ひばり / 第66話

第5話 愛され委員長のオシゴト①

 その日は|千田《せんだ》|寧々《ねね》にとって、なんでもない日になるはずだった。 「ねえ寧々、今日は部活休みだから、久しぶりにファミレス寄って帰らない?」  放課後の教室、有明|橙子《とうこ》がポニーテールを揺らしながら、快活な声を上げた。  その声に振り向いた千田の長い髪は、窓から差し込む午後の陽光を透かし、柔らかな輪郭を縁取っている。 「久しぶりだね!行こう。……|世莉《せり》ちゃんはどうかな?」  千田が親しみやすい笑顔を浮かべ、隣で遠慮がちに立っていた幸田世莉に視線を向ける。 「え……、あ、私は……」  幸田は困ったように視線を泳がせたが、ふと、自分の|神経接続端末《リンカー》経由で送られてきた通知に目を見開いた。 「……橙子ちゃん、これ、本当……?」 「え、何が?」  怪訝そうに覗き込んだ有明の顔が、一瞬で凍りついた。  幸田が提示したホログラム・ディスプレイ。そこに映し出されていたのは、校内掲示板の《《特大の悪意》》だった。 ——愛され委員長・千田寧々の裏の顔を暴露する ——誰にでも良い顔して、本当は男を品定めしてるだけのビッチ  目を覆いたくなるような誹謗中傷の数々。  だが、それ以上に有明を絶望させたのは、その投稿者のIDから紐付けられた個人情報だった。 「——何これ。なんで、私のIDになってるのよ!?」 「ははっ、マジかよ。女の子同士って、裏では何考えてるか分からなくて怖いねぇ?」  有明は身に覚えなどないと言わんばかりに、顔を真っ青にしていた。  背もたれを逆にして座っていた佐藤大樹が、面白がるように口を挟む。 「ちょっと佐藤、いい加減にして!私が寧々を中傷するわけないでしょ!?」 「でも、投稿ログのパルス特性、有明のリンカーと一致してるぜ?これ、言い逃れできないんじゃないの」  有明が佐藤に掴みかかり、さらに周囲の騒めきは大きくなる。 「……あれー?」  騒然とする教室の真ん中で、千田はポツリと独り言を漏らした。  周囲の喧騒など届かないかのような、穏やかな横顔。長い睫毛がわずかに伏せられ、白い肌に影を落とす。  彼女が困惑の表情を浮かべるだけで、教室の空気は自然と彼女を庇う方向へ傾いていった。 ◆◆◆  教室での騒ぎがあった翌々日。  千田は学園のネットワーク管理室——通称『セキュリティルーム』に呼び出されていた。  サーバーの駆動音だけが低く響く部屋で、セキュリティ専門官を兼任する|神宮寺《じんぐうじ》が、空中に浮かぶ複数のログウィンドウを閉じて千田に向き直る。 「……千田さん。昨日、佐藤くんの身に起きたことは知っていますね?」 「はい。今日はお休みでしたから。風邪か何かですか?」  千田は小首を傾げ、心配そうに眉を下げてみせた。わかりやすくクラスメイトを案じているという顔を見せる。 「……彼の|ネットワーク上の分身《シミュラクラ》が、悪質なノイズによって強制|精神破壊《クラッシュ》させられました。神経系への強烈なフィードバックにより、全治一週間の安静が必要との診断です。幸い、意識に別条はありませんが」 「まあ……。最近、そういうトラブルが多いですね。怖いわ」  千田のどこか緊張感のない返答に、神宮寺は眉間の皺を深くした。  デスクに映し出された佐藤の|精神破壊《クラッシュ》時のログ——それは、まるで断末魔の悲鳴が文字列に変わったかのような、凄惨なデータの残滓だ。 「何か、心当たりはないですか?例えば、誰かに恨まれている、とか」 「怖い顔しないでくださいよ、先生。……ログを調べれば、私が無実だってわかっていますよね?」  千田は無害そうな笑顔を作り、神宮寺の視線を真っ向から受け止めた。 「ネットワークにダイブしていた時間、私のリンカーは正常なアイドル状態でした。先生なら、|偽造《フェイク》の形跡もないことはお分かりのはずです」 「……ええ。そこは疑っていません。……だがね、君を中心にトラブルが多発しているのは事実です。親友の有明さんも、掲示板の件で推薦が取り消されるかもしれないそうです。彼女の人生がかかっているのですよ?」 「困りますよね。彼女、ずっと推薦を目指して頑張ってたのに」  千田はそこで一度言葉を切り、長い髪を指先で弄りながら、窓の外に目を向けた。  夕日に照らされた彼女の横顔から、ふっと感情が抜け落ちる。 「——ねえ、先生。こういう時って、どういう顔すればいいんでしたっけ」 「……はい?」 「いえ、こちらの話です。……私にできることなら協力しますから、何でも言ってくださいね。被害者は、私のお友達ばかりなんですから」  千田は再び、いつもの愛され委員長の笑みを貼り付け、軽やかな足取りで部屋を後にした。 ◆◆◆  生徒たちの喧騒が遠ざかったこの時間、|時枝《ときえだ》|駿《しゅん》はようやく深く息を吐き、机に身を預けた。  転校初日から始まった怒涛の非日常に、脳の処理能力が限界を迎えつつあった。  そこに、軽やかな足音が近づいてくる。 「あっれー、時枝くん? まだ残ってたんだ。ちょっと先生とお話ししてて、荷物取りに来るの遅くなっちゃった」  顔を上げると、そこにはいつもの愛らしい笑みを浮かべた千田が立っていた。彼女の指先が、自分のデスクにある筆箱をなぞる。 「……大丈夫か?最近、騒がしいみたいだけど」  時枝はあえて視線を合わさず、今日の授業で出た課題を眺めたまま問いかけた。 「そうなのよー、困っちゃうわ。結構、誰とでも上手くやってたつもりだったんだけどなぁ」  千田は頬を膨らませ、わざとらしく溜息をついて見せる。  自分に向けられた悪意の嵐も、周囲で起きている凄惨な|精神破壊《クラッシュ》も、まるで画面の向こう側の出来事であるかのように明るく、他人事のように返す。 「……思ったより余裕があってよかったよ」 「そんなことないよ?怖いなぁ、誰がやってるのかなぁって、毎晩震えてるんだから。ね、時枝くんが助けてくれていいんだよ?」  千田は上目遣いで、冗談めかして時枝の顔を覗き込む。  その瞳の奥には、恐怖も、悲しみも、何の色も宿っていないように見えた。 「そんな面倒くさいこと、御免だね」  時枝は即座に突き放した。これ以上、彼女の《《闇》》に深入りすれば、今度こそ後戻りできなくなる。そんな直感が、脊髄をチリチリと焼いていた。 「ひどーい。普通は、もう少し同情してくれたっていいんじゃない?」  いつもの演技めいた泣き真似。唇を尖らせて不満を漏らす。  だが、その表情は一瞬で凪いだ。西日に照らされた彼女の横顔に、ふと、冷え冷えとした自嘲の笑みが浮かぶ。 「……まあ。今の私には、あまり近づかない方がいいかもね」  その一言だけは、飾りのない本音のように聞こえた。 「じゃあね、また明日。時枝くん」  軽快な足取りで、彼女は教室を去っていく。長い黒髪が、沈みかけた夕日の影に溶けるように揺れた。  一人残された教室で、時枝はもう一度深く椅子に沈み込んだ。 「……面倒だな」  小さく呟いたその言葉は、静まり返った教室内で、自分でも驚くほど重く、暗い響きを持って消えていった。  彼女が去った後、時枝は手首のリンカーを本格的に起動する。 「さて、さっさと課題済ませて帰るか……」  そう思い、ネットワークへの簡易接続を試みた。  鳥肌が立った。  先日の旧校舎での出来事を呼び起こす、あの不快なノイズが鼓膜ではなく脳の芯を直接叩いた。 「またかよ」  視界の端、自分のシミュラクラの足元に、どす黒い影が這い寄っている。  それは千田を中傷する文字列が形を成したような、醜悪な《《悪意の塊》》。  もたらされるのは物理的な痛みではない。強烈な生理的嫌悪感だった。  網膜に映る自分のシミュラクラの四肢に、ドロドロとした黒い文字列が絡みつく。 「くっ……!」  時枝は震える指先で空中にコンソールを展開した。  正面からぶつかるのではない。攻撃の波長を読み取り、そのわずかな隙間に逆位相のコードを叩き込む。力押しの防御ではなく、最小限の労力で受け流す最小演算回避。  硬い硝子が割れるような音が脳内に響いた。その刹那、時枝は全ての接続を強制遮断し、意識を現実世界へと引き戻した。 「……はぁ、……っ、危ねぇ」  肺に溜まっていた空気を一気に吐き出す。 静まり返った教室。手首のリンカーがオーバーヒート寸前の熱を帯びていた。  間一髪、脳を灼かれる一歩手前で逃げ切った安堵が、冷や汗となって背中を伝う。 「……やっぱりか」  時枝は震える手で首筋を拭った。  千田の周囲がターゲットにされている。ならば、先日から直近で彼女と一緒にいた転校生である時枝が、犯人のリストに載るのは至極自然なことだった。  この攻撃が続く限り、ダイブは常に死と隣り合わせだ。かといって、ダイブを恐れて距離を置けば、この情報化社会からの脱落を意味する。このままだと自分にとって美味しくない選択肢しか存在しない。 「……これ以上、俺の日常をかき回されてたまるか」  時枝はカバンを掴むと、荒々しく立ち上がった。  極力何もせず、目立たずに生きる。それが彼の信条だ。だが、向こうから土足で自分の領域を荒らしに来るというのなら、話は別だ。  一番の近道は、このバグの発生源を叩き潰すこと。  時枝は千田が去っていった廊下へと視線を向けた。 「……あーあ、次から次に」  自嘲気味に呟きながら、時枝は犯人の痕跡を追うための逆探知プログラムをリンカーのバックグラウンドで走らせ始めた。  平穏な生活を取り戻すための、一番面倒くさい戦いが始まろうとしていた。

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