⛰️終末 金剛山 / 第36話

Echo 04 『 弦音の洗礼 』

サントラ イメージソングはこちらからどうぞ https://open.spotify.com/playlist/6bFZdpvxKZC0kdREsooTmc?si=a1feec7479d64356 対応番号 : 7 / 8
 俺は帰宅部だ。  正確には、そうあることを望んでいた。だが、生徒会長から「|内申点《ないしんてん》に|響《ひび》くぞ」と何度も念を押され、結局どこかの部に所属する|羽目《はめ》になった。  妹の|未夏《みか》は水泳部だ。  俺も|誘《さそ》われたが、どうにも「水」が|駄目《だめ》だった。  シャワーの|水滴《すいてき》が肌を打つだけで、|肺《はい》の奥がきりきりと|縮《ちぢ》む感覚がある。  以前、学校のプールで水に入った瞬間、|喉《のど》の奥に冷たい鉄を押し込まれたみたいに呼吸が止まり、そのまま意識を失った。気づけば病院の白い天井を見上げていた。 「仕方ないよね、お兄ちゃんはプールに長時間入れないもんね」  |未夏《みか》は残念そうに|唇《くちびる》を|尖《とが》らせながらも、俺の部活探しに付き合ってくれていた。あの「事件」以来、彼女は少しだけ大人しくなった気がする。 「スポーツはダメなの?」 「いや、出来なくはないんだがな……」  高校一年の頃、三十六キロマラソンを完走した記録が残っているらしい。記録用紙の数字だけ見れば、俺はかなり体力がある人間だ。  だが今の俺は、とにかく楽をしたかった。  それに、|時折《ときおり》|肺《はい》の奥を|掻《か》きむしるような|痛《いた》みが走る。  病院でレントゲンを|撮《と》っても|異常《いじょう》なし。だが、白黒の|陰影《いんえい》を見つめていると、胃の|腑《ふ》が裏返るような|悪寒《おかん》が走る。  |肺《はい》の|最奥《さいおく》。  そこに|蠢《うごめ》く、肉を引き|裂《さ》くような黒い|粘着質《ねんちゃくしつ》の指。それは悪魔の|触手《しょくしゅ》さながらに、|気管支《きかんし》の|粘膜《ねんまく》を内側からじっとりと|撫《な》で回し、|喉元《のどもと》へ向かって|微《ほの》かに|脈打《みゃくう》ちながら|這《は》い上がってくる。  逃げ場の無い肉体の|檻《おり》の中で、未知の怪物が|孵化《うか》を待っているかのような|悍《おぞ》ましい感触に、全身の毛穴が|総毛立《そうけだ》った。  |気味《きみ》が悪かった。  医者からも「|激《はげ》しい運動は|控《ひか》えろ」と言われ、選択の|武道《ぶどう》でも|柔道《じゅうどう》や|剣道《けんどう》は|避《さ》け、|卓球《たっきゅう》を選んでいた。 「うーん、お兄ちゃんって音楽は?」 「……音を|褒《ほ》められたことならある」  俺は視線を落とし、小さく首を振った。  |大勢《おおぜい》の視線が自分一点に集まる|光景《こうけい》を想像するだけで、肌に冷たい汗が|滲《にじ》む。  |吹奏楽部《すいそうがくぶ》の演奏を横目に見た時に感じた、あの光景は今でも|脳裏《のうり》に焼き付いている。|金管楽器《きんかんがっき》の音が|廊下《ろうか》の窓ガラスを|震《ふる》わせ、|陽射《ひざ》しの中で|埃《ほこり》が|揺《ゆ》れていた。  ああいう“青春の中心”みたいな場所に、自分が立っている姿は想像できない。 「それなら、|茶道部《さどうぶ》は?」 「悪くないが、成長|志向《しこう》に欠けるな」 「じゃあ……|弓道部《きゅうどうぶ》は?」  その瞬間、不思議と胸の奥に小さく何かが落ちた。  |弓道《きゅうどう》。  |激《はげ》しく走るわけでもない。数学部みたいに脳を|酷使《こくし》するわけでもない。静かで、|張《は》り|詰《つ》めていて、どこか|孤独《こどく》だ。  俺はその場で|入部届《にゅうぶとどけ》に「|弓道部《きゅうどうぶ》」と書き込み、|顧問《こもん》へ提出した。 「君が|由記《ゆうき》君か。よろしく!」  |顧問《こもん》の男は、|柔和《にゅうわ》な|笑《え》みを|浮《う》かべて右手を|差《さ》し|出《だ》してきた。案内された道場は|剣道場《けんどうじょう》と|隣《となり》り合っており、|引《ひ》き|戸《ど》を開けた瞬間、熱気が肌にまとわりついた。  |隣《となり》の|剣道場《けんどうじょう》から、|竹刀《しない》のぶつかり合う|乾《かわ》いた|衝突音《しょうとつおと》が|響《ひび》く。汗と木材と、防具に染み込んだ古い|革《かわ》の|匂《にお》い。|夕陽《ゆうひ》を吸った|床板《ゆかいた》が赤く光り、道場全体が呼吸しているみたいだった。 「|剣道《けんどう》と|兼任《けんにん》してる子がいてな。|指導《しどう》はその子に|任《まか》せてる。君は週三日くらい顔を出せばいいよ」  レンタルの|道着《どうぎ》を|渡《わた》される。|厚手《あつで》の|布地《ぬのぢ》が指にざらりと引っかかった。  |着方《きかた》が分からず|戸惑《とまど》っていると、|顧問《こもん》が|剣道場《けんどうじょう》へ向かって声を|張《は》り上げた。 「部長、いるか!」 「はい」  |凛《りん》とした声だった。空気を一本、|真《ま》っ|直《す》ぐ|切《き》り|裂《さ》くような声。|面《めん》を|着《つ》けていて顔は見えない。だが、その立ち姿だけで分かった。  強い。  |無駄《むだ》な|重心《じゅうしん》移動が|一切《いっさい》ない。|竹刀《しない》を|握《にぎ》る手の角度、足の開き、呼吸の深さ。ただ立っているだけなのに、空気が|張《は》り|詰《つ》める。 「今日から入る|在原《ありわら》 |由記《ゆうき》君だ。|弓道《きゅうどう》の|指導《しどう》を頼む」 「……三年の|辻ノ《つじの》だ。よろしく」  |差《さ》し出された手を|握《にぎ》る。汗で少し|湿《しめ》っていた。だが|驚《おどろ》くほど|滑《なめ》らかだった。|剣道《けんどう》で|鍛《きた》えた硬さと、女の肌特有の|柔《やわ》らかさが|奇妙《きみょう》に|同居《どうきょ》している。 「更衣室へ来い。|着替《きが》えを教える」  案内された更衣室には、|洗剤《せんざい》の|匂《にお》いと、|乾《かわ》き切らない布の|湿気《しっけ》、汗の|残《のこ》り|香《が》が|混《ま》じっていた。 「|匂《にお》いはそのうち慣れる。|靴《くつ》を|脱《ぬ》げ。……それから制服もだ」  女性の前で服を|脱《ぬ》ぐ経験なんて、|未夏《みか》や|甘奈《あんな》くらいしかない。制服のボタンを外す指先が|妙《みょう》にぎこちなくなる。上半身を|晒《さら》した瞬間、|辻ノ《つじの》先輩の視線が|細《ほそ》くなった。 「ふむ……素材は悪くない」  |値踏《ねぶ》みするような目。  肩。|胸板《むないた》。|腹筋《ふっきん》。視線がゆっくりと肌をなぞっていく。  そして、その目が止まった。  |沈黙《ちんもく》。  気づけば、俺の下半身が熱を持っていた。  |道着《どうぎ》へ着替える途中の|中途半端《ちゅうとはんぱ》な|格好《かっこう》。|密室《みっしつ》。汗。近距離の女性。  条件が悪すぎる。 「|喝《か》ッ!!」  頭に|鋭《するど》い|衝撃《しょうげき》。|手刀《しゅとう》だった。 「……|精神鍛錬《せいしんたんれん》も必要のようだな」 「は、はぁ……いきなり|手厳《てきび》しい……」 「|修行《しゅぎょう》の|一環《いっかん》だ。私を前にしてそんな|不埒《ふらち》な|真似《まね》、|見過《みす》ごせるわけがなかろう」  |辻ノ《つじの》先輩は小さくため息を漏らすと、すぐに表情を|張《は》り|詰《つ》めさせた。  その手は|淀《よど》みなく俺の腰へ回り、|道着《どうぎ》の|紐《ひも》をきつく|引《ひ》き|絞《しぼ》る。きゅっ、と腹部が|締《し》め|付《つ》けられる。指先が|脇腹《わきばら》を|掠《かす》めるたび、|妙《みょう》に意識してしまう。 「力を|抜《ぬ》け。呼吸が|浅《あさ》い」  耳元で低く|囁《ささや》かれ、俺は無意識に息を|止《と》めていたことに気づいた。|道場《どうじょう》へ戻ると、彼女は|面《めん》を外した。|現《あらわ》れた|素顔《すがお》は、想像以上に|端正《たんせい》だった。  白い肌。切れ|長《なが》の瞳。  汗に|濡《ぬれ》れた|前髪《まえがみ》が|頬《ほほ》へ|貼《は》りつき、|首筋《くびすじ》を|一筋《ひとすじ》の汗が流れ落ちる。その|雫《しずく》が|鎖骨《さこつ》を|滑《すべ》る瞬間、時間が一瞬だけ止まった気がした。 「ぼーっとするな。弓を引け」  渡された弓は想像以上に重かった。指に食い込む|弦《げん》の|硬《かた》さ。|肩甲骨《けんこうこつ》が|軋《きし》み、|胸筋《きょうきん》が|引《ひ》き|裂《さ》かれそうになる。弓を引き切った瞬間、全身の筋肉が|震《ふる》えた。 「っ……!」  視界が白くちらつく。  それでも、矢を|離《はな》した瞬間だけ、不思議と世界の音が消えた。  ——パンッ。  |乾《かわ》いた|弦音《つるね》だけが、静かな道場へ|真《ま》っ|直《す》ぐ|響《ひび》いた。 「ふむ……|素質《そしつ》はある」  |辻ノ《つじの》先輩がわずかに感心したような目を向ける。 「|基礎《きそ》はまだまだだが、上出来だ」  |褒《ほ》められるのは悪い|気分《きぶん》じゃない。  だが、同時に思う。  ——これ、いつまで続くんだ……?  肩が焼けるように|痛《いた》い。|握力《あくりょく》も限界だ。 「よし、そこまで」  その言葉を聞いた瞬間、全身の力が|抜《ぬ》けた。|張《は》り|詰《つ》めていた筋肉が|弛緩《しかん》し、背骨がぎしりと鳴る。 「……なかなかハードですね」  そう|漏《も》らすと、|辻ノ《つじの》先輩は大きく息を吐き、|夕陽《ゆうひ》に染まる|道場《どうじょう》の中で俺を見つめた。 「|素質《そしつ》はある。|鍛《きた》えれば伸びるだろう」  その言葉に、俺は少しだけ|嬉《うれ》しくなった。俺は少しほっとして、少しだけこの部活にやる気があるところを見せようと思った。 「明日も空いてませんか? ……少し、興味が|湧《わ》いたので」  俺がそう言うと、彼女は意外そうに目を|瞬《まばた》かせた。 「夏の大会が近い。部活中は時間を|割《さ》けん」 「あー……それじゃ仕方ないですね」  内心ほっとする。毎日これをやるのは|流石《さすが》にきつい。俺は残念そうに肩をすくめてみせた。  だが次の瞬間、彼女はさらりと言った。 「私の|家《いえ》に来るといい。みっちり|叩《たた》き|込《こ》んで、|一人前《いちにんまえ》にしてやる」  空気が止まった。俺の|沈黙《ちんもく》など|意《い》に|介《かい》さず、彼女は矢を一本つがえる。  |弦《げん》が|張《は》る。  呼吸が消える。  放たれた矢は風を|裂《さ》き、一直線に的の中心へ|突《つ》き|刺《さ》さった。  ——この人だけは、絶対に怒らせてはいけない。  肌が|粟立《あわだ》つような|戦慄《せんりつ》と共に、俺は新しい「日常」の始まりを予感していた。

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