⛰️終末 金剛山 / 第35話

Echo 03 『 滴る吐息 』

サントラ イメージソングはこちらからどうぞ https://open.spotify.com/playlist/6bFZdpvxKZC0kdREsooTmc?si=a1feec7479d64356 対応番号 : 5 / 6
「……ねぇ」  窓の外では、|叩《たた》きつけるような大雨が世界を白く|煙《くゆ》らせている。ガラスを打つ|雨粒《あまつぶ》の|振動《しんどう》が、古い家の柱を|細《こま》かく|震《ふる》わせていた。  ここ最近、ある意味では|由依《ゆい》と上手くやれていると思う。|相変《あいか》わらず「女を|口説《くど》くような|真似《まね》はしないでよね」などと|釘《くぎ》を刺される日々だ。  俺ってそんなに女たらしなのだろうか。  学校では転入生という身分もあって、|好奇心《こうきしん》の目に|晒《さら》されることが多い。 「|甘奈《あまな》と付き合ってるって本当か!?」なんて|詰《つ》め寄られることもあるが、俺は教えられた通り「|幼馴染《おさななじみ》で、ずっと昔から付き合ってたよ」と返すしかない。  そんな俺を見て、同級生どもは「くぅ~勝ち組かぁ……|羨《うらや》ましいなぁ」なんて|零《こぼ》す。だが、その言葉はどこか薄い|膜越《まくご》しに聞こえていた。笑い声が耳に届くたび、自分だけが別の場所に立っているような感覚が残る。  一匹狼の俺の周囲には、|幼馴染《おさななじみ》の|甘奈《あまな》と|由依《ゆい》、生徒会長の|晶子《しょうこ》。そして……。 「ねぇってば、聞こえてるの?」  そう、この家族の「妹」である|未夏《みか》も、この学校に通うことになった。父親の長期不在に伴い、パパっ子の彼女が転校手続きを経てこちらへやってきたのだ。 「あぁ、悪い。考え事してた」  ぼやきながら、俺はリビングのソファに深く|腰《こし》を沈めた。  今日はゴールデンウィークの|真《ま》っ|只中《ただなか》だが、外はあいにくの|土砂降《どしゃぶ》りだ。|RIME《ライム》で連絡を取り合っているが、|甘奈《あまな》は家事に追われ、|由依《ゆい》はバイトで忙しいらしい。  二人の家庭は、聞けばひとり親だという。母を亡くし、|甘奈《あまな》が亡き母の代わりに|酒浸《さけびた》りの父親を|甲斐甲斐《かいがい》しく世話しているのだと、以前|由依《ゆい》が|愚痴《ぐち》を言っていた。  かつて|由依《ゆい》が吐き捨てるように言った言葉を思い出す。 「お姉ちゃんは、|酔《よ》って泣き言を言う父親をずっと支えてるの。お姉ちゃんが疲れてぐったりしてるところなんて見たことないよ。……だから、あんたみたいな『世話の焼ける男』を見ると、お姉ちゃんが苦労する姿が重なってイライラするの」  俺は手元のリモコンをそっと置いた。  画面の中で大声を出す芸人の姿が歪み、|由依《ゆい》の|頑《かたく》なな横顔が|脳裏《のうり》に重なった。彼女が向けてくるあの冷ややかな視線の|鋭《するど》さが、どこか|腑《ふ》に落ちる。俺の後ろに、彼女は別の誰かを重ねていたのだろう。  俺はリビングの机にあるリモコンを|弄《いじ》り、特に見るわけでもない番組をザッピングする。  湿気を吸った|畳《たたみ》と古い木材の|匂《にお》い。雨に|冷《ひ》やされた空気が、|裸足《はだし》の|足裏《あしうら》からじわりと体温を|奪《うば》っていく。テレビの中では芸人が大げさに笑っていたが、その|甲高《かんだか》い声だけが|妙《みょう》に空間から浮いていた。  |傍目《はため》から見れば、ただ|暇《ひま》を持て|余《あま》している高校生にしか見えないだろう。|未夏《みか》は何度もあくびを|噛《か》みころし、ソファに寝そべったまま|爪先《つまさき》でクッションをトントンと|不規則《ふきそく》に|叩《たた》いていた。 「はぁ~あ、何か楽しいことないかなぁ」  都会の|喧騒《けんそう》を知る彼女の目に、窓の外の|静寂《せいじゃく》はどう|映《うつ》っているのだろうか。学校の授業こそDX化されているが、生活の|根幹《こんかん》まではデジタルに染まりきっていない。  窓の向こうには、|霧《きり》に|煙《くゆ》る深い森が広がっている。重く|濡《ぬ》れたシダレヤナギの枝が、風に揺れるたびに|水滴《すいてき》を落としていた。空は低く、世界全体が|湿《しめ》った布で|覆《おお》われているみたいだった。  この辺りでは「|精霊《せいれい》」デバイスも電波状況が悪く、応答速度が目に見えて落ちる。結局、調べ物や勉強以外では、自分の手足で動いたほうが早いような環境だ。  |未夏《みか》の友達の話では、都会では「|精霊《せいれい》」なしでは|決済《けっさい》も手続きもできない「完全依存社会」らしい。|脱獄《だつごく》プログラムを組んで「|精霊《せいれい》」を強制オフにし、不法な仕事に手を染めて退学になった生徒もいるという。  そんな|歪《ゆが》んだ「最先端」の噂を聞くたび、俺は深く息を吐き出し、窓の外の静かな|景色《けしき》を眺めては小さく胸をなでおろした。 「そういえば|未夏《みか》、|GW《ゴールデンウィーク》の課題は?」 「あれ? もう終わったよ」  腕のデバイスでネットサーフィンをしていた|未夏《みか》が、|画面越《がめんご》しにこっちを|覗《のぞ》き|込《こ》んできた。 「|嘘《うそ》つけ、まだ休みが始まったばかりだぞ」  |未夏《みか》は片方の|口角《こうかく》を上げてにやりと笑い、また視線をデバイスに戻した。 「……一体、どんな|裏技《ウラワザ》を使ったんだ?」  一応聞いてみると、彼女は「当ててみてよ」と|小悪魔的《こあくまてき》な|笑《え》みを|浮《う》かべるだけで教えてくれない。 「先生を|買収《ばいしゅう》でもしたのか?」 「まさかぁ」  クスクスと笑う妹。デバイスの|監視《かんし》がある以上、不正は即座に検知されるはずだ。 「それとも、この『|精霊《せいれい》』自体にすべてを任せたのか?」  彼女は|椅子《いす》の|背《せ》もたれに体重を|預《あず》け、ぷいっと顔を横に|背《そむ》けた。  |離《はな》れ|離《ばな》れに暮らしていた俺たちは、|実質的《じっしつてき》には|初対面《しょたいめん》に近い。それでも、こうして|雨音《あまおと》を聞きながら過ごす時間は、お互いの呼吸の音さえ気にならず、ただ背中に伝わる|毛布《もうふ》の|温《ぬく》もりを静かに受け入れていた。  だが思考を|巡《めぐ》らせるうちに、俺は一つ、|致命的《ちめいてき》な|違和感《いわかん》を見落としていたことに気が付いた。 「……そういえば、|GW《ゴールデンウィーク》の直前に転校手続きをしたんだったな」  俺の言葉に、|未夏《みか》はネットサーフィンをしていた視線を、|微《かす》かにこちらへ流した。 「転校前の学校で|GW《ゴールデンウィーク》の宿題を事前にやって提出したから、今手元にないって言ったんだよね」  彼女は|平然《へいぜん》と言い放った。  DX化の|隙間《すきま》を突き、|管轄《かんかつ》の違いを利用して「|免除《めんじょ》」を勝ち取るその|手腕《しゅわん》。  俺は思わずため息を漏らし、彼女のすました横顔から視線を外せなくなった。|未夏《みか》は肩をすくめ、いかにも「作り物」と分かるような|笑《え》みを|浮《う》かべて見せた。 「そろそろシャワーを|浴《あ》びるか...」  俺は|着替《きが》えを準備し、|素《す》っ|裸《ぱだか》になって|蛇口《じゃぐち》をひねる。  氷みたいに冷えた水が肩を打つ。  思わず息が|漏《も》れた。だが、水を身体にかける度に、|肺《はい》に|刺《さ》すような痛みがチクリと走った。|火照《ほて》った頭の奥が、少しずつ静かになっていく。 「お風呂|沸《わ》かしておいたから、|適当《てきとう》に入って」  ネットサーフィンしている|未夏《みか》にそう告げ、俺はタオルを首にかけたまま、上半身|裸《はだか》で|机《つくえ》に|突《つ》っ|伏《ぷ》した。|降《ふ》り続く|雨音《あまおと》を|子守唄《こもりうた》に、深い眠りへと落ちていった。  ———  数時間が|経《た》っただろうか。  まぶたの|裏《うら》を焼くような、|橙色《だいだいいろ》の光で目を開ける。|机《つくえ》に|突《つ》っ|伏《ぷ》していた|頬《ほほ》がじっとり|汗《あせ》ばんでいた。  あれほど|激《はげ》しかった雨は止み、窓の外には洗い流されたような|群青色《ぐんじょういろ》の空が広がっている。|湿《しめ》った空気の中にだけ、5月とは思えない|初夏《しょか》のような熱気が残っていた。  |微《かす》かな|頭痛《ずつう》と|眩暈《めまい》を感じながら、|薄暗《うすぐら》い台所に目を向けると、|未夏《みか》が同じように机に突っ伏して眠っていた。|薄暗《うすぐら》い|静寂《せいじゃく》が、|粘《ねば》り気のある重さで部屋を満たしている。  少し|悪戯《いたづら》でもしてやろうか——そんな軽い思考は、彼女の顔を|覗《のぞ》き込んだ瞬間に音を立てて|凍《こお》りついた。 「えっ……と……|未夏《みか》?」  |応《こた》えはない。  彼女は、泣きながら眠っていた。  長い|睫毛《まつげ》の先に|雫《しずく》が|溜《た》まり、|頬《ほほ》を|細《ほそ》く|濡《ぬ》らしている。熱を持った|吐息《といき》が、規則的に|机《つくえ》へ落ちていた。  足元に、冷たい|感触《かんしょく》が触れた。 「これは……?」  |裸足《はだし》の裏に広がる|水気《みずけ》。  |涙《なみだ》にしては多すぎる。|雨漏《あまも》りにしては|妙《みょう》に冷たい。  まるで、水だけ温度が違うみたいだった。  その違和感を確かめる前に、|未夏《みか》が|寝《ね》ぼけ|眼《め》をこすりながら身を動かした。 「んあぁ……おはよ、お兄ちゃん……」 「……今は夕方だよ」 「どっちでもいいじゃん」  |気《け》だるげな彼女の|額《ひたい》に手を当てようとする。驚くほどの熱気が伝わってきた。 「少し熱が出てないか?」  手のひらを|額《ひたい》に当てた次の瞬間、まるで|煮《に》え|滾《たぎ》る|泥《どろ》に触れたかのような|錯覚《さっかく》に|襲《おそ》われた。  びくりと手が|跳《は》ね上がる。  肌の奥で、何か|悍《おぞ》ましいモノがのたうち回っているかのような異常な熱量。  対照的に、俺の服を|掴《つか》む彼女の指先は、|墓石《ぼせき》のように|冷《ひ》え|切《き》っていた。その|歪《いびつ》な温度差が、|背筋《せすじ》に冷たい|刃《やいば》を|突《つ》き立てられたかのような、|底知《そこし》れない|戦慄《せんりつ》となって|脳髄《のうずい》を|駆《か》け|抜《ぬ》けた。  俺は|素早《すばや》く布団を敷き、力なく横たわる彼女を背負って部屋へと運んだ。背中に伝わる彼女の熱と、規則正しいがどこか危うい心臓の|鼓動《こどう》。  手慣れない手つきでお|粥《かゆ》を用意し、スプーンを口元へ運ぶが、|未夏《みか》は|頑《かたく》なに口を閉ざしたままだ。 「お|粥《かゆ》じゃ嫌だったか? じゃあリンゴを|擦《す》ってきてやるから」  立ち去ろうとした俺の腕を、彼女の手が強く引き止めた。 「行かないで」  弱々しい声。だが、その腕には、決して離すまいという|確固《かっこ》たる意志が|宿《やど》っている。彼女は布団の横をポンポンと叩き、|隣《となり》に来るよう合図した。 「……お|粥《かゆ》、ダメだったか?」  |未夏《みか》は首を振り、|震《ふる》える声で、しかしはっきりと、俺の理性を|揺《ゆ》さぶる言葉を口にした。 「|口移《くちうつ》しで食べさせてほしい」  その言葉に、|喉《のど》が小さく鳴った。部屋の空気が急に重くなる。雨上がり特有の|湿気《しっけ》が肌に貼り付き、逃げ場のない熱気が|肺《はい》の奥へ沈んでいく。  一瞬、自分の耳を|疑《うたが》った。  何を言っているんだ。  いくら長年離れて暮らしていた期間があるとはいえ、|未夏《みか》は俺の妹だ。家族に対してそんな一線を越えるような|真似《まね》、|倫理的《りんりてき》にも|常識的《じょうしきてき》にも許されるはずがない。 「……っ、|未夏《みか》、お前熱でどうにかなってるんじゃないか!?」  俺は|辛《かろ》うじて残った理性を|振《ふ》り|絞《しぼ》って声を出す。  だが、その言葉は最後まで続かなかった。  視界に映る|未夏《みか》の姿が、あまりにも痛々しく、そして脆(もろ)そうに見えたからだ。普段の|小悪魔《こあくま》めいた|不敵《ふてき》な|笑《え》みはどこにもない。|真《ま》っ|赤《か》に|火照《ほて》った|頬《ほほ》、苦しげに|震《ふる》える|唇《くちびる》、そして|涙《なみだ》の|跡《あと》が残る|睫毛《まつげ》の奥で、ただ俺だけを必死に求めている、壊れ物のような|瞳《ひとみ》。  突き放そうとした指先が、|凍《こお》りついたように止まる。  もし今、この手を|振《ふ》り|払《はら》えば――|脳裏《のうり》を|過《よぎ》ったのは、暗黒の深海で一人、肉体をバラバラに|引《ひ》き|裂《さ》かれながら消えていく|未夏《みか》の|幻影《げんえい》だった。  心臓が、|肋骨《ろっこつ》を|叩《たた》き|割《わ》らんばかりに不吉なビートを|刻《きざ》む。|冷《ひ》や汗が|首筋《くびすじ》を|伝《つた》い、どろりとした|焦燥《しょうそう》が|喉《のど》を|締《し》め上げた。  ドクン、と心臓がうるさく|脈打《みゃくう》つ。  |倫理的《りんりてき》なタブーを|警告《けいこく》する|脳内《のうない》のアラームは、彼女の放つ|圧倒的《あっとうてき》な熱気によって、じわじわと焼き切られていく。|駄目《だめ》だ、冷静になれ。そう|念《ねん》じるほどに、逃げ場のない部屋の|湿気《しっけ》が俺の思考を白く|混濁《こんだく》させていった。  正常な判断力なんて、最初から残っていなかったのかもしれない。  熱に|浮《う》かされているのは、|未夏《みか》だけではなく、俺も同じだった。  妹という境界線が、どろどろと|溶《と》けて|曖昧《あいまい》になっていく。|抗《あらが》うための正論すら頭から消え|失《う》せ、俺の理性は、彼女の放つ引力に抗うことなく流されていった。高熱にうなされ、|縋《すが》るような|瞳《ひとみ》で俺を見る彼女を前に、拒絶する選択肢はなかった。  俺は意を決して、|粥《かゆ》を口に含み、彼女の顔へと近づいた。指先で彼女の|顎《あご》をそっと持ち上げ、|唇《くちびる》が|触《ふ》れた瞬間、|未夏《みか》の肩がびくりと|震《ふる》えた。  熱い。  想像以上に熱かった。  |柔《やわ》らかい感触より先に、熱だけが神経へ流れ込んでくる。  |絡《から》みつく舌の感触。  浅く|混《ま》ざる呼吸。  |湿《しめ》った音だけが、静かな部屋にやけにはっきり|響《ひび》いていた。  彼女の腕が背中へ回る。  熱に|浮《う》かされた身体が、離れることを|拒《こば》むみたいに強く|縋《すが》りついてくる。しばらく続いたその往復の後、彼女の|瞳《ひとみ》に|恍惚《こうこつ》とした熱気が|宿《やど》ったのを見たとき、俺の理性は消失しかけていた。 「ただいま~」  |階下《かいか》から聞こえた母の声に、心臓が|跳《は》ね上がった。俺と|未夏《みか》、二人の間に|凍《こお》り付くような緊張が走る。 「……また様子見に来るからな」  俺は妹の頭を優しく|撫《な》で、おでこをくっつけて、そう約束した。逃げるように部屋を後にし、母を手伝いに|降《お》りていった。  ———  ——— |未夏《みか》視点 「あーあ、やっちゃったんだ……私」  兄が去った後、私は|天井《てんじょう》を見上げていた。  まだ|唇《くちびる》に熱が残っている。|触《ふ》れられた場所だけが、自分の身体ではないみたいに|痺《しび》れていた。  自分でも引くほど|大胆《だいたん》なことをした自覚はある。|佐野《さの》 |甘奈《あまな》という「|正解《ヒロイン》」がいることを知りながら、私は兄が寝ている|傍《かたわ》らで、|叶《かな》うはずのない恋に|独《ひと》り、|濡《ぬ》れている場所を|触《さわ》り|耽《ふけ》っていた。  奥歯を|噛《か》み|締《し》め、爪が手のひらに食い込むほど|拳《こぶし》を|握《にぎ》りしめた。情の移った|己《おのれ》の顔が、鏡を見るまでもなく|歪《ゆが》んでいるのが分かる。  でも、もし「家族」という|鎖《くさり》がなければ。お兄ちゃんと私が、ただの他人として出会っていたなら。そんな仮定に逃げ込んでしまうのは、あの日、父の泣き顔を見てしまったからかもしれない。  私を理由もなく|殴《なぐ》り、その直後に情けなく泣き|崩《くず》れた父親。 「俺は、父親失格だ」  私は心の中でそんなことないと思った。|扉越《とびらご》しに聞こえたその声に、私は絶望ではなく、|歪《ゆが》んだ同情を覚えてしまった。  何不自由なく学生生活を送れてお金でも困らなかったし、私のわがままは何でも聞いてくれた優しいお父さんだ。  父親の身に何が起きたのか全部分かるわけではない。でも少なくとも苦しむ姿を見るのが嫌で、家族だから助けてあげなきゃと私なりに学校でもいい|成績《せいせき》を出して親に心配かけないように|家事《かじ》も|完璧《かんぺき》にこなしてみせた。  そんな姿を見てお父さんは「困ったらちゃんと言いなよ」と言いながらお金を|渡《わた》してくれていた。  別に困っているわけじゃない。でも少しの足しになればと|合間《あいま》を|縫《ぬ》ってバイトしたりとかして、友達と遊ぶ時間が減っていたのを見かねて多分|渡《わた》してくれたんだと思う。  でも他人はあくまで他人。無条件で助けてくれるわけじゃない。  |善意《ぜんい》で近寄ってくる男たちをたくさん見てきた。ただそれが私にとって重要じゃないように感じてしまって、どこかで|敬遠《けいえん》してきたのもあると思う。  でも父親が長期|出張《しゅっちょう》で家に帰らなくなって寂しくなるのを父親なりに考えたのだろう。田舎にある実家通いで|明雲《めいうん》高校に転校してみたらどうかと。  私は最初は断った。  お父さんのご|飯《はん》は私が作ってきたんだよ。私がいなくなったら健康はどうするの?心配する私をよそ目に、父は|重《かさ》ねてこう言った。 「お前には1つ上のお兄さんがいる。でも|記憶障害《きおくしょうがい》で苦労しているみたいなんだ。お父さんのことなら金があるから心配ない。」  スマートフォンの画面を持つ手が、ぴたりと止まった。思考が一瞬、白い空白に染まる。  確かに小さい頃、私には兄がいたけれどほとんど|喋《しゃべ》らなかった。父親に付いて行ったのもかなり小さい頃だ。私が|駄々《だだ》こねたものだから、|仕方《しかた》なさそうに「じゃあお父さんと一緒に付いてくるか?」と聞かれた時は、ふたつ返事だった。  だからここまで育ててくれた父親には|凄《すご》く感謝している。  父の背中を思い浮かべ、私は深く、静かに頭を下げた。  胸の奥が、|温《あたた》かい何かで満たされていく。 「家族なんだから」――自分自身にそう言い聞かせ、小さく|頷《うなづ》いた。  そして転校してから数日、兄を見つけ出した時、私の体は|硬直《こうちょく》した。  目の前に立つ彼の|瞳《ひとみ》を見た瞬間、息が詰まる。  そこに広がっていたのは、底無しの暗い|沼《ぬま》。  すべてを|諦《あきら》めたような|昏《くら》い光に当てられ、私の胸は|万力《まんりき》で|締《し》め付けられるように|激《はげ》しく脈打ち、呼吸が浅く、速くなっていった。  お父さんのようなまなざしで、まっすぐな|瞳《ひとみ》で、|穢《けが》れを知らない|純粋《じゅんすい》な|眼《め》。  どうして神様は、あんな人を不幸のどん底に突き落としたのだろう。彼の|瞳《ひとみ》は、ひどく|綺麗《きれい》だった。  だからこそ|危《あや》うかった。  |雨上《あめあ》がりのガラスみたいに、少し触れれば|壊《こわ》れてしまいそうなくらいに。それなら家族の私が支えなきゃいけない。私はいけない|領域《りょういき》に|踏《ふ》み|込《こ》もうとしていた。 「たとえ世界が|嘘《うそ》で|塗《ぬ》り固められていたとしても、家族ってことは唯一無二の絶対なのだから」  私がしようとしていることは|傲慢《ごうまん》かもしれないけれど、それが私にとっての|唯一《ゆいいつ》運命に対する反抗なのだから。家族という名の|檻《おり》の中で、私はこの愛を|貫《つらぬ》く。 「私の愛で、|癒《いや》されますように」  私は自分の右手を左手で包み込み、|祈《いの》るように顔を埋めた。  |夕闇《ゆうやみ》が忍び寄る部屋で、私の熱だけがいつまでも冷めずに残っていた。窓の外で|濡《ぬ》れたシダレヤナギの静かに|揺《ゆ》れる音が眠気を|誘《さそ》う。 <i1161129|51129>

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