ふみの世界樹 / 第21話

第二十話 始まり

───カァァンッ!  ヴァンの手から木剣が弾き飛んだ。  土の上を転がり、少し離れたところで止まる。  手のひらが熱い。  指の奥がじんじんしている。  ヴァンは自分の手を見て、それから前を見た。  じいちゃんが立っていた。  大きな身体だった。腕も、肩も、胸も、ぜんぶ大きい。袖の下で筋が動くたび、太い縄が皮膚の下を走っているように見えた。薪を山ほど抱えても、川で濡れた丸太を担いでも、じいちゃんは重そうな顔をしない。  そのじいちゃんが、木剣を片手に持っている。  怒っていない。  笑ってもいない。 「拾え」  じいちゃんが言った。  ヴァンは木剣を見た。  それから、もう一度、自分の手を見た。 「いたい」 「そうじゃな」 「いたい」 「そうじゃ」  じいちゃんは手を差し出さなかった。  まだ五歳の少年が、自力で立つまで、ただ待っている。  ヴァンは唇を噛んだ。  泣きそうだった。  けれど、泣いたら負けたみたいで嫌だった。  木剣のところまで歩き、両手で拾う。 「もう一回じゃ」 「……うん」  じいちゃんみたいになる。  だから、ヴァンは木剣を握った。    *  ヴァンが最初に覚えているじいちゃんは、いつも前にいる背中だった。  山道を歩く時も、川へ下りる時も、森の中を進む時も、じいちゃんは前にいた。ヴァンはその後ろを、小さな足で追いかける。  朝の山は光っていた。  葉の先に水の粒がついていて、歩くたびにきらきら揺れる。濡れた土は少し甘いにおいがした。鳥の声は高く、遠くの川はまだ見えないのに、さらさらと音だけが先に聞こえてくる。  じいちゃんは、その全部を知っていた。 「あの鳥はな、雨のあとによく鳴く」 「すげえ」 「あの雲が伸びる日は、昼から風が変わる」 「すげえ」 「川の音が高い時は、水が増えておる」 「すげえ」  ヴァンには、ほとんど分からない。  けれど、じいちゃんが指を向けると、ただの山も、川も、空も、急に何かを隠しているように見えた。 「転ぶぞ」 「ころばない」  言ったすぐあとに、木の根につまずいた。  じいちゃんの手が伸びる。地面に落ちる前に、ヴァンの身体はひょいと持ち上げられていた。  片手だった。  ヴァンが両手でしがみついても動かない腕で、じいちゃんは軽々と持ち上げる。 「転んだな」 「ころんでない」 「そうか」  じいちゃんは笑って、ヴァンを肩へ乗せた。  肩の上は高い。  木の枝も、道の先も、遠くの湖も、いつもよりよく見える。朝の光が湖の上で細かく砕けて、銀の粉をまいたみたいにきらきらしていた。 「じいちゃん」 「なんじゃ」 「すげえ」 「そうか」  じいちゃんは、何でもできた。  魚を釣る。  火を起こす。  獣の足跡を見つける。  鳥の声を聞き分ける。  雲の流れを見て、明日の天気も当てる。  夜になれば、星を指して、あれは旅人の目印だとか、あれは昔の王の剣だとか、よく分からない話をしてくれた。  ヴァンには、半分も分からなかった。  それでも、じいちゃんの声を聞いているのは好きだった。  ある朝、じいちゃんは細い竿を二本持ってきた。 「今日は釣りじゃ」 「つり」 「魚を釣る」 「さかな」 「食う」 「くう」  ヴァンは頷いた。  分かっていない顔で、しっかり頷いた。  川辺は冷たかった。  水は澄んでいて、石の間を小さな魚の影がすいと抜けていく。日の光が水の上で跳ね、川底の白い石がゆらゆら揺れている。ヴァンはそれを追いかけようとして、襟首を掴まれた。 「落ちる」 「おちない」 「落ちる前じゃ」  じいちゃんはヴァンを平たい石に座らせ、竿の持ち方を教えた。  糸を垂らす。  待つ。  水はきれいだった。風が吹くと、光が細かく割れる。魚の影が動くたびに、川の中の世界まで動いているように見えた。  ヴァンはすぐに飽きた。 「まだ?」 「まだじゃ」 「まだ?」 「魚にも都合がある」 「さかな、こない」 「お前が騒ぐからじゃ」  ヴァンは口を閉じた。  すぐ開いた。 「きた?」 「まだじゃ」  じいちゃんは声を立てずに笑った。  やがて、竿の先が小さく震えた。  じいちゃんの大きな手が、ヴァンの手に重なる。 「今じゃ」  引いた。  水面が跳ねる。  銀色の魚が、光を散らして宙へ上がった。 「とれた」 「釣れたな」 「じいちゃん、すげえ」 「今のは、お前が釣った」 「おれ?」 「お前じゃ」  魚は石の上で跳ねている。  ヴァンは笑いかけて、少し止まった。 「これ、くうの?」 「食う」 「食うなら、殺す。殺したなら、食う」  ヴァンは魚を見た。  さっきまで水の中で光っていたものが、今は自分の前で跳ねている。  昼には、その魚を焼いて食べた。  塩だけだった。  皮はぱりっとしていて、白い身から湯気が立った。熱くて、少し焦げていて、うまかった。 「うまいか」 「うまい」 「なら、覚えておけ」 「なにを?」 「それが、命をもらうということじゃ」  ヴァンは、よく分からなかった。  けれど、魚がうまかったことと、じいちゃんの声が静かだったことは覚えた。  別の日には、狩りを見に行った。  ヴァンは弓を持たなかった。  剣も持たなかった。  ただ、じいちゃんの後ろを歩いた。 「今日は見るだけじゃ」 「おれもやる」 「まだ早い」 「できる」 「歩く音がでかい」 「でかくない」  ヴァンが一歩踏む。  落ち葉が、ばり、と鳴った。 「でかい」 「……ちょっとだけだ」 「獣には十分じゃ」  森の中で、じいちゃんの足音は消えた。  あんなに大きな身体なのに、枝を踏まない。葉を鳴らさない。息も乱れない。肩は岩みたいに大きくて、腕は丸太みたいに太いのに、森の中では風みたいに静かだった。  ヴァンは真似しようとして、できなかった。足を置けば音が出る。枝を避けようとすれば、別の枝に袖が引っかかる。  じいちゃんは時々立ち止まり、ヴァンが追いつくのを待った。  森の奥で、じいちゃんが手を上げた。  ヴァンは止まった。  木々の隙間に、光が落ちている。  その中に、大きな角を持つ獣がいた。  背中に朝の光を受け、毛並みが金色に見えた。ゆっくり草を噛み、耳だけを動かしている。  ヴァンは声を出しそうになって、慌てて口を押さえた。  じいちゃんが弓を構えた。  動きはゆっくりだった。  けれど、いつ放ったのか、ヴァンには分からなかった。  弦の音が鳴った時には、矢はもう飛んでいた。  獣が倒れる。  森が、音を取り戻す。 「じいちゃん」 「なんじゃ」 「すげえ」 「そうか」  じいちゃんは獣の前に膝をついた。  ぞんざいには扱わない。  血のにおいがして、ヴァンはじいちゃんの袖を掴んだ。袖の下の腕は硬く、温かかった。 「こわいか」 「こわくない」 「そうか」 「……ちょっとだけ」 「そうか」  大きな手が、ヴァンの頭に乗る。 「怖いと思えるなら、まだ大丈夫じゃ」 「こわいのに?」 「怖いものを怖いと分かるのは、大事じゃ」  その夜、小屋の中、ヴァンは火のそばで眠った。  火は赤く、ぱちぱちと小さな音を立てていた。肉の焼ける匂いがまだ残っている。外では虫が鳴き、草がこすれ、夜の山がゆっくり息をしていた。  何かが鳴くたびに、ヴァンは布の中から顔を出す。 「じいちゃん」 「なんじゃ」 「いまの、なに?」 「狐じゃ」 「まもの?」 「違う」  しばらくすると、また別の声が聞こえた。 「じいちゃん」 「なんじゃ」 「いまのは?」 「梟じゃ」 「まもの?」 「違う」  次に聞こえた音で、じいちゃんが起きた。  それだけで、ヴァンも目を覚ました。  家の外で、何かが動いている。  獣とは違う。  鳥でもない。  地面を擦るような音と、濁った息。 「じいちゃん」 「動くな」  じいちゃんの声は低かった。  怒った声ではない。  でも、いつもの声とも違う。  壁際に置いていた剣を取る。鞘が火を受けて、鈍く光った。  ヴァンは、その時初めて、剣を怖いものだと思った。  じいちゃんが小屋の外へ出る。闇から、魔物が飛び込んできた。  爪が見えた。  牙が見えた。  濁った目が、火の明かりを弾いた。  次の瞬間、じいちゃんは魔物とヴァンの間にいた。  剣が光る。  音が一つ。  魔物は倒れていた。  ヴァンは息を忘れた。  火がはぜる。  血のにおいがする。  じいちゃんは、ゆっくりと剣を下ろした。 「怪我はないか」  ヴァンは答えられなかった。 「ヴァン」 「……ない」 「そうか」  じいちゃんは頷いた。  それだけだった。  魔物を倒したことを誇らない。  怖がったことを笑わない。  ただ、ヴァンが無事かどうかだけを確かめた。 「じいちゃん」 「なんじゃ」 「すげえ」  声が震えた。  じいちゃんは少しだけ笑った。 「怖かったか」 「こわくない」 「そうか」 「……ちょっとだけ」 「そうか」  その夜、ヴァンはなかなか眠れなかった。  目を閉じると、魔物の目が浮かぶ。  爪が浮かぶ。  それから、じいちゃんの背中が浮かぶ。  魔物と自分の間に立った背中。  怖いものの前から、逃げなかった背中。  朝になって、ヴァンは外へ出た。  じいちゃんは、昨夜の剣を拭いていた。  刃はもう鞘に収まっている。  昨日の怖さは、そこにはなかった。 「じいちゃん」 「なんじゃ」 「おれも」 「うん」 「おれも、それやる」  じいちゃんは手を止めた。 「これか、剣か」 「けん」 「どうしてじゃ」 「じいちゃんみたいになる」 「じいちゃんみたいに?」 「うん」  ヴァンは頷いた。 「まものがきても、まえに立つ」  じいちゃんは、しばらく黙っていた。  鳥が鳴く。  朝の空気は冷たく、吐く息が白かった。 「剣は、格好をつけるためのものではない」 「うん」 「強く見せるためのものでもない」 「うん」 「怖くないふりをするためのものでもない」 「……うん」 「それでも学ぶか」 「まなぶ」 「言われた通りにするか」 「する」 「そうか」  じいちゃんは、持っていた剣を差し出した。 「持て」  ヴァンは両手を出した。  重かった。  木でも、枝でもない。  持った瞬間、腕が下がる。胸の奥まで、ずしんと何かが落ちた。 「それが剣じゃ」 「けん」 「人を殺せるものじゃ」  ヴァンは剣を見た。  急に、手の中のものが怖くなった。  じいちゃんはすぐに取り上げなかった。  ヴァンがその重さを覚えるまで、ただ見ていた。  やがて、じいちゃんは剣を取り上げた。 「しばらくは、こっちじゃ」  じいちゃんは、短い木の棒を渡した。  木の棒なのに、さっきの剣の重さが手に残っていた。 「両手で持て」 「うん」 「足を開け」 「うん」 「腰を落とせ」 「うん」  ヴァンは言われた通りにした。  じいちゃんは何も言わずに、ヴァンの姿勢を直した。  腹に触れ、顎を引かせ、背中を伸ばす。肩を下げ、肘の角度を変え、最後に小さな手の上から握りを確かめる。  何を直されたのか、ヴァンには分からなかった。  でも、その形のほうが、さっきより長く立っていられる気がした。  両手で棒を持つ。  足を開く。  腰を落とす。  それだけだった。  振らない。  歩かない。  打たない。  ただ、立つ。  最初は平気だった。  けれど、すぐに足がぷるぷるした。腕が重くなる。背中が痛い。息が苦しい。 「いつまで?」 「立て」 「けん、ふらないの?」 「立て」 「つまんない」 「立て」  ヴァンは唇を尖らせた。 「もういい?」 「立て」 「なんで?」 「言われた通りにすると言うたな」 「……うん」 「なら、立て」  ヴァンは立った。  膝が震える。  棒が下がる。 「放すな」 「うん」 「気絶しても放すな」 「うん」  ヴァンは握った。  手が痛い。  腕が痛い。  足が痛い。  山の光も、川のきらきらも、鳥の声も、どこかへ行ってしまったみたいだった。  あるのは、棒の重さと、足の痛さだけだった。 「じいちゃん」 「なんじゃ」 「もういい?」 「立て」  また、立つ。  日が少しずつ動く。  影が伸びる。  汗が頬を流れて、顎から落ちる。  ヴァンは何度も棒を落としそうになった。  そのたびに、じいちゃんの声が落ちた。 「放すな」  ヴァンは握った。  夕方になった。  腕はもう上がらない。  足も、どこが痛いのか分からない。  息を吸うたびに、胸がぐしゃっとなる。  涙が出た。  止まらなかった。 「もうやだ」  棒が震える。 「やりたくない……」  ヴァンはその場に崩れた。  土に膝がつく。  両手の中で、棒だけは握っていた。 「もうやめたい」  じいちゃんは、いつもみたいに言った。 「そうか」

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳