけか」 「そうだ。これがある限り、街の衛兵隊はもちろん、|緋鋼海兵隊《ブラック・ファング》にも負けないさ」  大男が、窓の外に臭くてイヤな匂いのする灰を落とした。  ルナは目を閉じて、顔を背けた。目がしぱしぱする。 「それに生き延びれば、|神聖共和国《あの国》が我々を受け入れてくれる」 「それも信用ならねえけどな」  大男がゴミを捨てて、窓を閉めた。  ルナは気になって、その乾いた葉っぱを丸めたようなゴミの匂いを嗅いだ。  ついつい匂いを確かめてしまうのは、魔法よりも強い強制力。猫の本能だ。  臭い。  ツンとする刺激に顔を背ける。  ルナはその場を直ぐに離れて、|七聖学院《ナワバリ》の入り口がある方に向かった。  植え込みに隠れ、柱に隠れ、道の縁石の低い陰に隠れて進む。  大きな水溜まりがあって、夜でも水が逆さに吹き出る変な場所に来た。  水飛沫を浴びないように、決して近付かないように歩く。  建物が崩れた場所に来た。  そこから先は、子供達に出てはいけないと教えられた場所だ。  ルナは向こうを覗き見た。  鉄の匂いがする大きな板が、たくさん並んでいた。  怖そうな人達も、たくさんいた。  ここはダメだ。  ルナは湖のある南側に行くことにした。  後ろ足が、だんだん重くなってきた。  ちょっと後ろを振り返ると、赤い点々が残っていた。  ルナは前を見た。  ちょっと頭がぼーっとする。  歩いた。  植え込みと、土の道がある場所に来た。  壁がある。  子供より背が高い壁だ。  今の足で、跳び上がれるか分からない。    でも、いつもなら跳べた。  失敗できない。  たぶん二回は跳べない。足が痛い。  前足をそろえる。  土を押して確かめる。  後ろ足をそろえる。  痛くて少しズレた。  ちゃんとそろえる。  跳ぶ。  壁の上に乗れた。  立てなかった。身体が揺れる。落ちる。  向こう側に落ちることを選ぶ。  背中から落ちた。  草があったけど、痛かった。  ケガした後ろ足から、血が出た。  もう後ろ足は使えない。痛い。  ルナは三つの足で立った。  不恰好に歩いた。  たくさん歩いた。  ちょっとだけかもしれない。  歩けるまで歩いた。  エドワードは、こっちにいる気がする。  倒れた。  立たなきゃ。  立てない。  立って歩きたいのに。  眠くなってきた。    何も考えられなくなる。  …………。  ……。   「あにき、なんか倒れてやすぜ」 「死んでるなら放っておけ」  誰かの声が聞こえた。  ルナは薄く目を開けた。 「こいつ、生きてる」 「ケガしてるじゃねえか」 「人を呼んで来やしょうか?」 「連れてった方がいい」  ルナは、汗と古い布、糞と尿、掘った草の根と、土の匂いがする男たちに抱えられた。  あれ?  犬の匂いもする。  ふわふわした犬。  いつも、からかって遊んでいた犬。  変なおばさんの匂いがする犬。  あれの匂いもする。  あれあれ?  いつも遊んでほしそうな、白い髪の子。  あの子供の匂いもする。  近い。  エドワードの近くまで来てる気がする。  でも疲れた。  もう目を開けていられない。 「アルフォンスの旦那、怪我は治りますか?」  温かい。気持ちいい。 「はい、もう大丈夫ですよ。おや? これは……、エドワード少佐を呼んできて下さい」  エドワード? 「これは、素晴らしい」 「え、なんすかこれ。めっちゃ細かい点々が書いてあるだけなんじゃ?」  「うんにゃ、なんぞ字が書いちゅうぞ」 「はい。これで拡大して見て下さい」   「これは、敵の人数、配置、武器、全て書かれている」 「それを子供達が調べて送って来たじゃと? 信じられん」 「ですが大隊長。食事を配った数から、犯人達の人数も正確に把握されている。後はこちらが正確に突入時間を教えれば、その時刻に合わせて、内部で陽動と攪乱を行ってくれると書いてあります」 「むぅ……」 「それだけではありません。これは、初歩の初歩、|術式印《ルーンメートカ》で書かれています」 「それがどうしたんじゃ、文字を書く魔法じゃろ?」 「おじさん、魔法についてもっと勉強しなよ」 「こら、エリー」 「だってこれ、本来は長文なんて刻めない魔法だよ? 紋章や、符号、簡単な署名ぐらいしか刻めない」 「そうだったのか」 「そうなの。それを何度も何度も重ね掛けして、これを作っている。しかも、圧倒的な縮小サイズ。気の遠くなるような作業を、襲撃から四十五時間ちょっと、この短時間でやってのけるなんてすごいわよ」 「猫に無理なく運ばせる事ができる紙のサイズを考えて、そこに最大限、情報を濃縮した形だ」 「そう、それに一日に使える呪文の数を考えても、情報が集まる前から作成を開始していないと説明がつかない。それこそ、襲撃された直後から作り始めてる計算になるわ」 「そんなに凄いのか」 「凄いなんてもんじゃないわよ。むしろ脅威的かも。これ書いたの誰なの?」 「ハリス・ヤクトブレオ、いつか私にとって、義理の弟になる少年だよ」  ルナには何の話だかさっぱり分からないが、大人達が何か興奮気味に話していることは分かった。 「突入は今夜。全員が寝静まった後、子供達だけ先に早起きできる3時から5時の間が望ましい。……とある」 「まったく呆れる。突入時刻を指定してくる人質なんぞ、初めて聞いたわい」 「だが合理的だ。爆弾の無効化にも既に成功している公算が高い。つばめもいるし、間違いないだろう」 「ただの保健教師ではないのか?」 「否」 「有り得ない話だ」 「そがなわけないろう」 「多分、違いますね」 「お、おう……」 「エリー、最短で編成を替え、配置を動かし、突入可能な時間は何時になるか、今すぐ演算してくれ」 「任せて。うーん、……最短で3時45分前後」 「では、4時を突入時刻とする」 「はっ、直ぐに準備させます」 「合図は探照灯で、ルナエ符号と暗号を使ってくれとある」 「生徒達は、講堂の中じゃろ。あそこは周りを廊下で囲まれていて、外の様子を確認できないはずでは?」 「一人、自由に動いてる者がいる」 「誰だ、そのやんちゃは?」 「ヴァン・ラドーレ、わしの自慢の弟じゃき」 「お手柄じゃないか」 「お手柄といえば、この二人もです。猫を見つけた」 「あにき、オレたちお手柄らしいですぜ」 「一番の大手柄ってやつなら、御褒美くれ」 「馬鹿を申すな。最大の功労者は、この最も小さき者ぞ」  この匂いは覚えてる。神父とか呼ばれてる大人だ。  いつものように撫でられた。 「みー」  ルナは小さく鳴いて、目を細めた。  天幕の外で、探照灯が夜空を向く。  突入作戦が、動き始めた。

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