夏木 花 / 第52話
第15話 一人で名乗らず街を歩く
袖に腕を通したとき、肘のあたりがまだ硬かった。
村から着てきた麻の上衣だ。誰かが洗って畳んで、櫃の底に戻しておいてくれたらしい。糊の匂いがした。
剣を外して卓に置く。金具が板を打つ音が、思ったより大きい。
「お持ちにならないので」
扉のところにヴェッセルが立っていた。いつからいたのか分からない。
「今日は、荷を見に行くだけなので」
「お役目としては、お持ちいただくことになっております」
「役目じゃない日です」
言ってから心臓が鳴った。止められたら、それで終わりだ。この人は僕の一日を全部決められる。
「昨日と同じ市へ、昨日と違う形で入られる。何かお考えがおありですか」
「名乗らないだけです」
「名乗らずに、何をなさいます」
「見ます。……昨日と違うものが見えるかもしれないので」
板の縁を指が一度なぞって、止まった。知れたら面倒が増える、とこの人は考えているはずだった。それでも、面倒の中身を口にはしない。
「……お供は二人。市の口までといたします」
「口の外で」
「口の外で。お帰りは日の暮れまでに。夜は大神殿にございます」
拍子抜けした。前例のないことには、止める理由もないのかもしれない。
トラマルが足元まで来て、扉のほうへ鼻先を向ける。
「今日は、留守番」
耳が寝た。鼻面が膝を押して、もう一度押す。
「……お前がいると、すぐ分かっちゃうんだよ」
言い訳だった。閉める間際に爪が板を掻く音がして、しばらく動けなかった。
市の口で、供の二人が足を止める。こっちを見ないでほしい、とだけ頼んだ。灰色の上着は人波の外に残り、そこから先は一人だった。
外環の朝は、昨日とは別の街だった。誰も道を空けない。籠の角が腰を打つ。
「どけ」
「すみません」
昨日は誰も、僕に「どけ」とは言わなかった。押されて、詫びて、また押される。腹は立たない。胸が、すっと軽い。
荷置き場の番人は、顔も上げなかった。昨日、飛び上がるように立った男だ。
「あの、荷が出るとき、数えますか」
「数えねえよ」
板に線を引きながら、男が言う。
「入るぶんだけだ。出るのまで数えてたら日が暮れる」
「帳面は」
「つけてるっつっただろ。……いや、あんたには言ってねえか」
「端の口は、使わないんですか」
「あそこは使わねえよ。戸が重いんだ。誰も開けやしねえ」
男はもう荷車のほうを向いている。
同じ人で、同じ口だ。違うのは僕のほうだけだった。嘘をつかせていたのはこの人じゃない。喉の奥が、少し苦い。
樽の陰に腰を下ろす。誰も、どけとは言わない。荷車は真ん中とこちら側の口にばかり入っていく。
日が高くなるころ、列のあいだで声が上がった。
「おい、三つ目に置いといたぞ」
「三つ目はうちのだろうが。お前んとこは四つ目だ」
「口のほうから三つ目に決まってんだろうが」
「壁からだ。昔から壁から数えてんだ」
どちらも引かない。二人とも、自分のほうが当たり前だという顔で、別々の方へ荷を担いでいく。
決まってる、と二人とも言った。それなのに、歩いていった先が逆だった。
隣の列で、男が二人、立ち話をしている。
「勇者様が見てくださるんだと」
「見たって、減るもんは減るだろ」
「そりゃそうだ。盗られてんのか置き忘れてんのかも、分かっちゃいねえんだから」
二人は荷を担ぎ直して、笑いながら離れていった。
昨日、この人たちは袖を掴んで、倅に一言かけてやってくれと言った。名乗らないだけで、こんなに違う。
悔しくはなかった。ただ、ここが本当の高さなんだと分かった。
昼を過ぎて腹が鳴った。財布を持っていない。買うという動作の要らない暮らしを半月していた。
樽の列の三つ目の前で、前掛けの女が手を止めた。目が合って、逃げそうになる。
「……どうも」
「今日は、お供がいないんだね」
剣も置いてきたのに、歩き方で分かるらしい。前掛けで拭いた手が、固い麦のパンを一つ、樽の上に置く。
「持ってきな。貸しだよ」
「返せるものが、何も」
「塩が減らなくなりゃ、それでいい」
「ひとつ訊いていいですか。なくなったのに気づくのは、いつですか」
「いつも昼過ぎさ。朝に数えて、昼に運ぼうとして、足りない」
「朝は、誰が数えるんですか」
「うちの倅。口のほうから数えるよ」
礼を言う前に、それきり向こうを向く。誰の名も呼ばなかった。
パンは固く、噛むと顎が痛んだ。母さんの焼くやつに似ている。そう思ったら目の奥が熱くなって、慌てて噛み続けた。
荷置き場の影が、道の真ん中まで伸びていた。
端の口へ戻る。朝は、扉の下端が地面を擦った跡が一本きりだった。内側へ、浅い弧を描いて。
いまは二本ある。新しいほうは深く、外へ開いた形に残っている。
朝は内へ。夕は外へ。
しゃがんで藁くずを拾う。籠の底に敷くやつだ。指で潰すと乾いた音を立てて折れた。今日のものだ。
轍はない。荷車は一台も通っていない。背筋がひやりとした。一日ここに座っていて、僕は誰も見ていなかった。
「刻限にございます」
大神殿へ上がったのは日が落ちてからだ。柱と柱のあいだ、床の縁から爪先三つぶん下がったところ。
席次は今日も保留のままで、座る場所はない。灯が回り、司教が月の名を唱えはじめる。献灯の月、と聞こえた。踵に体の重みが溜まっていく。
それなのに、少しも退屈ではなかった。
目を伏せると、口が三つ並んで見える。轍の深さ。数え方の向き。擦り跡が、朝と夕で逆を向いていたこと。
立っているだけなのは昨日までと同じだ。持ち帰るものが頭の中にあるのだけが違う。それが嬉しくて、こんな場所で嬉しがっている自分が、少しおかしかった。
宿舎の扉を開けると、内側にトラマルが座っていた。膝、足の甲、袖口、指のあいだと、順に鼻を這わせていく。
「……ごめん。置いてって」
尻尾が一度、床を打つ。
「口は三つなのに、数え方が二つあるみたいなんだ」
顎が床に落ちた。
「片方は口のほうから、片方は壁のほうから数えてる。……たぶん」
言ってみても、それだけでは何にもならない。
「戸が重いんだってさ。重い戸を、誰かが毎日、開けたり閉めたりしてる」
誰も見ていない場所が一つある。それが分かっただけで、胸の奥に小さな熱が残っていた。明日は朝いちばんに行こう。扉がどちらを向いているか、それだけを確かめたい。