ふみの世界樹 / 第39話

閑話二 第二話 居残り

 ぼくは、ウォルター・ヒギンズ。みんなからは、ウォールと呼ばれている。商人の息子で、実家はお金持ち。でも、それだけ。貴族家でもないし、この七聖学院の中では少し肩身が狭い。それに、一年遅く学院に入ったから、皆には少し気後れして、どうしても遠慮してしまう。そもそも、ハリス君みたいに勉強ができるわけでも、ヴァン君みたいに運動ができるわけでもないし、ぼくは目立たない日陰者だ。大してやる気もない。そんなぼくは、今日も居残り勉強をさせられている。でも、今日は一人じゃなかった。  ミコト・サトー。湖で見つかった、和之国から来た女の子。黒い髪に眼鏡を掛けていて、体つきは小柄で細い。最初に見た時は、静かな子だと思った。けれど、静かというより、知らないことが多すぎて、声を出す前に一度考え込んで、そのまま時を逃してしまう子なのだと、最近は少し分かってきた。皇國語にも不慣れだし、文字を書く時も、指先に力が入りすぎていることが多い。それにすぐ謝ってばかりいる。それが和之国人の気質なのか、ミコトさん特有の性格なのかまでは分からない。  今、そのミコトさんは、机の前に座っているのに、何度も教室の扉の方を見ていた。机の上には歴史の教科書と歴代皇帝の一覧図が広げられている。ペンも持っている。けれど、気持ちは教室の外へ行きたがっているように見えた。 「だから、ミコトちゃんがトイレ掃除に行っても、ヴァンとハリスは喜ばないのよぅ」 「でも……」  先生役を任されたオーレリアは、勉強もできる優秀な子だ。いつも手帳を持っていて、何かあればすぐ記録する。記録のためなら、どこにでも何にでも首をつっこむ感じの子だから、今回も多分きっとそんな感じだったのだろう。学院に来たばかりのミコトさんは、きっと振り回されたに違いない。ぼくがいつもローティに連れ回されるように。かわいそうに。 「私だって行きたいわよぅ。でも今のミコトちゃんがやるべきことは、皇國語と歴史を覚えることなのよぅ」 「でも、二人だけ、罰を……」  例の旧塔に忍び込んだ事件に、この二人も関わっていたのだろう。ヴァン君とハリス君が罰を受けていることは、ぼくも知っている。だから、ミコトさんが気にしているのは、たぶんそのことなのだと思う。それで彼女達がトイレ掃除に行きたいのは分かった。でも、どうしてそこまで気にするのかは分からない。ぼくは旧塔で何があったのかを詳しく知らないし、聞いていいことなのかも分からない。だから聞かない。ぼくは、そういうところで踏み込んでいい人間ではない。 「そこは二人が決めたことなのよぅ」 「でも、わたしも、行きました」 「それは知っているのよぅ。でも、だから今、ミコトちゃんがすべきことは掃除じゃないのよぅ」  オーレリアは、机の上で歴史の教科書を開いた。その本の厚さを見ただけで、ミコトさんの顔が少し白くなった。ぼくは、とっくに青ざめている事だろう。歴史の教科書は普通に重い。物理的にも、内容的にも。紙の束というより、過去の偉い人達が束になってこちらを押し潰そうとしているように見える。 「ミコトちゃんが皇國語を読めるようになれば、次に何かを見つけた時、もっと早く分かるのよぅ。歴史を覚えれば、名前や事件に気付けるのよぅ。皇帝の名前を覚えれば、ヴェナリスみたいな名前が出た時に、そこで気付いて立ち止まれるのよぅ」  ヴェナリス。その名前が出た時、ミコトさんの手が少し止まった。ぼくは、何となく息をひそめた。ヴェナリス=ロートシュタール。緋鋼帝國の第十二代緋鋼皇帝。つまり現在の皇帝陛下。歴史の授業に出てくる名前だ。すごい人、怖い人、国号を変えた人、という感じで習う。けれど今の二人の顔を見ると、どうやら、それだけではないらしい。ぼくは聞かなかった。いや、聞けなかった。聞いて良さそうな雰囲気ではなかったからだ。もちろん、そんな雰囲気であったとしても、ぼくが女の子に何か聞くなんてこと、できやしないんだけど。 「はい、それじゃ次に行くわよぅ。歴代皇帝、最初から」 「はい……」  ミコトさんは、ものすごく覚悟した顔で紙を見た。オーレリアが持っている一覧表には、皇帝の代数と名前がずらりと並んでいる。ぼくはそれを見て、目を逸らした。全部覚えろと言われると、文字が列を作って襲ってくるみたいに見える。代数、名前、家名、何をした人なのか。ぼくには、それらが綺麗に並んだ知識ではなく、ただ長くて難しいものの群れに見えた。 「まず、初代皇帝」 「アルバート……シュタール」 「正解なのよぅ。建国の皇帝なのよぅ」 「けんこく……国を、作った人」 「そうなのよぅ」  ミコトさんの顔が、ほんの少し明るくなった。初代皇帝アルバート・シュタール。建国の皇帝。そこは、ぼくですら覚えている。初代だから覚えやすいし、何だかものすごく長く生きたとか、不老不死だとか、神格に昇ったとか、そういう話まで一緒に出てくる。と言うよりは、建国神話だ。現在では人間達の守護神で、この国の守り神、アーダル様だ。これを知らなければ緋鋼国民ではないと言う人までいる。 「じゃあ、次はミコトちゃんに関係ありそうなところへ行くわよぅ。第七代皇帝」 「え、七代……」  最初からと言ったのに、急に飛んだ。なぜだ。オーレリアの考えていることは、ぼくには分からない。ミコトさんは慌てて一覧表を見た。ぼくも少しだけ覗いた。第七代皇帝。そこに書かれている名前を、ミコトさんは指で追いながら、少しずつ読んだ。 「セイト……クリストフ、三世」 「正解なのよぅ」 「和之国……」  ミコトさんが、小さく言った。和之国、ミコトさんの故郷だ。第七代皇帝セイト・クリストフ三世は、その和之国で生まれ育ち、公用語を制定し、教育を徹底した皇帝。皇立学園、今は帝国学院になっているけれど、首都の大きな学校を創立した人。 「第七代皇帝は、和之国で生まれ育った人なのよぅ。それから、冠字を起用して公用語を新たに制定したり、皇立統合学術園を作って教育を徹底した人なのよぅ」 「公用語……、冠字」  冠字は、ぼくも簡単なものなら理解できる。あれは文字というよりも絵だ。意味を持った文字。あけべ文字で単語の綴りを覚えるよりは楽しい。 「はい、おさらいよぅ。初代皇帝の名前は?」 「アルバート……ショタール?」 「ショタ?」 「しゅ、シュタール!」 「正解なのよぅ」  ミコトさんは、すごく慌てていたが、正解と聞いてほっと息を吐いた。 「では、第十一代皇帝。ウォール君」 「はいっ」  急に呼ばれて、ぼくは背筋を伸ばした。オーレリアは、にこりと笑って、ぼくの紙の方へ視線を向けた。 「第十一代皇帝」 「……えっと」  止まった。完全に止まった。第十一代。初代でも、第七代でも、第十二代でもない。さっき一覧表を見たはずなのに、頭の中から綺麗に抜けている。ミコトさんが、ぱっとこちらを見た。目が少しだけ輝いている。仲間を見つけた、という顔だった。やめてほしい。本当にやめて欲しい。 「ウォール君?」 「お、覚えてません……」  正直に言った。オーレリアは、怒らずに、またにこりと笑った。 「第十一代皇帝は、先代皇帝陛下でしょ。今の皇帝陛下のお父様で、鋼竜戦争で戦死なさったのよぅ。私たちが2歳の時なのよぅ」  ぼくは3歳だけどね。どっちにしろ覚えちゃいないよ。ミコトさんは、ふんふんと熱心にうなずきながらノートに書いている。 「それじゃ、次は第八代皇帝」  それは覚えている。覚えているはずなのに、名前が出て来ない。何だっけ、何だっけ。 「はい、時間切れ。マリナ=ロートシュタールなのよぅ。初の女皇帝で、魔術を尊び、国の経済と己の寿命を延ばすことに成功した人なのよぅ」 「女皇帝……」  ミコトさんが、小さく繰り返した。ぼくも言われてから思い出した。そう、女皇帝。きっとオーレリアみたいに強い人に違いない。 「はい。二人とも、第八代を書き取りなのよぅ」 「はい……」 「はい……」  ぼくとミコトさんの声が重なった。それが少しおかしくて、ミコトさんが小さく笑った。ぼくも少し笑った。居残りは嫌だ。でも、一人ではない。それだけで、少しはマシだった。  窓の外は、もう夕方だった。ヴァン君とハリス君は、まだ掃除をしているのだろうか。ミコトさんはまた扉の方を見た。けれど、今度はすぐに紙へ目を戻した。オーレリアの言葉が、効いたのかもしれない。掃除に行くより、今やるべきことをやる。ぼくには、旧塔で何があったのか詳しくは分からない。ミコトさんが何を気にしているのかも、全部は分からない。ただ、分からないことがあるせいで誰かを助けられなかったのなら、次に分かるようになりたいと思うのは、たぶん自然なことだ。  ミコトさんは、またペンを握った。 「ウォールさん」 「何?」 「第八代、いっしょに、覚えましょう」  ぼくは、少しだけやる気になった。 「うん」

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