ひばり / 第64話

第3話 旧校舎の亡霊③

 放課後、校内から生徒の気配が消え始める頃、二人は示し合わせたように旧校舎へと向かった。  昨日よりも影が濃い。  血を連想させる赤に染まった西日と、窓ガラスに反射する歪んだ光。それを目にするたび、自身に致命的なバグが生じているのではないかという疑念だけが、脳裏に焼き付いた。 「……ねえ、時枝くん。さっきから、リンカーの数値が変なの」  千田が硬い笑みを浮かべ、自分の手首を抑える。  そこにあるはずのリンカーのコンソールが、あり得ないほどの高周波を発し、皮膚を焼き切る熱を帯びていた。 「俺もだ。ノイズが……さっきから酷すぎる」  階段を上がるたび、足を進めることを脳が拒否する。三階の廊下に辿り着いた辺りで、その《《異常》》はピークに達した。  昨日、黒崎が立っていた場所。  そこには今、黒崎の姿はない。ただ、歪みの中心だけが、そこにあった。  ——ジ、ギギギ、ジジッ!!  鼓膜の奥に、不快な電子ノイズが直接流れ込んできた。リンカーを通じて脳が《《存在しないはずのバグデータ》》を無理やり読み込まされている。  視界が激しく点滅し、色のない廊下の突き当たりに、不自然な《《空白》》が生じた。  それは、ネットワークの澱みが形を成したような、ノイズの塊。リンカーのプロテクトを容易に突破し、神経系に直接干渉してくる《《亡霊》》を前に、時枝の生存本能が警報を鳴らした。 「嘘……っ、何これ……!」  千田が悲鳴を上げ、その場に蹲る。彼女のリンカーが異常な負荷を発し、神経系へ強制的なオーバーロードを引き起こしていた。 「委員長!!」  時枝が彼女に手を伸ばそうとしたが、自身の身体も思うように動かない。足元から這い上がってきたノイズが、じわりと彼の肉体を侵食し、意識をネットワークの奈落へと引きずり込んでいく。 『ミツケタ』  複数の音声合成を重ねたような、不快な声が脳内に直接響いた。  亡霊たちの手が二人の喉元に伸びる。呼吸が止まり、網膜がエラーログで真っ赤に塗りつぶされた。  その時だった。 「——全く。二度と近付かない程度の分別はあると思っていたんだが」  廊下の突き当たり。夕闇の中から、昨日以上の不遜さを全身から漂わせ、黒崎聖が現れた。  無数に蠢いていた亡霊たちが、彼の登場に呼応して一瞬だけ動きを止める。  黒崎は過呼吸寸前で震える千田の元へ歩み寄る。 「委員長、落ち着いて。僕を見ろ」  低く、けれど絶対的な自信を含んだ声。  彼の指先が空を切ると、千田のリンカーに走っていた異常なエラー表示が、整然としたバイナリの羅列へと書き換えられ、次々と消えていく。 「ノイズが……弱くなった?」 「亡霊なんて非科学的なものはいない。あれは、かつてここでリンカーを暴走させた連中の、出来損ないの残留ログ。落ち着けば、対処できる程度のノイズだ。……今は、僕の波長に合わせろ」  黒崎の言葉に合わせて、時枝の脳内を掻き乱していた不快な負荷もピタリと凪いでいった。  まるで、彼という存在が情報の波をせき止める防波堤となっている——そう錯覚させた。 「……助かった」  時枝が床に手をついたまま、絞り出すように言った。 「けど……そんな気合いでどうにかなる話なのか?数日後には死ぬって噂、あちこちで……」  時枝の問いに、黒崎は既に興味を失ったと言いたげに床の一点を見つめ、虚空で高速の解析を再開していた。 「死ぬ?大袈裟だな。然るべき施設の世話になれば、数日で回復するだろう」  時枝が隣でまだ肩を震わせているはずの千田にジトリとした視線を向ける。  すると、さっきまで蒼白だったはずの委員長は、視線に気づくと小首をかしげ、少しだけ舌を出して「てへ」と悪びれもせずに笑ってみせた。 「噂って大袈裟になりがちよねー」 「委員長、お前な……」  黒崎は耳元にある自身のリンカーの端子を調整しつつ、興味なさそうに二人を眺めていた。 「強すぎる意識は、時にデバイスの許容を超えて、その場の空間情報にノイズとして固着する。……君たちは、運悪く、《《そのログがリンカーにバグデータとして干渉してしまった》》んだよ」 「……お前、一体なんなんだ?」  時枝の問いに、黒崎の指が不自然に止まった。  ほんの刹那、その横顔に年相応の動揺の色が浮かぶ。  だが、それは瞬きをする間に消えた。黒崎は小さく息を吐き、皮肉げに口元を歪める。 「さあ?」  夕闇の中で、彼の瞳の奥が冷たく明滅した。 「……ただ、君たちより少しだけ、この世界の裏側に詳しい人間だよ」  黒崎はそう言い残すと、まだノイズの余韻が残る廊下を、まるで自分の庭であるかのように悠々と歩き出した。  時枝は去っていくその背中を見つめながら、強烈な予感に襲われていた。  彼に関わることは、亡霊に襲われることよりも遥かに、自分の人生を修復不能なまでに変えてしまうのではないか、と。

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