ひばり / 第65話

第4話 旧校舎の亡霊④

 翌日の昼休み。  屋上の喧騒から離れた日陰で、昨日の疲れを引きずった時枝と千田の前に、音もなくその影が落ちた。 「昨日の干渉はもう影響なさそうだな。意外に逞しいことだ」  見上げると、そこには昨日と変わらぬ、感情を読ませない眼差しの黒崎が立っていた。  相変わらず人を寄せ付けない空気を纏ってはいるが、その手には不釣り合いな『重箱』が握られている。 「……それと、昨日のことは黙っておけ。他人に知られても面倒なだけだ」  黒崎はそう言うと、重箱を時枝たちの前にそっと置いた。 「これは?」  時枝が不審げに問いかけると、黒崎は視線をわずかに逸らして短く答える。 「口止め料だ」 「……なんで?そもそも俺たち、言いふらすメリットなんてないだろ」  時枝の至極真っ当な疑問に、黒崎は一点の曇りもない真面目な顔で、指を一本立てた。 「要求を飲んでもらうには対価が必要だ。……じい様に、人はどうすれば口を割らなくなるか、と相談したところ、これを渡すのが一番確実だと言っていた」 「……じい様、どんな教育してんだよ」  時枝は思わず脱力した。  時枝はベンチに置かれた重箱を、まるで時限爆弾でも見るような目で見つめていた。  手元にあるのは購買で適当に買った味気ない菓子パン。いつもならこれで昼食を済ませ、余った時間でリンカーのログをチェックするのが彼の日常だ。 「……悪いけど、俺はいい。こういうの、何が入ってるかわかったもんじゃないし」  時枝はそう言って、菓子パンの袋を無造作に破った。  しかし。  重箱の蓋が開くと、ふわりと立ち上がった出汁の香りが、時枝の空腹をダイレクトに突き上げた。菓子パンとはまるで違う、丁寧にとられた出汁と、甘い醤油の香り。 「美味しい!黒崎くんって料理上手なんだ!時枝くん、これ食べないなんて人生損しちゃうよ?」  隣に座る千田は、ふんわりとした卵焼きを口いっぱいに頬張り、幸せそうに表情を綻ばせていた。  時枝は手に持ったパサパサのメロンパンと、重箱の中の黄金色に輝く出し巻き卵を交互に見比べた。  黒崎はといえば、相変わらず興味ないと言わんばかりの横顔で空を眺めているが、心なしか時枝の反応を待っているような微かな緊張感が漂っている。 (……一口。一口だけ、毒見だ)  自分に言い訳をしながら、時枝は割り箸を伸ばした。  一切れ、口に運ぶ。 「……っ」  舌の上でジュワッと溢れ出したのは、驚くほど濃厚で、それでいて優しい出汁の旨味。全自動調理器が再現する最適化された味ではない、不揃いな熱の入り方が生む奥行き。  普段の菓子パン生活では決して味わえない本物の食事の味が、時枝の警戒心を一瞬で霧散させた。 「……うまい、な。これ」 「当然だ。じい様に、一から叩き込まれたからな」  黒崎がフンと鼻を鳴らす。  その表情は相変わらず不遜だが、時枝が二切れ目に箸を伸ばしたのを見て、ほんの一瞬、満足げに口角を上げたのを時枝は見逃さなかった。  昨日の死の予兆を退けた超常的な力や、謎の解析能力。そして今、自分の作った卵焼きを褒められて、どこか誇らしげにしているクラスメイト。  時枝は半分になったメロンパンをカバンに押し込み、もう一度、箸を伸ばした。  とてつもなく面倒くさいことに巻き込まれた確信はあるが、この《《口止め料》》の味だけは、認めざるを得なかった。 ◆◆◆  屋上に残る二人と別れ、満足感とそれ以上の困惑を抱えたまま時枝が教室に戻ると、そこには昼休み特有ののどかな空気など微塵も存在しなかった。  教室の扉を開けると、周囲の視線がじわじわと時枝の肌に突き刺さった。 「時枝、お前、意外に隅に置けないヤツなんだな」  原因不明の膠着状態から一歩踏み出したのは、愉快そうに笑う佐藤だった。 「何のことだ?」 「おー、言うね?俺らのアイドル千田ちゃんを数日独占しておいて。さらにはあの黒崎と屋上で密談って何事よ?俺なんて、まともに会話したことないって」 「……は?いや、別にそんなんじゃない。ちょっと用事があっただけで」  時枝は波風を立てないよう、努めて平坦に返した。しかし、それがかえって過激派の有明に火に油を注いだらしい。 「ちょっと用事?あんなに楽しそうに喋ってたでしょ!あの黒崎と三人でお昼してるの見たんだからね!」 「黒崎くんも近寄りがたいけど、結構ファンが多いから……」  遠巻きに見ていた幸田が控えめに言うと、周囲の女子生徒たちが大きく頷いて見せた。地味な転校生としてフェードアウトする計画が、音を立てて崩れていくのが分かった。 「いや、本当に俺は何もしてないんだ。信じてくれ」 「何もしてない?じゃあ今のその、満足げな顔は何よ。自慢?生意気なんだけど!」  有明の追撃の手は止まらない。  だが、時枝は反論できなかった。なぜなら、彼の胃袋は今、黒崎が口止め料として差し出した、あのとんでもなく美味い出し巻き卵で満たされているのだ。 (……言えるわけないだろう。この状況で、おそらく早起きして作っただろう黒崎の手作り弁当を、三人で分け合って食べたなんて……)  真実を口にした瞬間に、別の意味でクラスの聖域を侵したとして処刑されかねない。  この沈黙がさらに周囲の不信感を煽り、教室内には《《時枝駿、要注意人物》》という認識が瞬く間に共有されていった。 「……最悪だ」  時枝は机に突っ伏し、小さく悪態をついた。  平穏で、静かで、目立たない学園生活。  そんなささやかな願いは、電脳空間のバグと、不気味な委員長と、そして絶品すぎる卵焼きを作る傲慢な天才ハッカーの手によって、跡形もなく粉砕されたのだ。  窓の外では、あの赤黒い旧校舎が、まだ終わらない悪夢を予感させるように沈黙を守っていた。

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