夏木 花 / 第37話

第6話 読み上げられた名

 灯は、いつのまにか燃え尽きていた。外套を着たまま寝台の縁に座っていたフェルドウィンは、扉を叩く音でようやく立ち上がった。  夜が明けきる前だった。  入ってきたのは、細い紐を何本も肩にかけた男だった。名乗らないまま、フェルドウィンの前に立って、片手を横に上げてみせた。同じようにしろということらしかった。  男は紐を腰に回し、指で押さえた場所を紙に書き取った。肩から腰まで測って、また書いた。 「もう少し、背筋を」  伸ばすと、男は測り直して、道具をまとめた。トラマルが寝台の下から出てきて足元の匂いを嗅いだが、男はそちらを見なかった。  帯が届いたのは、それからすぐだった。黒い革で、金具が二つ付いている。剣を吊って立ってみると、歩くたびに鞘の先が腿に当たった。歩幅を狭くすると当たらなくなり、そのぶん、歩き方が自分のものでなくなった。  ヴェッセルは、廊下の端で待っていた。フェルドウィンの腰のあたりに一度だけ目をやって、それきり何も言わなかった。  大神殿の前は、広い石畳だった。石段の下に板の壇が組んであって、職人が二人、柱に細長い木の飾りを括りつけている。塗りが途中で止まっていて、下のほうだけが白かった。 「足りたか」 「祭りの分がありましたので」  括り終えると、二人は壇を下りていった。  壇の上には、白墨で小さな印が引いてあった。 「ここです」  ヴェッセルは印の縁を靴の先で示した。 「犬は左に。手は下ろしたままで」  石畳には、もう人が入りはじめていた。子どもを肩に乗せた男、籠を抱えたまま立ち止まった女、石段に腰を下ろして待っている老人。人が増えるにつれて、声が一つの塊になって、壇の下から押し上がってきた。  壇の脇に、見覚えのある外套の色が固まっていた。カレンの村の一団だった。ハーヴィンが背伸びをして、こちらを見つけ、手を上げかけて、下ろした。  役人が壇に上がってきた。若い者が後ろから紙をもう一枚渡す。 「先の代の触れの写しです。文句は、そのままで」 「そのままでいい」  役人は二枚を重ね、上の一枚を開いて、端を指で押さえた。 「——第九月の十八日、大神殿祈誓の間において、神託の儀が執り行われた。光の導きは、この地に示された」  声が石壁に当たって返ってきた。 「第七代の器、フェルドウィン・フェンレイ」  石畳が鳴った。  どこかで女の声が高く上がり、それに男の声が重なって、名前が二度、三度と繰り返された。「器」と読み上げられたその名が、下りていくあいだに「勇者」に変わっていた。  壇のすぐ下で、子どもを肩に乗せた男が何か訊かれて答えていた。 「北の国境の方から来たんだと」 「山の村の子だと聞いたぞ」 「どっちでもいい。来たんだから」  子どもが手を振った。フェルドウィンは、手を下ろしたままにしていた。 「——先の代のごとく、王国はこれを迎える」  役人は最後まで読み、紙を巻き直した。  トラマルは、印の左で座っていた。声が上がったとき、口を大きく開けて欠伸をして、前足を揃え直した。 「犬がいるぞ」  と、誰かが笑った。それだけだった。  壇の脇の外套の色は、読み上げが終わるとすぐに動きはじめていた。誰かが後ろから短く声をかけ、村の一団が石畳の端へ寄っていく。ハーヴィンだけが一度立ち止まって、壇の方を見上げた。それから、押されるように歩き出した。  名を呼ばれても返事はいらないと言われていたので、フェルドウィンは立っていた。手のやり場がなかったので、下ろしたままにしておいた。それが言われたとおりの立ち方だと気づくのに、少しかかった。  壇を下りると、裏側の日陰に床几が出ていた。板を抱えた男が待っていて、炭を耳の後ろに挟んでいる。 「そこに立っていてください。少しのあいだです」  男は炭を取って、紙に線を引きはじめた。 「剣は、もう少し前に。……そう。顎は引かないで」  言われたとおりにすると、首の後ろが張った。 「犬は、どうしましょう」  もう一人が後ろから紙を覗き込んで言った。 「入れておけ。並びが締まる」  トラマルは日向の側へ行って伏せた。若い方が舌打ちをして、板ごと向きを変えた。 「日付を」 「え」 「銘に入れますので。今日の」 「刈り月の——」  言いかけて、止まった。 「……第九月の、十九日です」  炭が止まった。若い方が下を向いて、肩を鳴らした。年上の方は何も言わずに線を引き直し、それから思い出したように口の端を上げた。  その日、フェルドウィンが誰かに何かを訊かれたのは、それだけだった。  少し離れた石段では、役人が数人集まって相談していた。樽の数と、灯の数を数えている。祭りの分を回せばいい、と一人が言い、別の一人が紙に書き入れた。数が合ったらしく、二人ともそれきり顔を上げなかった。  石畳の端では、荷を広げている者がいた。板に並べた小さな木彫りを、通りかかる者に見せている。四つ足のものだった。 「昨日のうちに彫らせたのか」 「昨日のうちですよ」  トラマルは見向きもしなかった。  絵師が板を閉じて礼をし、日陰から出ていった。入れ替わりに、襟の詰まった上着の男が石段を下りてきた。ヴェッセルを見つけて、まっすぐそちらへ行った。 「中環の広場の件です。組合で場所を空けます」 「日取りは決まっておりません」 「三日のうちにしていただきたい。人が集まっているうちが良い」 「承ります」  男は頷いて、ついでのようにフェルドウィンの方を見た。目が合ったが、何も言わずに石段を上がっていった。  ヴェッセルが板に一行書き入れ、それからフェルドウィンの前に立った。 「僕は、何をすればいいんですか」 「何も」 「何も、というのは」 「宿舎へお戻りください。日が落ちるまでは、外へは出られません」  ヴェッセルは書き物の板を小脇に挟み直した。 「明日のことは、決まりましたらお伝えします」  石畳の向こうで、また名前が呼ばれた。呼んだのは知らない声で、こちらを見てもいなかった。 「村の人たちは」 「これからお発ちになります。荷は積み終わっています」 「会えますか」  ヴェッセルは石畳の向こうへ目をやった。人の切れ間の先に、荷馬車の幌が見えていた。 「向こうの門です」  フェルドウィンは歩き出した。歩幅を狭くするのを忘れて、鞘の先が腿に当たった。  トラマルが立ち上がり、言われたとおりの側についた。  門の方から、荷に縄をかける音がしていた。
カクヨムにて先行公開しています。

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