夏木 花 / 第54話
第17話 明日からは犬も連れてくるように
石段を下りきらないうちに、トラマルが鼻を上げた。
干し魚と、濡れた藁の匂いが下から上がってくる。首輪を掴もうとした手が空を切った。毛の塊が人のあいだへ潜り込んでいく。
「来たよ! 犬が来た!」
樽の列のほうで声が上がって、荷主が三人、四人と手を止めた。灰色の上着が二つ、人波の少し後ろで足を合わせている。腰の剣が腿を打った。
「勇者様、おはようごぜえます」
言いながら、男は横をすり抜けて膝をついた。両手でトラマルの顔を挟んで、左右に揺すっている。
「お前かぁ。お前が嗅ぎ当てたんだってなぁ」
「あの、嗅いだわけでは」
「犬は正直だからよ。人と違ってな」
柱には、昨日はなかった木札が掛かっていた。赤い糸、焼き印、結んだ縄。荷主それぞれの印が、目の高さに並んでいる。
番人が帽子を取った。それから、こちらではなくトラマルのほうへ軽く下げる。
「言われた通りにいたしましたんで」
「……僕、ここにいますけど」
ドルサは店の前で待っていた。前掛けで手を拭き、屈んで、干し魚を一枚差し出す。
「礼はこの子におやり」
「塩は、減らなくなりましたか」
「昨日の今日だろ」
トラマルが首を伸ばして受け取る。噛む音が、やけに大きく響いた。
女将は塩袋のほうへ戻りかけて、ふと振り向く。
「あんた、朝はちゃんと食べたのかい」
「食べました」
「その顔で言われてもねえ」
樽の列を回るあいだ、手が止まるのは荷ではなく足元だった。誰かが屈み、誰かが背中を撫で、誰かが腹を叩く。
「二か所あったんです、三つ目が。口から数える人と、壁から数える人がいて」
「なるほどなあ」
「だから、印を柱に掛けてもらえば」
「こいつ、耳がでかいな。賢い犬は耳がでかいんだ」
誰も荷の話をしていない。
端の口の戸は、開けたままにしてあった。中に空の籠が二つ、寄せて置いてある。番人が板を抱えて横に立った。
「入るぶんだけにいたしました。線を引くのは朝だけで」
「それで足りると思います」
「日が暮れる前に終わっちまうんで、どうにも手持ち無沙汰でして」
番人は言い終わると、板を小脇に挟んで屈み、トラマルの顎の下を掻いた。犬が首を伸ばして、目を細める。
麻袋を担いだ男が、真ん中の口から出てきた。昨日、暗がりに袋を運んでいた男だ。こちらを見て、それから犬を見た。
「その犬か」
「……はい」
男は端の口に袋を二つ下ろすと、藁くずを足の先で寄せて、また戻っていった。誰も男のほうを見ていない。
前掛けの女が一人、トラマルの肩のあたりの毛を指でかき分けた。
「ここ、変わった毛色だねえ」
「……そうですか」
「うちのは腹だけ白いんだよ。生まれたときは全部黒かったのにさ」
女はもう手を放して、隣の女と自分の犬の話を始めている。
樽に腰かけていた老人が、杖の先で地面を突いた。
「賢い犬は、光に近いところにいるっていうからな」
「じいさん、田舎みてえなこと言うなよ」
笑いが列の端まで転がっていった。誰も本気にしていない。老人も、口を開けて一緒に笑っている。
袖を引かれた。膝までの背丈の子どもが、下から見上げてくる。
「ねえ、犬の係のお兄ちゃん」
「……係」
「自分で言ってたって。母ちゃんが」
子どもはもう返事を待っていない。トラマルの前足を両手で持ち上げて、握手のような形にして揺すっている。トラマルは足を取られたまま、されるに任せていた。
それを見た荷主が、自分の倅を呼んできた。縁談がまとまらないという話が始まり、途中から歯が痛いという別の男が割り込んできて、二人でトラマルの頭を撫でながら言い合いになった。
「順番だろうが。俺が先に触ってんだ」
「歯のほうが急ぎだろ」
「うちのは一生ものだ」
トラマルの尻尾が、両方に振れている。
「そもそも、犬に頼むもんかね」
「勇者様の犬だぞ。そこらの犬と一緒にすんな」
「うちの前を通っただけで、こないだ鼠がいなくなったって話だ」
「そりゃ猫だろ」
「犬だよ。この犬だ」
男は一度も、こちらを振り向かなかった。
僕は一度、袖口を握った。それから、後頭部をかいた。
「あの、荷のことなんですけど」
「聞いてる聞いてる」
聞いていなかった。
鐘が鳴るころには、トラマルの腹は横から見て分かるほど膨れていた。干し魚が三枚、麦のパンの端が二つ、名前の分からない煮物を少し。歩くのがだんだん遅くなり、最後の一列は、僕が首輪の縄を引く形になった。
市の口で、供の二人が追いついた。片方の視線が、犬の腹のあたりで止まっている。
石段を上がりながら、後ろから声が飛んできた。
「勇者様! また犬を連れてきてくだせえ!」
手を振り返した。トラマルは階段の三段目で座り込んでいる。
宿舎の卓に、麻布をかけた籠が一つ置かれていた。
「本日、こちらに届いております」
ヴェッセルが板を開く。
「僕にですか」
「犬に、と」
麻布をめくると、薄く切った肉が並べてあった。塩を振って、丁寧に重ねてある。
「検分は済んでおります」
「……はい」
「それと、明朝の視察の随行につきまして、先方より申し入れがございました」
板の上を指がなぞって、止まる。
「犬も連れてくるように、との由にございます」
扉が閉まる音がして、それきり廊下は静かになった。
トラマルは寝台の脇で横になっている。膨れた腹が、息に合わせて上下していた。
「……お前、明日もお役目だってさ」
薄目が開いて、また閉じた。