夏木 花 / 第53話
第16話 魔法は使っていない。剣も抜いていない。それでも、明日から塩は減らない。
指がかじかんで、うまく曲がらない。
霜を噛んだ土は冷たく、しゃがむと膝まで刺してきた。それでも顔を寄せる。扉の下端が残した跡——内側へ、浅い弧。一本きりだ。昨日の夕方に見た、外へ開いたほうの跡はもうない。
息が白い。心臓は、走ってきたときのまま速い。
取っ手を引く。重い。下端が土を噛んで止まる。肩を入れて押すと、軋みが列の端まで転がっていった。誰か来るんじゃないか、と背中が固くなる。
埃と、古い藁。目が慣れるのを待つあいだ、自分の呼吸だけがうるさい。
壁際に空の籠。その奥に、麻袋が二つ。口を縛る縄に、赤く染めた麻糸が一本だけ編み込んである。昨日、樽の上のパンを受け取ったとき、女将の脇の塩袋に見えたのと同じ糸だ。
見つけた、と思った。喉の奥まで熱が上がってきて——それから、すとんと落ちた。
誰も盗っていない。
売られても、隠されてもいない。暗いところに置かれたまま、ひと月、誰も取りに来なかった。それだけのことのために、あの人は勘定を合わせられずにいた。
袋の横に、潰れた籠が一つ。近づくと干し魚の匂いがした。匂いだけだ。持ち上げると、情けないくらい軽い。
鐘が鳴って、だいぶ経ってから足音がした。麻袋を担いだ男が真ん中の口へ入り、すぐ出てきて、また担いで戻る。三度目で、足が止まった。
手前から三つ目。赤い糸の見える袋が並んでいる。
来る、と思った。舌打ちか、怒鳴り声か。息を止めて身構える。
男は何もしなかった。袋を両腕に抱えて、こちらへ運んでくる。
「どいてくれ」
「……はい」
戸口を空けた。男は肩で戸を押し、暗がりに袋を下ろし、藁くずを奥へ蹴り寄せる。手つきが慣れていた。何度目だろう、これで。
「あの、それ」
「うちの置き場に、いつも置きっぱなしになってんだよ」
「持ち主のところへは」
「知らねえよ。奥に寄せときゃ、来たときに気づくだろ」
悪びれない。それが、いちばんこたえた。
「あんた、見ねえ顔だな」
「……荷を、見てて」
「見てるのは構わんが、そこにいられちゃ邪魔だ」
腹を立ててもいない。悪いことをしている顔でもない。面倒な段取りを一つ済ませた、というだけの顔だ。
「三つ目って、どっちから数えますか」
「壁からに決まってんだろ」
男の目が一瞬こちらへ来て、すぐ荷へ戻る。
「十日に一度、中環の菓子屋に納めてんだ。朝のうちに積み替えて出る。人の荷が乗ってりゃ、どかすしかねえだろうが」
十日に一度。ひと月で三度。
数が合ってしまった瞬間、うれしいより先に喉が詰まった。この人はひと月のあいだ、律儀にどけ続けていただけだ。
名前は訊かなかった。訊いてしまえば、いつかどこかで口に出す気がした。
塩袋を抱えて列を戻る。腕が震えるのは重さのせいだと、自分に言い聞かせた。
ドルサは袋を見た瞬間、組んでいた腕をほどいた。
「……どこにあったんだい」
「端の口の、奥です」
「誰だい」
答えは決めてきたはずなのに、口の中が乾いた。
「数え方が、二つあったんです。倅さんは口のほうから三つ目に置く。壁のほうから三つ目に置く人もいます。同じ場所を、二人が自分のところだと思ってました」
「じゃあ、どかしたやつがいるんだろう。そいつは誰だって訊いてんだよ」
言ってしまえば楽になる。この人は納得するし、僕は手柄になる。分かっていて、だから怖かった。
「盗みじゃなかったんです。名前を言ったら、盗みになります」
「かばうのかい」
「そうじゃなくて……その人、たぶん明日も来ます。来てもらわないと、困るので」
睨まれる、と思った。前掛けで手を拭く動きが途中で止まって、それきり動かない。籠のことは訊かれなかった。匂いで分かったのだろう。
「……魚は捨てだね」
「すみません」
「あんたが食ったわけじゃないだろ」
その一言で、張っていたものが抜けた。膝の裏が、ようやく自分のものに戻ってくる。
ドルサは塩袋を受け取り、顔を上げた。
「おうい! 塩が出たよ! 勇者様が見つけなすったよ!」
止める間もなかった。人が寄ってくる。麻の上衣も、剣を置いてきたことも、もう役に立たない。それでいい、と思った。
「三つ目、って言うのを、やめてもらえませんか」
「昔から三つ目って言ってんだよ」
「その三つ目が、二か所あるんです」
昨日言い合っていた二人が、同時にそっぽを向いた。
「みなさん、荷に印がありますよね。糸とか、焼き印とか」
「そりゃあるが」
「それを、柱に掛けてください。数えなくて済みます」
「それと、端の口は空けておいてください。どかした荷を置く場所に。誰のものでもない場所が一つあれば、人の荷を暗がりへ押し込まずに済みます」
「じゃあ、帳面は」
番人が帽子を握ったまま訊いてくる。
「入るぶんだけで、いいと思います」
戸が重いのは、蝶番が下がって下端が地面を擦るせいだ。樽の板切れをもらい、番人の鉈を借りて薄く削る。力を入れすぎて一枚だめにした。二枚目を噛ませ、石で叩き込むと、戸は指一本で動く。
板は少しはみ出していて、見た目は良くない。村の納屋の戸を直したとき、父は何も言わずにそれを見ていた。あの顔を思い出したら、鼻の奥が熱くなった。
「勇者様、魔法でも使いなすったんで」
「使い手じゃないので」
どっと笑いが起きる。誰も信じていない笑い方だった。言い直そうとして、やめた。
宿舎の扉を開けると、内側にトラマルが座っていた。膝から袖口まで、順に鼻を這わせていく。塩と、藁と、知らない男の匂いがするはずだ。
床に座り、首輪の縄を指で確かめた。片側だけ太いのは、直しようがない。
「盗っ人は、いなかったよ」
尻尾が一度、床を打った。
誰も悪くなかった。それなのに、塩は消えていた。そういうことが世の中にはあるのだと、今日はじめて知った。
魔法は使っていない。剣も抜いていない。それでも、明日から塩は減らない。
「明日は、お前も連れてく」
耳が起きて、鼻先が膝を押した。