ひばり / 第62話

第1話 旧校舎の亡霊①

 |時枝《ときえだ》|駿《しゅん》は、隣を歩く少女と歩調を合わせながら薄暗い廊下を進む。視界を遮るノイズを気のせいだと胸の奥に呑み込みながら。  古い床が軋む音だけが不気味に響いていた。 「暗くなる前に行きましょ」  |千田《せんだ》|寧々《ねね》が振り返り、すぐに前を向いて再び歩き出す。時枝のクラスの委員長だ。  だが、数歩歩いたところで、千田がはたと足を止めた。 「……どうした、委員長」  返事がない。  不審に思った時枝が彼女の顔を覗き込むと、千田は血の気が引いたように顔面を蒼白にさせていた。潤んでいた瞳は大きく見開かれ、一点を凝視して動かない。 「見えちゃったかも」 「は?」 「……あの話、本当だったんだ」  冗談を言っている雰囲気ではなかった。彼女の震える指先や強張った肩は、そこに剥き出しになった本物の恐怖を物語っていた。  時枝もそこで、背筋を這い上がるような悍ましい寒気を感じた。  ——ジジ、ジジジッ……。  鼓膜の奥に、不快な電子ノイズが直接流れ込んできた。リンカーのセキュリティログが赤く点滅し、外部干渉を知らせる警告が網膜を埋め尽くす。  視界を保護していたフィルターが剥がれ落ちた途端、色のない廊下の突き当たりに不自然な《《空白》》が生じた。  人の形を模した、けれど決定的に人間ではない、ノイズの塊。  それが、陽炎のようにゆらりと浮かび上がった。 「マジかよ……」  時枝は絶望に近い溜息を漏らした。 『旧校舎の亡霊に会うと、数日後には死んじゃうんだって』  不意に隣の少女の言葉が頭をよぎった。    平穏に終わるはずだった転校生活。  波風を立てず、面倒ごとから距離を取るだけの日々。  その全部が今この瞬間で終わったことを、時枝はようやく理解した。 ◆◆◆  数時間前。 「鏡の中に、ノイズまみれの幽霊、ね」  時枝は手首に巻いた、頸椎のナノチップと外部ネットワークを中継するデバイス——『リンカー』の感度を微調整しながら、内心では「未だにこんな古典的な怪談が流行るのか」と冷めた分析をしていた。  現代において、視界に直接情報を投影し、ネットワークに意識をダイブさせるリンカーは、腕輪型や耳掛け型、眼鏡型など形状こそ様々だが、もはや体の一部として生活に溶け込んでいた。  だが、不安げに眉を寄せる千田に対して、それを口にするほど彼は無粋ではなかった。 「……それで。なんで、わざわざ俺にそんな話を?」  時枝はデスクに置いた手にわずかに力を込め、問い返した。  彼女の語る幽霊話と、その先に透けて見えるお願いの意図が読めない。 「その噂のせいでね、面白がって旧校舎をうろつく子がいるのよ。それで、先生から『危ないから注意してきてほしい』って頼まれちゃって。どうせリンカーの使いすぎによる集団ヒステリーだって決めつけて、自分たちは見に来ようともしないの。ひどいよねー」  無責任ではあるが、わからなくもなかった。  リンカーが普及して以来、ネットワーク依存による精神疾患を抱える者は増える一方だ。大人たちからすれば「またその類か」という話なのだろう。  だが、それが猛毒かもしれないと薄々気づいていても、結局のところ人は目を逸らす。一度手にした便利さを手放す方がよほど難しい。自分もその一人だった。  時枝がそんな諦観を抱いていると、千田は椅子から立ち上がり、彼に一歩歩み寄った。 「時枝くん、一緒についてきてくれない?」  上目遣いで、縋るように見つめてくる。  背中まで伸びた艶やかな黒髪、潤んだ大きな瞳。その仕草も、声のトーンも、周囲の好意を勝ち取るために最適化されているように見える。  だが、時枝の瞳には彼女の魅力は映っていなかった。正確には、彼女という『個』が見えなかった。  その愛され委員長としての振る舞いは、《《どこかの誰かをコピーした》》かのようで、どこか作り物めいた不気味さを感じさせた。 「え、面倒くさ」 「——ちょっと、あんたね!時枝!」  鋭い声とともに、時枝のデスクを叩いたのは、ポニーテールを高く結い上げた有明|橙子《とうこ》だった。 「寧々がわざわざお願いしてるのに、何その言い草。転校生だからって調子に乗ってんじゃないわよ」 「ちょっと……橙子ちゃん、やめようよ……」  その背後で、おどおどと制服の裾をいじるのは|幸田《こうだ》|世莉《せり》だ。彼女は怯えた様子で時枝と有明を交互に見ている。 「ごめんね、寧々。私がバレー部の練習さえなきゃ、こんな不愛想な男に頼まずに一緒に旧校舎くらい行ってあげられたのに」  有明が申し訳なさそうに千田の手を握ると、彼女は相手を和ませるために作られたような笑顔を浮かべた。 「いいってば、橙子ちゃん。バレー部のエースさんを、怪談調査なんかでサボらせるわけにいかないし?」 「おーおー、相変わらず女子の火花は熱いねぇ!」  そこに、椅子の背もたれを逆にして座ったクラスのお調子者の佐藤|大樹《たいき》が、ヘラヘラと割り込んできた。 「旧校舎の幽霊だろ?なんか面白そうじゃん。俺も行こうか?千田ちゃんのためなら、俺が亡霊をワンパンで……」 「佐藤くんはうるさいからお断り。……ね、時枝くん?」  千田は佐藤を軽くいなすと、再び時枝に視線を戻した。  有明の威圧感、佐藤の面白がる顔、そして幸田の不安げな視線。  ここで断ったら、完全に悪者にされることがわかる空気に時枝は内心で苦笑するしかなかった。 「……はいはい。一回りして誰もいなければ、すぐに戻る。それでいいだろ?」 「やった!さすが時枝くん、話がわかるわ!」  そう嬉しそうに笑顔を振り撒く千田は、綺麗で作り物めいたものに見えた。   有明は不満そうに腕を組み、時枝を睨みつける。 「寧々に何かあったら、あんたのリンカー、踏み潰して粉々にしてやるから」 「有明さん怖っ!時枝、お前マジで気をつけろよー」  佐藤は同情半分、面白がり半分という感じで、軽薄な笑みを浮かべていた。 「……やめようよ、佐藤くん。不吉だよ。……二人とも、気をつけて……」  幸田の震える声に見送られながら、時枝はやれやれと教室を後にした。  隣を歩く千田の足取りは、どこまでも軽やかで、それが逆に見通しの悪い不安を煽っていた。  西日に照らされた長い廊下。  旧校舎に近づくにつれ、リンカーの同期音が不快な高音を残して途切れ、網膜に常に表示されていた時刻や天候のシステムログが砂嵐に消えていく。 「……ここ、確かに嫌な感じだな。噂が立つわけだ」  彼のリンカーは、外部ネットワークとは異なる何かに必死に同期しようとしているのか、文字化けログが一瞬だけ流れる不快な挙動を見せる。  まるで、この旧校舎そのものが、外部とは切り離された独立した巨大なサーバーのように見えた。

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