ふみの世界樹 / 第20話

第十九話 剣

 剣の勝負は、裏庭で行われた。  裏門を抜けた先の庭園には、午後の光が斜めに落ちていた。低い花壇と、刈り込まれた植え込み。古い石畳の向こうには、湖へ下りる階段が見える。  ミコトは、その先の桟橋を一瞬だけ見た。  最初に目を覚ました場所だった。  ミコトはそちらから意識を二人に戻した。  ロイが、木剣を手にしている。ヴァンもまた、別の木剣を受け取っていた。  どちらも剣術の授業で使うものだ。 「待って、ロイ様」  先に止めたのは、オーレリアだった。  いつもならすぐに開かれる手帳は、胸元で閉じられていた。筆記具も出ていない。 「剣で勝負する必要なんてないのよぅ。さっきの皇國将棋《ピスコレ》だって、ちゃんと勝負だったわ」  ロイは振り返った。  いつものように明るい顔だが、真剣さも同居しているように見えた。 「オーレリアは、僕が怪我をするのが嫌なのか」 「当然よぅ」  オーレリアは眉を寄せた。 「ロイ様が怪我をするのも、ヴァンが怪我をするのも、私は嫌よぅ」  ロイの表情が、少しだけ緩んだ。  嬉しそうだった。  その顔に、オーレリアがさらに困る。 「喜ぶところではないのよぅ」 「すまない。嬉しかった」 「そういうところよぅ」  ミコトは、二人を見ていた。  ロイは、初めて会った時から勢いの強い少年だった。声は大きく、感情はまっすぐで、オーレリアのこととなると隠すということを知らない。  許嫁。  その言葉は知っている。  けれど今、ミコトの前にあるのは、言葉だけではなかった。オーレリアは本気で困っているのに、ロイを突き放すようには見えない。ロイもまた、はしゃいでいるだけではなく、オーレリアの言葉をちゃんと聞いている。 「ロイ君」  ハリエットも一歩前に出た。 「本当に、戦う必要はないと思う。木剣でも、当たったら痛いよ」 「分かっている」 「だったら」 「だから、ちゃんと真剣にやる」  ロイの声が少し変わった。  オーレリアへ向ける浮き立った声ではない。大人に向ける礼儀正しい声でもない。  剣を持った者の声だった。 「ちゃんとやらない方が危ない。僕は、ヴァンを傷付けたいわけじゃない」  ハリエットはまだ不安そうだった。  ハリスが、庭を見回している。  ローティは悪気なく笑っていた。 「面白くなってきた」 「面白がるな」  ハリスが即座に返す。 「怪我をしたら面白くない」 「分かってるって。でも、見たいだろ」 「見たいかどうかと、安全は別だ」  ヴァンは、そのやり取りを聞いているのかいないのか、木剣を片手に立っていた。  止めず、急かさず、構えもしない。  ただ、ロイを見ている。  何を考えているのか、全く分からなかった。 「ヴァンさんは、止めないの?」  ミコトは小さく聞いた。  ヴァンがこちらを見る。 「ロイがやるって」 「でも、オーレリアさんもハリエットさんも、しなくていいって」 「二人は、ロイじゃない」  短い返事だった。  突き放しているようにも聞こえたけれど、違う気がした。ヴァンは、ロイを軽く見てはいない。止めないって、そういうことだ。ロイが自分で決めたなら、それが大事なんだ。 「ヴァン」  ロイが呼んだ。 「お前は、止めないんだな」 「なんだ。止めてほしいのか」 「いいや」  ロイは笑った。  オーレリアが、胸元の手帳をぎゅっと抱いた。 「ロイ様」 「うん」 「私は、やっぱり反対よぅ」 「そうだろうな」 「ロイ様が、私のために何かしようとしてくれるのは嬉しいわ。でも、私のためだと言って、痛い思いをしてほしいわけではないのよぅ。そんな勝負なんてしなくても、ちゃんと私は『ロイ』を認めてるのよぅ」  ロイは、黙って最後まで聞いていた。  それが少し意外で、ミコトは瞬きをする。勢いだけの少年かと思ったら、オーレリアの言葉を、ちゃんと受け止めている。 「ありがとう、オーレリア」  ロイは静かに言った。 「それは、すごく嬉しい」 「だったら」 「でも、それでもやる」  オーレリアの手が、手帳を抱く力を少しだけ強めた。 「どうしてよぅ」 「オーレリアが僕を認めてくれているからこそだ」  ロイはヴァンを見る。  もう、照れた顔ではなかった。 「君が認めてくれている僕が、ここで引くわけにはいかない」  オーレリアが口を閉じる。 「僕は、君が一番大事だ」 「ここで言わなくてもいいのよぅ」 「ここで言う」 「なぜよぅ」 「大事なことだからだ」  真っ直ぐすぎる。  ミコトは、見ているこちらの方が少し恥ずかしくなった。けれど、ロイの声はそこで止まらない。 「でも、君が一番大事だからこそ、引けない時がある」  ロイの一人称が変わる。 「オレは、君の前で逃げる男にはなりたくない」  オーレリアが顔を上げた。 「君に格好をつけたい。情けないところを見せたくない。それもある。けど、それだけじゃない」  ロイはヴァンを見る。 「さっき、盤の上で向き合って分かった。こいつは、ちゃんと正面から向き合わないと見えない。まだ何かある」  ヴァンは何も言わない。 「だから、剣でも向き合う。オーレリアの許嫁としてだけじゃない。ロイ・アッシュフィールドとして、引けない」  オーレリアは困ったように息を吐いた。 「……ロイ様は、馬鹿ねぇ」 「知っている」 「そこは否定してほしかったのよぅ」 「君に嘘はつけない」 「そういうところよぅ」  呆れた声だった。  でも、そこには小さな柔らかさがあった。  ミコトは、少しだけ置いていかれたような気がした。  ロイの真っ直ぐさ。オーレリアの困った顔。二人の間にある、これまでの時間。ここまでの距離。 「分かったわ」  オーレリアが言った。 「止めても、ロイ様はやるのね」 「やる」  オーレリアは、しばらく黙って目を閉じた。  開いた。そして、手帳を広げた。 「なら、記録するわ」  筆記具を持つ手が、少しだけ震えていた。 「ロイ様が馬鹿なことをしたら、全部書くのよぅ」 「それは困る」 「困るなら、馬鹿なことをしないことねぇ」 「分かった」  ロイは笑った。  そして、ヴァンへ向き直る。 「待たせた」 「別に」 「やるぞ」 「やるか」 「ああ」  ハリスが一歩前へ出た。 「条件を確認する」  二人がハリスを見る。 「剣を落としたり、倒れたら止める。顔と首は狙わない。石畳から出ない」  ロイが頷く。  ヴァンも小さく頷いた。 「ローティ」 「前に出るなだろ?」 「ハリエット」 「怪我をしたらすぐ見るわ」 「オーレリア」 「もう記録してるわよぅ」 「ミコト」 「えっ」 「ミコトは……、見てて」 「あ、うん」  ハリスは全員を見てから、一歩下がって片手を上げた。  ロイが構える。  右足を前に出して、右手で持った剣を腰の高さに持っている。左の手は後ろに大きく開いて、なんだか優雅に見えた。  ヴァンは、まだ構えらしい構えを取っていない。木剣を握って、ただ立っている。それだけに見える。  二人の動きが止まった。  オーレリアの筆記具も、紙の上で止まった。ローティの口元から笑みが消える。ハリエットが息を詰めた。  ミコトも、瞬きを忘れた。  手を振り下ろしながら、ハリスが短く告げる。 「始めっ!」  ロイが先に動いた。  踏み込みは一歩。距離を消す一歩。  石畳を蹴る前に、一瞬。身体が沈んだ。沈んだと思う間もなく前に出ていた。  赤い髪が揺れた時には、もう木剣は突き出されている。  速い。  大振りではないし、威嚇の声もない。  踏み込んだ足から腰へ、腰から肩へ、肩から腕へ。力が途切れず、剣先へ流れ込んでいるのが素人目にも分かる。  木剣だから安全なのではない。  木剣でも怪我をする。当たり所が悪いと死ぬことだってある。  それぐらいのことは、ミコトにも分かった。  ロイは本気だった。殺す気とはまた違う本気。  怒っているのではない。傷付けたいのでもない。けれど、半端ではなかった。  ヴァンの心臓を目掛けて、真っ直ぐに線が伸びる。  ハリエットが小さく息を呑んだ。  オーレリアの羽ペンは、まだ動けないでいる。  ヴァンに剣が迫った。

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