ひばり / 第63話

第2話 旧校舎の亡霊②

 システムログの砂嵐に眉をひそめながら、時枝は隣を歩く少女と歩調を合わせ、さらに薄暗い廊下の奥へと進む。 「そういえば、時枝くんってどうして転校してきたの」 「……ここ寮があるだろ?その条件が良かったから」 「そう?結構質素な設備だけど」 「気楽でいいんだよ」   三階の突き当たり。夕闇が淀む廊下の先には、先客がいた。  少年は壁を凝視し、虚空に向かって細い指を滑らせていた。  指先が走るたび、時枝のリンカーは次々と新たな処理を検知する。展開された仮想キーボードが、人間には見えない速度で打鍵されている──そんな錯覚さえ覚えた。  やがて指先が空を軽く弾く。  その動作に呼応して、重苦しく澱んでいた廊下の空気が、ふっと軽くなった。 「……黒崎くん、だよね」  隣にいた千田が躊躇いがちに声をかける。  黒崎と呼ばれた少年の指が、ぴたりと止まった。  ゆっくりと振り返ったその拍子に、絹糸のような黒髪がさらりと揺れて、|白皙《はくせき》の肌を撫でた。露わになった顔には、冷ややかで鋭い眼。  整った造形美の中に、人間らしい情緒が一切欠落しているように見えた。 「何してるの?ここは危ないから来ちゃだめって、先生が——」  「悪い先生だな。こんなところに生徒を寄越すなんて」  黒崎は二人の姿を認めるなり、耳元へ指先を伸ばし、鋭くスナップさせた。  カチリと硬い音がして、壁の端末から伸びていた黒い極細ケーブルが首筋から滑り落ち、耳の後ろに収まった、イヤホンにも似た小型のリンカーへと自動で巻き取られる。一瞬にして元の何もない空間へと戻った。 「帰る。君らも早く行った方がいい。《《あれ》》に見つからない内にね」  突き放すような言葉を捨て、黒崎は一度も振り返ることなく階段の方へ消えていった。  残された時枝は、彼が指を走らせていた何もない壁を見つめる。  そこには今も、微かな歪みが網膜の残像のようにこびりついていた。 「……なんだ、あいつ」  時枝は黒崎が去っていった暗い階段の方を、顎で差しながら呟いた。 「黒崎|聖《ひじり》くん。私たちのクラスメイトだよ?不思議なところがある人だとは思ってたけど、まさかこんなところに一人でいるなんてね」  千田は困ったように眉を下げてみせるが、その困り顔すらもどこか整いすぎていて生活感がない。 「……感じ悪いヤツ」  釈然としないまま、時枝は黒崎が先ほどまで触れていた壁に手を伸ばした。  無機質なコンクリートの感触。  指先でなぞってみるが、そこにはスイッチも、隠しデバイスの類も見当たらない。 「もう他には誰もいないみたいだし、帰りましょ。薄暗くて気味が悪いわ」  千田が促し、二人は踵を返して歩き出した。  ——そして、《《あれ》》に見つかってしまう。  数分前に聞いた黒崎の言葉が脳裏をよぎる。  時枝はただ千田の手を掴み、無我夢中で旧校舎を駆けていた。 ◆◆◆ ——そして、時を同じくした、ある朝。  朝日が差し込む窓を見て、少女は夜が終わったことを知る。  重い上体を起こし、彼女は部屋の隅にある姿見を眺める。鏡面は壁に向けられ、数日前からただの板と成り果てていた。  震える手でシーツを握り締め、彼女はそこから目を逸らす。鏡には、見てはいけない《《あれ》》が映り込むからだ。  耳の後ろ、皮膚の下にあるはずの『チップ』が、先ほどから熱を帯びたように脈打っている。  ネットワークからは切断しているはずなのに、何かが脳の裏側をノックするような、不快な感覚が襲ってくる。  ふと、少女は手元にあった古いタブレット端末に手を伸ばした。時間を確認し、少しでも疲れを取らなければと自分に言い聞かせる。  だが、操作を終えてタブレットの照明が落ちた瞬間、ディスプレイは真っ黒な鏡面へと変わった。 「……あ」  気づいた時には遅かった。鏡を避けていたはずなのに、今、自分の手元に一番身近な《《黒い鏡》》を自ら作り出してしまった。  そこで少女は息を殺す。  真っ暗な画面に映る自分の顔。そのすぐ後ろに、——自分のものではない《《目》》が浮かんでいた。   ◆◆◆  翌日の昼休み。  時枝は食事を摂る間もなく、千田に腕を強引に引かれ、生徒の溜まり場となっている食堂とは真逆の屋上へと連れて行かれた。  コンクリートが太陽の熱を孕み始めた屋上で、千田が振り返る。 「……あなたも、一緒なんでしょ?」  主語を欠いた問いかけだったが、時枝は「何がだ」とは問わなかった。  陽光の下で見れば、彼女の完璧なメイクでも隠しきれないほどの隈と、うっすらと漂う疲労の色は隠しようがなかったからだ。 「……ああ」  時枝は短く応じる。  昨夜、旧校舎で《《それ》》を目撃してから、時枝の視界の端には何度もノイズまみれの影が横切っていた。リンカーのエラーログは一晩中鳴り止まず、まともな睡眠は取れていない。  彼女もまた、同じ不条理に神経を削られているのだろう。 「もう、最悪よー。私は面白半分で行ったわけじゃないんだから、もう少し空気読んでほしいわよね、亡霊さんも」  千田は手すりに背を預け、大げさに肩をすくめた。  その言葉の端々には、昨夜の絶望的な蒼白さはなく、むしろどこか投げやりな活力が混じっている。 「意外と落ち着いてるな、委員長」  時枝は少しだけ意外そうに彼女を見た。 「落ち着いてなきゃやってられないわよ。……それに、時枝くんも一緒だってわかったし。一人で狂うより、二人で巻き込まれる方が、まだ正気でいられる気がしない?」  そう言って不敵に笑う彼女からは、いつもの愛され委員長の仮面の奥にある強かさが垣間見えた。 「で、どうするのよ時枝くん。このまま《《数日後の死》》を、指をくわえて待つわけ?」 「……まさか。さすがにこればかりは面倒くさいじゃ済まない」  時枝は昨夜から不規則な振動を繰り返すリンカーを強く握りしめた。脳裏に浮かぶのは、あの廊下で一人、壁に向かって指を走らせていた黒崎聖の姿だった。 「なあ。あの黒崎ってやつ、怪しくないか?」  時枝は手すりに肘をつき、視線を校庭の隅へと向けた。 「あいつ、あの場所で明らかに何かをしていたよな?それに、会ってすぐに俺たち二人は亡霊を見たんだ。何かを仕掛けられたと考えるのが自然だろ」 「黒崎くんは違う!」  遮るような鋭い声に時枝は言葉を失った。  振り返ると、そこには焦燥と余裕のなさを剥き出しにした千田が立っていた。 「……急にごめんなさい。でも、黒崎くんではないの。それは断言できるわ」 「なんでそんなに言い切れるんだ?……単に顔が好みだからとか、そういう理由なら受け付けないぞ」  時枝は、あのアイスドールのような黒崎の容貌を思い返し、冗談めかして苦笑する。 「もう、意地悪言わないでよ!それに、根拠もなく簡単に人を疑うのはよくないでしょ?」  千田はむきになって頬を膨らませた。  その必死な拒絶には、単なる正義感や好意とは違う、もっと重い《《何か》》が混じっている。彼を疑うこと自体が自分を否定することに繋がる──そんな、奇妙な必死さを時枝は感じ取っていた。 「そりゃそうだけどさ……」  違和感は拭えない。だが、確かに黒崎が犯人だという明確な証拠があるわけでもない。そんな状態で彼に会いに行ったところで、「くだらない」と鼻で笑われるのが目に見えていた。 「このままじゃ埒があかないな。とてつもなく面倒くさいが……」  時枝はそう言って、午後の光の中で不気味に沈黙する旧校舎の方へ視線をやった。 「……もう一度、行ってみるしかないか。あいつがいた、あの場所へ」  彼女が何を隠しているのか、あるいは何を知っているのか。それを解き明かす時間すら、今の二人には残されていないのかもしれなかった。

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